賛助会通信「はれのちくもり」発行しました(2019年4月号)

法人本部 2019/05/22

多摩棕櫚亭協会 賛助会通信「はれのちくもり」第112号(2019年4月号)を発行しました。

賛助会通信2019年4月号

主な内容は

  • 福島研修旅行について
  • 出版のお知らせ
  • ご支援・ご寄付のお礼
  • 新人職員のご挨拶
  • 各施設の予定・お知らせ

です。是非ご一読くださいませ。

 

また、賛助会へのご入会につきましては、こちらのページをご覧ください。

賛助会へのご入会

なお、お手元に届いていない会員の方や、住所変更等希望される方がいらっしゃいましたら、お手数ですが棕櫚亭までご連絡くださいますと幸いです。

『ある風景 』公開日程延期のお詫び

法人本部 2019/05/10

いつも当法人及びホームページをご愛顧頂きありがとうございます。

本の出版に先駆けて特集/連載しておりました「ある風景」の公開を5月17日に予定していましたが、発売日が5月28日に確定したことを受け、公開日の日程を変更することにいたしました。

(公開変更前)5月17日 → (変更後)5月31日

「楽しみにしています」とお声かけしてくれる多くの皆さんには、大変申し訳ありません。

そして、ぜひとも

『精神障害のある人の就労定着支援』  天野 聖子 著

を、予約くださいませ。

「ある風景」編集委員会

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特集/連載 Part ⑫『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “未来へのヒント”

法人本部 2019/04/26

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

未来へのヒント

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
常務理事 高橋 しのぶ
(精神保健福祉士)

作業所の原風景

「作業所のある風景」というと、一番目に浮かぶのは棕櫚亭Ⅰ(だいいち)の台所です。私が20代の時に過ごしていたのですから、古い一軒家の頃です。台所の隅にL字型に二つベンチが置いてあり、灰皿を挟んで丸椅子が置いてありました…… そう、灰皿が作業所の一番いいところにあった時代です。昼食作りの合間や昼休み、夕方によくお茶飲みながらみんなでおしゃべりしていました。台所はⅠの中心地と言ってもよく、時として大勢でにぎわう空間であり、そして時には一対一で静かに語り合う穏やかな場でした。

思えば、私が初めて棕櫚亭を訪れたのもⅠでした。その時はまだ学生で、市内の公民館にある喫茶運営に関わっていました。そこで作っているクッキーを保存する瓶を探していたら、「リサイクルショップに見に行ってみたら?」と教えてもらったのです。そのころのⅠには、通り沿いに棕櫚の木がまだ何本も生えていて、まるで映画に出てきそうな一軒家でした。土間のようなところにリサイクルショップ「ぱるむ」があり、共同作業所という言葉すら知らなかった私は、「国立にこういうところがあったんだ!」という驚きとともに、「この小さなコーナーに大きな瓶なんてあるのだろうか?」と思ったのですが、ありました(友人の情報は正しかった)。それにもまして驚いたのは、応対をしてくれた女性が、私が喫茶の当番日にコーヒーを飲みに来てくれたグループのお一人だったことです。その時は、まさか1年後に自分がぱるむの業務で市内を走り回ることになるとは思いませんでした。

生活者になる

大学卒業後、喫茶店運営に夢中なままの私は、アルバイトをしながら別の大学の通信課程になんとなく在籍し、これまたなんとなく友人(山地さんです)に誘われて棕櫚亭のアルバイトを始めました。私が入った時には作業所は三つになっていて、各作業所についていた「明るく元気に美しく」「食えて稼げてくつろげて」「寛いで寛いで寛いだら」というキャッチフレーズをもとに、創設者である4人の職員たちが得意分野を生かして、棕櫚亭や精神障害者を取り巻く歴史、補助金のこと、病気のことについて研修してくれました。

メンバーと一緒に作業をし、専門家ではなく共に地域で暮らす生活者として関わることを棕櫚亭は何より大切にしていました。一方、公民館で社会教育と出会い、様々なところへ研修で連れて行ってもらっていた私は、他の同年代の人よりも社会を知っていると思っていたかもしれません。なんと世間知らずだったことか…… ほどなく自分がそもそも生活者になっていないことに気づきました。だって、自分の生活の土台となることは家族にやってもらっていたのですもの。

昼食作り、公園清掃、雑巾作り、毎日先輩メンバーに教えてもらいました。私は食材の値段もあまり知らなかったので、みんなで出し合った予算で人数分の材料をやりくりすることや料理の仕方から始まって、精神病院のことや薬、生活保護制度のこと等、ほとんどが新しい世界でした。「お母さんに習わなかったの?」「やったことないの?」等々、特に昼食作りでは先輩主婦メンバーが驚きながらもやさしく教えてくれ、料理が上達していく事に喜びを感じていました。

「楽しくて、お互いのため」に棕櫚亭と地域は結びついていた

棕櫚亭は私が入ってほどなく、法人化に向けて動き出しました。社会福祉法人になることがどういうことかを深くわからないまま、私は三回目となるコンサートの担当になりました。

「自分たちが楽しくて、棕櫚亭のためになる」をモットーに集合した運営協力グループ「外野手(そとのて)」と、これまでの2倍近い1,500席余りのホールを使っての“憂歌団”コンサート。法人化のための資金作りも掲げつつ、1年間かけて準備しました。夜の実行委員会では誰を呼ぶのか、どうチケットを売るのかなどを侃々諤々(かんかんがくがく)議論し、終わったあとの飲み会から合流する人達もいて、外野手メンバーの家族が経営していた居酒屋の2階では、これまで出会わなかった地域の人たちとの時間があっという間に過ぎました。そして迎えたコンサート当日、会場の一番後ろから“憂歌団”のメンバーが登場してくるのを見た時には、もう感無量で涙がこぼれました。

とはいえ、ただ一生懸命なだけでしなやかさのなかった私は、周りの方たちにたくさんの迷惑をかけました。結果として目標としていた資金が作れたかどうかは覚えていないのですが(笑)、私にとってこの外野手コンサートから得た経験は格別なものです。

コンサートの棕櫚亭らしかったところは、福祉を前面に出さず、そのアーティストを聞きたいお客さんに来てもらって、さりげなく棕櫚亭のことを知ってもらう、そのようなスタンスであったことだと思います。それは、Ⅰのキャッチフレーズである「明るく 元気に 美しく」にも正に表現されています。「福祉っぽくなく」とも言っていましたが、「作業所を地域の中の特殊な場所にしない」という設立からのモットーが随所に表れていました。

