【急募】「調理・調理補助スタッフ(非常勤)」募集中!

法人本部 2019/01/10

「調理・調理補助スタッフ(非常勤)」募集要項

社会福祉法人多摩棕櫚亭協会とは

1987年、多摩棕櫚亭協会は、一人でも多くの精神障害者が住み慣れた地域で生き生きと暮らしていくことを願い、国立市内に共同作業所棕櫚亭Ⅰを立ち上げました。現在は就労移行支援事業ピアス、国事業の「就業・生活支援センター、オープナー」の連携で積極的な就労支援を行っています。生活支援は、国立市内で地域活動支援センターⅠ型とⅡ型が担い、計画相談事業も行っています。小さな法人ですが、さまざまな活動を組み合わせながら理念である「精神障害者の幸せ実現」めざして職員が一丸となって働いています。

業務内容

精神障害者福祉事業所での配食(宅配)事業の調理及び調理補助業務

  • 普通運転免許取得者は配達業務をお願いすることもあります(応相談)
応募資格

普通運転免許あれば尚可

勤務条件
    • 雇用形態: 非常勤
    • 勤務日: 週2日~(応相談)
    • 休日: 夏季休暇・冬季休暇
    • 休憩時間: 45分
    • 勤務時間: 9時00分~17時00分(応相談)
    • 勤務地  ピアス 就労移行支援事業 »  国立市富士見台1-17-4
    • 試用期間: 3ヶ月あり
給与

※ 2018年6月1日現在

  • 基本給: 1,070円/時間
  • 運転手当
  • 交通費: 1,000円/日(上限)
  • 加入保険等
    各種社会保険完備(社会保険、雇用保険、労災) ※ 該当者のみ
募集人数

若干名

応募方法

まず、以下の担当者にご連絡ください。書類選考、面接、現場実習(謝礼あり)をいたします。

  • 提出書類: 履歴書
履歴書送付先/お問い合わせ

ご不明な点があればお気軽にご連絡いただければ幸いです。

社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 事務局
人事担当 小林由美子/高橋しのぶ
〒186-0003 東京都国立市富士見台1-17-4 アクセス »
tel. 042-575-5911

今年もお世話になりました~冬休みのお知らせ(事業所一覧)~

法人本部 2018/12/28

多摩棕櫚亭協会の各事業所のお休みは、以下のとおりになります。

 

冬休み開始日 冬休み終了日 開所日
オープナー 12/29【土】 1/6【日】 1/7【月】
ピアス 12/29【土】 1/3【木】 1/4【金】
なびぃ 12/29【土】 1/4【金】 1/5【土】
棕櫚亭Ⅰ 12/29【土】 1/6【日】 1/7【月】

 

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寒い日が続きます。特に年末には寒波の予報が出ています。くれぐれもお風邪等ひかぬようにお過ごしください。

新年度も、多摩棕櫚亭協会をよろしくお願いします。

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 職員一同

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職員研修 救命救急(AED)研修を