憂歌団(木村さん)とコンサート打ち上げで

憂歌団(木村さん)とコンサート打ち上げで

地域という視点では、楽しそうな事や興味深いテーマに出会ったら身内だけで行わない、地域に広げるというのも棕櫚亭が大事にしていることです。現在のこども食堂や学習支援への夕食配達という、地域貢献活動から繋がった地域の方たちとの協同も、「食」だけにとどまらず、一緒に研修を開催したりするようになってきています。ここにも棕櫚亭を開いた場所にしよう、楽しいことは自分たちだけで独り占めしないという作業所文化が継承されています。

作業所を再度考える

 今後、障害者自立支援法という新しい枠組みの中で、作業所がそのままの形で存続していくことはいよいよ難しくなってきました。この法律がどうかということは別として、これまでの作業所活動のよかった部分、反省すべき部分、両方を振り返るときが来ていると思います。それを踏まえ、今後どのような活動をしていくとしても、これまで大事にしてきた「安心してチャレンジできる」「仲間に出会える」「自信の回復につながる」そして何よりも「元気になる」場所であることを目指してきたいと考えています。

2006.9 はれのちくもり ピアス物語 「作業所の今、そして今後」 より抜粋

これは、棕櫚亭が2006年に出版した『はれのちくもり ピアス物語』に、私が寄せた文章の最後の部分です。この頃作業所はピアス設立後の機能の再構築というテーマに加え、2000年前後から始まった社会福祉の基礎構造改革により、「支援」や「サービス」という言葉が各現場に入ってきていました。また、出版と同年に施行された障害者自立支援法により、現在の施設は5年以内に法に定められたいずれかの事業体に移行しなければいけないことも決まっていました。この大きく精神保健福祉の流れが変わり始めた頃、作業所はその機能の必要性と重要性を確信する一方で、先行きが見えない不安に包まれていたように思います。実際、この頃私がいた立川では、作業所連絡会の話し合いを何回も行って、作業所機能の存続(地域活動支援センター)を行政に求めていました。

時は流れ、自立支援法が総合支援法に変わった現在、東京に200か所以上あった作業所は法律上消滅しています。その多くは個別給付と呼ばれる就労継続支援事業B型に移行しましたが、平均工賃によって収入がかわる報酬の仕組みに存続の危機を感じているところも多いと聞きます。さらに規制緩和という名の下に競争原理が導入され、事業所の役割はますます細分化され隙間を埋めづらくなりました。社会自体も、少子化や高齢化、そして災害が繰り返される中、家族は分断され、その影響は高齢者や障がい者、ひとり親、こどもなど弱い方弱い方へと拡がっています。

そのような中で、共同作業所のような機能を補助金や委託費で展開していくことは、もう現実的ではないかもしれません。しかし、時に混とんとしつつも、作業所には社会を知る上でのすべてがあったことは、私たちに未来へのヒントをくれているような気がします。

生身の人間同士が時にぶつかり合いながらともに過ごすことによって相互理解が生まれる場所であった、その相互理解から生み出される「居場所」という宝物だったと思います。

最後に…… 棕櫚亭Ⅰの台所

  大した事務仕事もなかった入りたての頃、よく夕方にⅠの台所のベンチでメンバーとおしゃべりしていました。ある時、当時私の母と同じ年くらいのメンバーと二人になった時間帯がありました。なんてことない話から、その方は自分のお母様の話をし始めました。その方の若い頃に、お母様が自分の目の前で服毒死されたのだそうです。私は絶句してしまい、何を返したか覚えていません。その方はまるでその時に戻ったかのように、お母様がこころの病で苦しんでいたこと、目の前で薬を飲んで苦しむ姿をどうしようもできなかったことなどを涙ながらに語り、最後に「こんな話をしてごめんなさいね」と涙を拭っていました。私は、それまでその方の何を見ていたのだろうと思いました。作業所でのやりとりだけで、その方に対する印象を勝手に決めつけていた自分をとても恥ずかしく思いました。

この人に話して良かったと思ってもらえるような人になりたい、少なくとも話したことを後悔するような職員にはならないように力をつけようと強く思いました。それが私の人と関わる仕事を続けていく上での原点の一つです。常に自分の姿勢やありようを変えてくれる、それを体感させてくれる時間でした。

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

ある風景も最終回を迎え、高橋さんの台所からの報告は本当に情景が目に浮かぶようです。「生活者になる」のくだりは、そうそうあるあると思わず声をだして読んでいました。私も十代の頃から病気になった為、生活のほとんどを親がやってくれ食材の値段に目がいくようになったのも恥ずかしい話ここ数年のことです。でもそんな「野菜の値段が高くなったですね。」という話題から人は心を開き様々な話題に及ぶのも、長く病気になっていると気づきません。社会に繋がるというのは生活を自分で組み立てる楽しさを経験していく、そんなことを高橋さんの文章は言っているような気がしました。憂歌団の話も楽しいお話です。障害者自立支援法、総合支援法のなかを棕櫚亭がどう泳いでいくか、そんなことを考えながらも大切なことを伝えています。「この人に話してよかったと思えるような人になりたい、少なくても話したことを後悔するような職員にならないように力をつけよう」と。

この原点こそが大切なことだと思いました。

ある風景も今回で最終回です。次回は対談編になります。お楽しみに!

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

お待たせいたしました! 5月28日に「精神障害者のある人の就労定着支援~当事者の希望からうまれた技法~」が発売されます!!

法人本部 2019/04/24

「精神障害者の就労定着」これは今、障害者の就労支援の喫緊の課題です。しかし裏を返せば、精神障害者が当たり前に働くことが出来る時代になったということです。そして、こんな状況を今から50年前に誰が想像したでしょうか?

1964年に起こったライシャワー事件、これは当時の精神医療の在り方に大きな影響を与えました。「精神障害者を野放しにしておいていいのか?」今から考えれば何とも差別的なものですが、そんな議論が巻き起こったと当時の新聞記事は伝えています。さらに翌年(1965年)施行された精神衛生法の改正にも、紆余曲折があったと伝えられています。そして国策はこれを契機に、精神障害者の隔離収容に大きく傾き、精神病院が乱立されていきました。5月28日中央法規出版から発売となる棕櫚亭3冊目の書籍・天野聖子著・多摩棕櫚亭協会編集「精神障害者のある人の就労定着支援~当事者の希望からうまれた技法~」は、まさにその約半世紀前から話しが始まります。

閉鎖的な病院内、しかしその様な中でも当然あった「退院したい!」「自由な生活がしたい!」「働きたい!」という当事者達の希望の数々。この本にはそれを叶えようと奮闘する一人のワーカーの姿が描かれています。そして、そのワーカこそが棕櫚亭創設者そして前理事長である天野聖子さんです。しかしそれらの希望が実現するのは、その奮闘から約20年後の1987年、棕櫚亭Ⅰ開所まで待たなければなりません。この様に、棕櫚亭が現在行っている活動の多くは、病院内に埋もれてしまった多くの希望、そして叶わなかった無念からうまれたものです。

またこの本は、一冊三部構成となっており、上述した内容は第2部に収められています。第1部には、棕櫚亭が1997年から20年の歳月をかけて蓄積してきた就労支援・定着支援についての内容を、第3部には棕櫚亭Ⅰ開所から組織を作り上げ、次世代へ継承してきた30年をたどりながら、そこに詰まった人材育成や組織作りの考え方やノウハウを記しています。どれをとっても、今福祉の現場で働く方、これから働きたいと思う方に興味深い内容になったと自負しております。ぜひご一読下さい。そしてこの本が、「精神障害者の物語は、全てここから始まった」と皆さんに再確認して頂けましたら幸いです。

(理事長 小林 由美子)

※発売は5月28日ですが、先行予約は当法人のHPより5月10日から開始いたします。

詳しくは   ↓ (予約開始前につき、SOLD OUTとなります。5月10日をお楽しみに!)

https://shuro.official.ec/

新年度にあたり ~お祝いムードの後ろに透けて見えるもの~

法人本部 2019/04/10

平成30年度が終わり、31年度が始まりました。そしてこの平成も後一ヶ月で幕を閉じ、令和と名付けられた新しい時代がやって来ます。これで棕櫚亭の活動も昭和、平成、令和と三時代を跨ぐことになります。 今、世の中は新年号決定でお祝いムード一色です。しかし、福祉の現場から社会を見る限り、おおよそそこからはかけ離れた現実が見えてきます。

平成30年度は障害者総合支援法や障害者雇用促進法の改正、さらには報酬単価の見直し等様々な外部状況に揺るがされた年でした。 棕櫚亭でも、ピアスで就労定着支援事業を、なびぃでは自立生活援助事業を新たに展開し、オープナーでも精神障害者の職場定着のための新規二事業(「医療機関・就労支援機関連携モデル事」「精神障害者就労定着支援連絡会事業」)を受託しました。これらの事業を通し昨年度は今まで以上にたくさんの当事者の方や、関係機関の方に出会う事が出来ました。現場もいろいろ苦労はありますが、非常に盛況で多忙を極めつつも職員全員で頑張り切った1年でもありました。そこは確かにそうなのです。でもどうしても拭えない思い…

「本当に困っている人に私達は出会えているのか?」

それはどんな時代でも、自分達の支援が全ての人に届く訳ではありません。しかし、それを承知の上でも、その届かない感覚は年々広がる様に感じています。 今、福祉現場は報酬単価のという見えない鎖でがんじがらめにされ、そことの格闘でエネルギーを使い果たしているのが現状です。一方、経済の停滞や少子高齢化を背景に、社会問題はますます複雑化、深刻化しています。タイトになる福祉現場と、一見の豊かさで覆い隠されていく社会問題、出会わなければならない二者の溝はさらに深くなっていく様に感じてなりません。どんどん掻き消されて行く声に、私たちはどうコミットメントしていくのか?お祝いムードに浮かれる世の中を見ながら、その後ろに透けて見える本当の社会の姿を見続けて行かなければと思いを新たにしたところです。取材・メディア掲載/講演

今年は、棕櫚亭の30年をまとめた天野聖子著「精神障害のある人の就労定着支援~当事者の希望からうまれた技法~」が5月28日に発売されます。ここには正に、社会にコミットメントし続けて来た棕櫚亭の足跡が記されています。ぜひ皆さんご一読下さい。 そして今年度も棕櫚亭をどうぞよろしくお願いいたします。

理事長 小林 由美子

当法人ホームページ www.shuro.jp で近日中に

新刊予約ページをOPEN予定です!

ホームページのチェックをお忘れなく!

 

 

特集/連載 Part ⑪『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “十年先に向かって ― 回想”

法人本部 2019/04/05

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

“十年先に向かって―回想”

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
障害者就業・生活支援センター オープナー 施設長 山地圭子
(精神保健福祉士)

採用面接

棕櫚亭が二つ目の共同作業所を作った頃は、法外施設と呼ばれた無認可共同作業所がどんどん増えた時代です。作業所が持っている安心できる空間や様々な活動は精神障害者の社会復帰、再発・再入院の防止に力を発揮していることが認められて、毎年作業所の数と補助金が(ばんばん?)増えていきました。当然棕櫚亭も事業展開に忙しく、「運転できる男性」が求人条件でした。

ジャズが流れるマンションの一室で髭をたくわえた職員の天野寛(ユタカ)さんは、ウェルカムドリンクの薄味のコーヒーを入れてくれます。棕櫚亭Ⅱの朝はみんなでコーヒーを口にしながらミーティングで始まります。

採用実習でⅡのミーティングで紹介された私はまず、職員ではなく「監督」と呼ばれる男性に内職のペーパーバックづくりを教われることになりました。その人は、テーブルを囲み黙々と作業をする老若男女の後ろで時々指示し、でも何もしません。

休憩中は「どこから来たの?」「麻雀できる?」「棕櫚亭で働くの?」と皆声をかけてくれるので、緊張なんてほぐれませんでした。

「監督」は作業手順を確認し仕上がりを指摘したり、運転免許の有無を聞いてきたりと、「試し」をいろいろしてくるので気が抜けず、必死感が出まくりだったと思います。後日採用の知らせを受けたとき、決め手は「監督」の一押し「運転もできるし、女でもいいんじゃないの・・・」棕櫚亭の一員として迎えられる素晴らしい一言をもらったのでした。

精神保健福祉の分野に無知だった

知識も経験も知らなかった私は、メンバーとともに作業して、食事を作って食べて麻雀する日々の中で、少しずつ心の病や精神病院の現実を教えてもらいました。小説のような物語が一人ずつにあり、棕櫚亭と縁あって利用するまでの長い道筋には、医療・福祉・家族・法律などいろんな社会の問題が透けて見えました。ぽつりぽつり語る赤裸々な体験談に私は驚いたり腹立たしく思ったりし、世間知らずであることが申し訳なく思いました。私のような無知や無理解が精神保健福祉業界を遅れさせている原因だと強く感じ、一人でも多くの人に棕櫚亭を知ってほしいと私はバザーやコンサートに打ち込みました。

自分と向き合うことの大切さ

対人援助の上で利用者と自分は「合わせ鏡」です。若かりし私はメンバーを傷つけ、傷つき、調子に乗って失敗し悔やんで眠れない夜を何度も経験しました。感情を引き出し、引き出されてしまっていたのだと思います。こういう時は、思い込みや先入観で相手を決め付けていたはずです。価値観や常識に囚われていたかもしれません。自分と向き合うこと・自分を疑ってみること、自分の中に生まれる感情をコントロールしていかないと、この仕事は続けていけないと深く思いました。反省や後悔を通じて、対人援助の仕事への覚悟をしていきました。

「縦でなく横」の関係

作業所では支援者の前に、「生活者として居る」ことを求められました。一緒に悩むこと、横に並んで取り組むことが基本。目上のメンバーに甘えたり、対等にものを言うことが当たり前な空間です。自然に生まれる関係は横のつながりでした。こうして出来上がる関係はメンバーも職員にも成長を与えてくれました。

団塊の世代の創設者は議論好きで(時に迷惑だったが)、喧々諤々にものを言い会議は白熱するので私の眼には恐ろしく映りました。でも決めるときは話し合い、判断に悩むときほどメンバーに意見をもらって、隣の林さん・知り合い・有識者などから情報を引き出し論議することは重要なことだと言う事を知りました。私は言いたいことを言う仲に入れてもらえて「何かしゃべってやろう」と背伸びしながらワクワクしていたことを覚えています。仕事に生きる体験とはこういうものだと思います。

設立から30年の間には精神保健福祉の法律や行政の変革が絶えませんでした。時代の潮流に抗い、批判しながらも周りを味方につけながら棕櫚亭は一つ一つ丁寧に方針を作ってきました。難しい判断の時には「一旦3か月やってみて、うまくいかなければ軌道修正」で乗り越えてきたと思います。しっかり振り返りすることを課し、問題を明確にして前に進むことは棕櫚亭のスタイルです。

障害者自立支援法に対して

施行の前「グランドデザイン」という言葉を聞いたのは、元厚労省 村木厚子さんからです。彼女は淡々と優しい口調で、風通しの良い福祉になるイメージを説明しました。妙な説得力で反論することもできず、「就労支援」が制度設計に組み込まれたこともあり、神妙に聞き入ったことを覚えています。

ところが作業所は事業所、活動はサービス、運営は経営。メンバーはサービスの受け手、補助金で安泰は無い。違和感だらけの中、頭の中も切り替わらず渦の中に巻き込まれていきました。作業所時代を恨めしく思ったものです。

それからの棕櫚亭は、自立支援法の事業体にソフトランディングすること舵を切り、事業縮小の苦渋の決断を行い、働き方も変えながら時間をかけ切磋琢磨してきました。

この法律も今年で施行10年目だって・・・

「精神障害者の幸せ実現」に向かって

IMG00004_Burst04福祉のあり方が大きく変わり、制度への疑問や戸惑いが残る中ではありますが、こんな時だからこそ課題や目指すべき方向性をだして私は頑張っていきたいです。発想を変えることも迫られるかもしれませんが、一人一人が役割とミッションを自覚して「理念」を追い求めていこうと思います。職員同士とのコミュニケーションを活発にし、モチベーションを高くすれば超えていける、手に入るものも多くなるはずではないか思う。

作業所で得られた経験と実感を持って自分を鼓舞し、変革を恐れずみんなで挑戦したいと思っています。

理想は、「10年先も精神保健福祉業界のパイオニア!!」

End

~ 追記 ~

この原稿を書いた後しばらくして、声帯と飲みこみの神経が動かなくなるケッタイな病気に罹りました。医者はストレスフリーを心掛けるようにと仕事を休む指示と大量の薬を出してきました。丈夫がウリの私は結構へこんで、あれこれと考え弱気になる「どうした?自分」状態が続いたのです。8日間休んで無事に復帰していますが、体力勝負の働き方に反省しきりです。

2019年の4月から私の働き方改革を決意し、実施していきます。

目標は、「悔いのない10年に!!」

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

山地さんの原稿はある風景が浮かぶだけではなく、棕櫚亭が大事にしてきた、振り返りの大切さ、横の関係の大事さがうかがえます。自立支援法でおおきく舵とりの変更を迫られましたが、10年先も精神保健福祉業界のパイオニアたる矜持をもちつづける心意気は一緒に働かせていただいている身に取って心強く思います。とりあえずやってみて振り返り少しづつ修正していく理念は作業所時代にできていたのかもしれません。職員同士のコミュニケーションを活発にし、モチベーションを高く持つ心意気で皆が同じ方向を見た時、精神障害者の幸せ実現を多くの疾患にある人々との船出を共に歩んでいくのではないかと希望の光をともに照らしすすむ。そんなことを考えました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❿『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “贅沢な時間をすごせた時代 切り取ることができない大切な時間”

法人本部 2019/03/08

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

贅沢な時間をすごせた時代 切り取ることができない大切な時間

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
障害者就業・生活支援センター オープナー 主任 川田 俊也
(精神保健福祉士)

 「どうして精神分野で働くことになったのか」今振り返る

思えば、物心ついた頃から僕の周りには障がいのある方がいて、彼らが地域で暮らしていることが当たり前の生活で育ってきたように思います。聴覚障害者の親戚、脳性まひがある幼馴染、そして同じマンションには気分障害の方がいて、彼らとの関わりの中で、戸惑い、何か自分にできる事はないか? どうしたら彼らの手助けができるのだろうか? などと子供時代を過ごしているうちに、気がつけば大学では心理学を専攻していました。
授業を受け、やがて教授の助手としてカウンセリングに同席し始めると、訪れる人達をみて更にいろんな思いに駆られるようになりました。
例えば、カウンセリングの間、顔色を変えず全く笑顔を見せないAさんは、どのような気持ちで座っているのか考え、気がつくとAさんをじっと見つめている自分に、はっと気がつくのでした。このようなことを繰り返すうちに、まぁ何はともあれ「Aさんの笑ったところをみてみたい! 笑わせたい! なんとかしたい!」と感情がわいてきたのを今でも思い出します。
「もう少し踏み込んで彼らに関わっていきたい」 そんな自分の心境の変化が芽生えるのも時間の問題で「もっと精神障がいのある方とかかわりあえる仕事につきたい」と考えて精神保健福祉士の門を叩きました。今ここにいるのは、このような経緯なのです。

私自身何でも全力投球して目の前のことに没頭してしまう性格でした。いまでこそ主任という立場になり、何か起こってもそれなりに落ち着いて対処することが普通になってきましたが、昔は体育会系ののりでとにかく動いてしまうことが多かったように思います。そんな私がどちらかというと文化系の臭いを纏う(まとう)棕櫚亭と出会ったのは、学生時代に実習したことに始まります。ともかく一生懸命やっている姿が評価されたのか(笑)縁あってその後棕櫚亭で働くことになりました。最初は週一回のスポーツプログラムを担当する非常勤職員として勤務がはじまりました。アルバイトでスポーツインストラクターをしていたのもよかったのかもれません。

メンバーさん達からしてみれば、「こういう職員って嫌だよなぁ」と今なら思っただろうし、「よく棕櫚亭は採用してくれたよなぁ」 と思うときがあります。
そのころ思っていたことは「精神障害者をなんとか普通の生活ができるようにしたい」、「健康にさせたい」という気持ちが強く、思いだすと「思いあがった新人」という感じがして今顔が赤らむ思いがします。もし、自分と同じような新人がきたら「頭でっかちになるな!」と言うと思います、間違いなく(笑)。

自分は精神疾患に対して偏見みたいなものはないと考えていました。しかし、地域で生活している人というよりも、「病者」と感じ接していることがあったことを考えると「偏見がなかった」といえるかは、今となってははなはだ疑問に思うところです。勿論、今はそんな考えが間違っていることは重々わかっています。

この仕事を続ける上で、切り取ることができない大切な時間

連載されている「ある風景」の執筆依頼があって、構想を練っている時に自分には「ある風景」をひとつには絞れないと思いました。考えれば考えるほど、「この日、この場所、この場面」ひとつひとつをとってみても、真剣勝負で濃密な時間を過ごしていました。

ベランダの喫煙所で「おい! 川田! お前は間違ってる」とタバコを吸いながら本気で叱ってくれたUさん、夕方、お茶をしながら「息子のように育てたいのよ」と話してくれたKさん、ソファで相談にのってもらいながら「大丈夫!なんとかなる」と励ましてくれたKさん、市民祭や一泊旅行の実行委員を担当したとき、「一緒にやれてよかった!」と話してくれたYちゃん、送別会を開いてくれたとき、ハグをしてくれたSさん…… 数え上げれば切がないほどのメンバーさん達の顔が浮かびます。

言えることは、僕を育ててくれたのはメンバーさん達の率直な話だということです。もちろん先輩同僚職員のアドバイス等もたくさん受け、感じるところや考えさせられることもたくさんありました。それでもやはり大きいのは、メンバーさんの日々のかかわりでの率直な意見や表情、空気感など関わりの中から得たものです。ちょっと今では考えられないかもしれませんが、毎月あるグループミーティングで、私自身の1ヶ月間の振り返りを「じっくり、たっぷり」してもらっていたことを思い出します(これってものすごい贅沢な時間(笑))。

当時の僕もなかなか頑固で、言われることも多かったのですが、メンバーさん達に対しての感情やああしたい、こうしたい20190308121114ということを率直にぶつけていました。「そこまで言うのか?」というのもあったかもしれません。メンバーさん達からは「いやいや違うだろう!」という押しかえしもたくさんありました。結果的に僕が間違った態度も多く、素直に「ごめんなさい」と謝ることもたくさんありました。この年になっても人に謝るということができることは大切な財産だと思います。

とことん悩む時間をもらい…なんていうと少し格好をつけていて、実際は、そのままこの分野で働くことに自信を失うこともしばしばありました。少し前言を撤回するようですが、「口で言うほど素直なやりとりというのは簡単じゃない」という気持ちも半分はあります。

それでも、社会人ほやほやの僕に対して、社会経験豊富で自分自身と向き合ってきたメンバーさん達だったから、受けて止めてくれていたのかと改めて思えます。

本当に自由に過ごさせてもらっていましたし、この貴重な時間は私のキャリアにとって切り取ることができない貴重な時間だったと思います。

メンバーさんから育てられ、自分の気持ちが変化する

私もなんだかんだで中堅職員として、職員にいろんなことを伝えなければいけない立場になってきました。そんな私が苦手なことの一つは職員を育てることだという自覚があります。だから、すこしこの場で語りたいと思います。私の場合、一つのエピソードが自分を変えたというものはありません。メンバーさんとの日常的な関わりであるユニット活動やお茶を一緒に飲むこと、一泊旅行、スポーツプログラムなどの活動を通して、本当に徐々に考えや気持ちや姿勢が変わったという感じがします。「心境の変化」とは私の場合そのようなものです。
繰り返しになりますが、入職した頃、メンバーさんの「できないところをどうしようか」と思っていました。そしてそれが、自分の仕事だと思っていました。

しかし、メンバーさんと同じ時間を過ごし、共に笑い、メンバーさん同士が助け合っていたり、褒め合い、一生に悩んで

「最近夜、眠りにくいんだよ」と話し始めた時、他のメンバーさんが相槌を打ちながら「先生に相談してみたら」と、アドバイスする

20190308121025時には泣いて。そんな日常風景が流れていき、この作業所一部に溶け込んだ時に、メンバーさんの「いいとこ探し」をしている自分がいることに気がついていました。棕櫚亭Ⅰ(だいいち)の「ワンピース」になったみたいな感じです。

ようやくその頃の自分が「朝からちゃんと起きないからだよ」と笑いながら自然に応じている姿は、他の人からも違うように見えていたのではないかと思います。

「自分のアイデンティティが崩れ」なんて言うとかっこいいのですが、逃げ出したくなるようなしんどい気持ちと向き合い、理由を自問する。これを繰り返すことで自分自身を見つめなおす…そんなことがあったことをこの文章を書きながら、昨日のように思い出してきました。
私が私の専門家であるように、精神疾患の専門家というのは実はメンバーさん本人自身であり、教科書の知識は所詮、机上の知識であり、現実はメンバーさんから学ぶことが大切なことだと思いました。こんなことを後輩には伝えたいと思っています。

当時の棕櫚亭Ⅰに勤務できたことは私の財産であり、そのことには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

終わりに

仕事を始めて時間がすこしたち、自分がメンバーさんと共に生活をしていくにつれ、仕事をしているというか、自分も成長させてもらっているので、これでお給料を頂いていいのかなぁと思うことがありました(笑)
当時、作業所でメンバーさんにこんな質問をしました。「職員の役割ってなんでしょうか?」と。

メンバーさんは「一緒に悩んでくれて、側にいてくれて、何かあったら話せる相手」と答えてくれました。この言葉は今でも心に刻んでいます。
私の仕事のスタンスは「まず本人に教えてもらう」そして「黒子になろう」ということです。
これからも学ぶ・教わる姿勢は忘れないような関わり方を大切にしていきたいと思います。
たまに、先回りしてしまうことは自分の個性として受け入れてもらう他ないですが(苦笑)

この仕事に対する姿勢というものは就労系のオープナー勤務になった今も胸に刻みながら、職場と職場、そしてオープナーを汗をかきかき駆け回っています。

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

川田さんが実習生で来て、非常勤として働き始めた頃からを知っているので、成長したなあ、Kさんが言うように育ったなあという感じをもちました。
川田さんが入職した頃とてもハンサムで(今もか(笑)) スマートで都会的センスにあふれ、かっこいいなとメンバー皆で話していたのが昨日のように思い出されます。
障害者自立支援法ができ、いろいろメンバーの活動が制限されていった頃、当時あった車の棕櫚亭号を運転し、いろいろな所にメンバーを連れて行ってくれました。
今で言う地活のⅡ型で(その当時は作業所)生活全般にわたって川田さんには相談を引き受けていただきました。その頃のメンバーは40代、50代の重鎮もいて正直仕事しづらかったかとも思います。もともと誠実で素直な性格だったので、この並み居る重鎮に言われたことを自分で消化し自分の仕事に生かしていったことかと思います。
今や棕櫚亭になくてはならない人になった川田さんの考えが後の方に継承されればと思います。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❾『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “始まりはボランティア”

法人本部 2019/02/08

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

始まりはボランティア

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
地域活動支援センターなびぃ 職員 工藤 由美子
(精神保健福祉士)

出会い

あれは1990年ごろ、20年近く勤めた教師の仕事を辞め、立川に引っ越してきた私は、主婦の仕事と週2日ほどのアルバイトではなんとなく物足りなくなり、何かボランティアでもしてみようかと、立川市役所の一角にあった(当時)社会福祉協議会の事務所に行ってみました。そこで、担当の職員さんから、家から徒歩10分ぐらいで行ける棕櫚亭Ⅱ(だいに)を紹介していただきました。

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その頃、Ⅱは開所して間もない時で、高松町のマンションを借りて、所長の寺田さんと若い男性スタッフの天野豊さん(いずれも当時)がいました。個性豊かな利用者の皆さんが代わる代わるやってきて、奥の一室は「タバコ部屋」と呼ばれ、いつも紫煙がもうもうだったことを覚えています。

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 地域活動支援センターなびぃ 工藤 由美子

地域活動支援センターなびぃ | 工藤 由美子

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私は、毎週金曜日の午前中に伺って、利用者さんと昼食作りをさせてもらいました。一緒に買い物に行ったり調理をしたり、さりげないおしゃべりをしたり。出来上がった昼食を一緒に頂いて、だんだん名前も憶えて、自然にみなさんと打ち解けていったような気がします。当時の私は、精神の病いのことはほとんど知識がなかったので、利用者さん一人一人の事情や大変さには思い至らず、少しでも役に立ってもらえれば嬉しいなぁぐらいの気持ちだったと思います。さらに、年1回の旅行に誘ってもらったり、忘年会にお邪魔したり、皆さんから思いがけない贈り物をいただいて、胸が熱くなったことなど、いまも忘れられません。

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また、その頃、多摩総合精神保健福祉センター主催のボランティア向けの講座があり、そこに参加することで、ほんの少しずつですが、精神の病気のことや作業所のことを知っていきました。その中で印象に残っているのは、国分寺の「はらからの家」の福祉ホームを見学したことです。その後の火災によって全焼してしまいましたが、1970年代、私が上京して初めて入居したアパートと同じく、真ん中に廊下のある古い木造の建物でした。古さのためだけではない、何とも言えない寂寥(せきりょう)感があったのは、なぜだったのでしょう。

棕櫚亭の食という文化

その後、立川に棕櫚亭Ⅲ(だいさん)トゥリニテをオープンするに当たり、調理担当として手伝ってくれないかということで、他のボランティアの方々(4・5人ぐらい)とも会い、なんだかんだと相談の結果、カレーの店にすることになりました。中心になってくれる他のボランティアさんがいたので、私は、水曜日だけ通うことになり2人のボランティアで、店の開店から閉店まで切り盛りしました。
しかし、カレーだけではお客さんが増えない状況が続き、日替わりランチもメニューに入れることになりました。水曜日の担当として、毎週無い知恵を絞って、お客さんの喜んでくれそうなメニューを考えました。大変だったけれど、お客さんが来て完売するとなんとも嬉しかったこと。(初めは、一日十食でしたが)そして今思えば、ボランティアのやりたいようにすべてをまかせ、クレームもつけなかった職員の大らかさというか、懐の深さには敬服するばかりです。
その頃の棕櫚亭は、外の手コンサートや立川競輪場を会場にしての家具祭りなどの大きなイベントが毎年のように行ない、お弁当を作ったり、ビラ配りしたり、豚汁を作ったりとなんだか学園祭のような乗りで参加していました。

スタッフとして働くことになる

そんなこんなで数年ボランティアとして棕櫚亭にかかわった私は、1996年より非常勤スタッフとして棕櫚亭Ⅲに勤務することになりました。当時の施設長だった添田さんが、「精神保健福祉法」や「障害者手帳」の資料を出して、利用者のみなさんと勉強会のようなこともした覚えがあります。
翌年、ピアスの設立とともに転任し、厨房を中心に6年間過ごしました。その中で、私自身の意識も、ボランティアのおばさんとしてではなく、他のスタッフと同じように、支援の専門職としての力を少しでもつけていかなければと変化していきました。折しも「精神保健福祉士」資格が国家資格となり、試験に挑戦しました。50代の私にとっては、なかなか厳しいものでしたが、これまで福祉についての勉強を系統だってしたことのない私にとって、福祉全体のことが見渡せる、とてもよい機会だったと思います。

作業所の危機

その後自立支援法が成立し、棕櫚亭もその対応にあわただしい時を迎えます。私自身は病気で1年間休職しましたが、2008年の棕櫚亭Ⅰの谷保への引っ越しにかかわりました。
それに先立つ、引っ越し前の夏のある日の光景は、忘れることができません。それは、棕櫚亭Ⅰが、「地域活動支援センター」への移行を申請するに当たり、国立市の中には「棕櫚亭には、すでになびぃが地域活動支援センターとして存在するのだから、棕櫚亭Ⅰはなびぃと一緒にすればいい」という意見がある。Ⅰを独立したものにするには、利用者の思いを直接市長に訴えたほうがいいという市の担当者の計らいで、当時の国立市長と棕櫚亭側からは小林(現理事長)、工藤の両名と、利用者数名で懇談しました。市長の心を動かしたのは、職員の説明より、「安心していられる」「行く場所があって、みんなと会えるのが嬉しい」「生活にリズムができた」「料理ができるようになった」等等…… 自分の言葉で切実にあるいは淡々と語る利用者の姿だったと思います。
其のおかげもあって、翌年棕櫚亭Ⅰは「地域活動支援センターⅡ型」、なびぃは「地域活動支援センターⅠ型」と国立市から認められ、現在に至っています。この利用者の力は、引っ越し作業でも発揮され、寒くなり始めた12月、無事新しくなった現在の谷保の場所へ移ることができました。

30年近い関わりの中で今思う事

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 地域活動支援センターなびぃ 工藤 由美子
それから10年近く、たよりない施設長だった私は、いつもいつも利用者のみんなに助けられてきたような気がします。様々な問題や課題はいつもありましたが、其の都度、利用者に問いかけ、相談し歩んできました。ぶつかることはあっても、お互いの信頼さえあればなんとかなる。棕櫚亭Ⅰで力をつけた利用者・職員が、次に来た利用者のために、あるいは新しい職場でその力を発揮し伝えていけたら、こんな素晴らしいことはありません。

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そして私事になりますが、常勤職員としての定年を迎え、昨年の4月より週2日なびぃで非常勤職員として勤務しています。私でいいのかなと思いつつ、60代・70代の利用者も増えている今、行く場所・自分を必要としてくれる場所があることは、障害の有無に関わらず、とても大切なことだと痛感しています。高齢化が増々進む中、作業所の良さをもう一度生かしていくことは、棕櫚亭にとって外せない柱だとおもうのですが。

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最後に、ボランティアから出発した私が、なぜこんなに長く棕櫚亭にかかわることになったか。
それは、「私が私でいられる場所だったから」

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

「私が私でいられる場所だったから」という言葉は棕櫚亭に関わる多くの人が共通に持つ思いだと感じます。
「はらからの家」は私にとっても懐かしい思い出があります。病院から退院した当時、「はらからの家」の前にドラム缶で家庭用油から石鹸などを作っていました。「はらからの家」の伊澤さんが大学出たばっかりの頃だったので、何十年前か推し量ってしるべしです。
工藤さんの文中にある2008年の引っ越しと市長への請願も経験しました。まさにその頃は棕櫚亭Ⅰのメンバーとしてライブで工藤さんと過ごしました。
工藤さんが現在なびぃで多くの電話相談者の声を聴いて的確なアドバイスができることも棕櫚亭で培った人間力のようにも感じられます。
「私が私でいられる場所」は工藤さん自身が築きあげたものですが、翻って考えるとメンバーさんにとってそこは心地よい場所なのです。

あたたかい日のあたるその場所は次世代に確実に受け継がれていると思います。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❽『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “組織にとっての過去の意味”

法人本部 2019/01/18

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

組織にとっての過去の意味

株式会社 エムエフケイ
代表取締役社長 森内 勝己
(棕櫚亭OB)

森内 勝己さん プロフィール

株式会社エムエフケイ 代表取締役社長
精神病院ケースワーカーを経て、棕櫚亭には 2000年〜2009年 在籍(棕櫚亭Ⅱ・生活支援センターなびぃ)。退職後現在の会社へ。

出会い

私が出会った上司は、みんな弱さを隠さない芯のある人たちばかりでした(気が強いともいうけど)
そして彼女たちの伝えてくれる言葉には必ず強い意思がありました
「私はこう思う」
今思うのは、
その一言は私やその場所に存在する全ての人たちへの強烈なメッセージだったと思います
そこには目の前の人を、あの人がこう言ってたからみたいな
「他人の目」を通して見るような風景は皆無でした
だからいつも突きつけられていたように思います
「で、あなたはどう思うの」
だから必死で関わるしか有りませんでした
そこでは学校で学んだ知識や綺麗事が書いてある教科書は
一切役に立ちませんでした(そもそも学んでないけど)

私の仕事って何

所長代行という役割をいただいて初めてのメンバーミーティング201901151505261
メンバーに決めてもらうという理想と現実とのギャップ
発言できるメンバーの影響力と言葉にできないメンバーの表情
人を枠にはめようとするおこがましさ
自分を安心させたい・いい人でありたい
たった一回のたった20分ぐらいのミーティングが怖くて仕方ありませんでした
でも、ないものはない、あるもので関わるしかなくて
特に息子だったり、同級生だったり、兄弟だったり、親だったり、近所の知り合いだったり
どんどん裸(等身大)になっていく・いや…… 裸になれない感覚の中でいつも考えていました
「私の仕事ってなに?」
よく思い出す夕方の風景があります
ソファーでじっと佇むSさん
今でも思います。何を思ってたんだろなぁ…… と

いま思うこと

20190115150042私が棕櫚亭を退職してから10年近い年月が経ちました
その間私は、福祉といわれる業界と真逆の世界で過ごしてきました
そして、報道や新聞といった媒介以外で福祉業界と関わることは皆無でした
そんな私が「作業所の風景」を語ること自体おこがましく、恥ずかしさすら感じます
私にとっての作業所は、やっぱり言葉では説明しづらい場所だったように思います
あえて言葉にするなら……
来る理由や好きな理由なんてものは、別に今無理やり言葉にしなくてもいい
今のニーズ・動機ありきでないと何も始めちゃダメみたいな風潮
失敗を攻め立てるような風潮とは違う
来たいからきてる、それでいいじゃんみたいな
それをわざわざ綺麗な言葉・計画書にしなくてもいい
したかったら、そのうち自分でするんじゃないみたいな
でもほっとくのだけはやめよう、決めつけるのだけはやめようみたいな……
実はそれが一番難しいんだけど……

過去の意味 何故作業所を振り返るのか?

最近私が出会った「意味の原理」という言葉があります

“起きた出来事は変えられないが、出来事の意味は事後的に決まる
意思が未来を切り開き、未来が過去を意味付ける”

『人を助けるすんごい仕組み – ボランティア経験のない僕が、日本最大級の支援組織をどうつくったのか』
(西條 剛央 著 ダイヤモンド社)

私なりに解釈すると
長期入院問題の歴史や作業所がなくなったことは変えられないけれど
いつかこうなってほしいという先人たちの願い(意思)が担い手を育て(未来を切り開き)
育った担い手たち(未来)が先人たちの取り組み(過去)を意味付ける的な感じかなと思います

自分がどうしてもらってきたのか
どうしたかったのか
なぜ今こうなっているのか
ほっておくと、歴史や人との関わりって年数に応じて薄れて行くものだと感じます
だから今回のようなプロジェクトはそんなことを薄れさせない組織にしていくための
大切なプロセスのひとつじゃないかと思います
私は、作業所の存在意義はこれから決まっていくものだし
これから作っていかないといけないものなんだと思います

最後に

私自身、先代の会社を引き継ぎ、10年がたちました
そこで一緒に働く仲間から気づかせてもらった一番大切なことは、
過去を理解し、引き継ぐことを諦めないことなのかなぁと私は思っています
それは長く働いてくれている社員を理解することであったり、組織の考え方、風土、行事……
いろんな学びや時代の流れの中でついつい変えてしまいたくなる・変えなきゃいけないと思い込んじゃうものばかりです。たくさんの反発や失敗をへて気づかせてもらいました。もちろん組織として変化していくことはとても大切なことだと思います。ただ、忘れてはいけないなとも思います。
振り返ることができる歴史は、組織(棕櫚亭)にとって未来を作り出す何よりの財産だということを

「山ぢさん、どう思う……」

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

森内さんには、大変忙しい中とは知りながらも、多くの職員が読んでみたいということで原稿をお願いしました。退職された中でも、かなりの存在感があった職員です。メンバーさんからも大変好かれていて、退職する際には、大変惜しまれつつ去っていったという強い思い出があります。個人的には作業所勤務時代、メンバーさんスタッフ30名ぐらいで熱海に旅行に行き夜中、お風呂に入った記憶があります。
森内さんの『ある風景』は散文的で、いろいろに読み取れる点で興味をそそられました。前半の部分では、棕櫚亭がとても熱い気持ちを持った人の集まりだったということが感じられました。組織にとって未来が過去を意味づけるという西條氏の引用と福祉の世界の取り組みと経営されている会社にあてはめた解釈はわかりやすく読めました。過去を総括する大切さもうかがえました。「ソファーで佇むSさんは今頃なにをしているんでしょうか。自由で人の生き方がいろいろあったのだな。」という思いをもちました。そこには説明はいらないという森内さんの姿勢は、多様性を受け入れる今の棕櫚亭にも息づいているように思いました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

【連載】時事伴奏⑤~ニュースと共に考える(新年号)

法人本部 2019/01/10

新年明けましておめでとうございます。

今年は4月に新元号が発表され、新しい元号が5月から採用されるようです。私などは昭和・平成に加えて新しい元号までの3つの時代を生きることになるわけですから、自分が明治生まれの人達に抱いた感慨のようなもの、まぁ例えば「なんてこの人達は長生きなんだ」などという感情を、私に対して若い人達からはももたれるのかもしれませんね。

さて、昨年末に「ある風景」対談を行ないましたが、皆さんにも読んでいただけたでしょうか?対談の後半で「棕櫚亭でも引き続き、人材育成の必要性があり、課題である」と小林理事長が話されていましたが、この言葉が心に少し引っかかったまま正月休みに突入しました。

正月のテレビ番組は、紅白やお笑いなどが目白押しですが、先ほどのような考えが頭にあったものですから、ついつい人材育成にまつわるあるimages番組を観ましたので少し紹介したいと思います。

それは、「ひとモノガタリ」というNHKの番組で何日間か連続で様々な人を取り上げる番組です。一日目は「左官業」という人の定着率が極めて低い業種の会社で、「どうしたらこの会社で長く働いてもらえるか?」という取り組みを始めたという話でした。この会社では新人に一対一でつき、指導するということでした。いつも会社に遅刻して、将来に展望も描けないようなある若者が、お客さんの褒められた言葉を機に変わっていき、いずれかは一人で現場を任されるようになるという展望がみえてきてすばらしいと感じました。話しの要点は、この言わば「会社の問題児」をどのように育成するかという積極的人材作りにあり、その苦悩がよく描かれていることです。左官の親方が、若い人を手にもてあましながらも不器用に愛情を注ぐ姿に感動しました。

「ひとモノガタリ」の二日目は、卓球の平野未宇選手を育てた母親の話です。彼女の開いている卓球教室で、試合の時にみんなが一致団結して応援しなかったことに腹を立てて、子供達を怒ってしまったエピソードを取り上げていました。平野選手の母は、その後よくよく考えて、団結して応援しない状況をつくっていたのは自分で、その自分に対するふがいなさに実は腹を立てていたのだと気がつき、反省していたのが印象に残りました。

この二日間の番組では、人を育てる難しさや工夫が語られていましたが、少子化の中で人材育成にきちんと取り組まなければ、結局どこの業界もやがて先細りしていく危機感のようなものを私は感じました。

そんな中、私自身が一番興味を持ったのは、怒らない指導、共感の指導を学ぶことができたことです。

アドラーという心理学者の言う、その人の目で物事をみて感じて寄り添い、共感するという思想がそこに流れていることも感じました。アドラーは著書「嫌われる勇気」で有名になりましたが、続編「幸せになる勇気」ではこの共感することの大切さが書かれています。人に思いを寄せるときに、自分の目ではなく、その人の目から見える風景や心情を大切にすることは、小林理事長のおっしゃった、棕櫚亭の大切にしているパートナーシップを理解する上で必要不可欠かとも思いました。

つらつらと筆を走らせましたが、昨年末に小林理事長と語った「人材育成」について、年末年始のテレビ番組から考えてみました。

ところで、冬休み期間に、仕事のことを考える私ってやっぱり、昭和生まれの古いタイプの仕事人間なのでしょうか(笑)

新年の挨拶方々、文章を書き綴ってみましたが、時事伴奏を今年もよろしくお願いします。

ピアスタッフ 櫻井 博

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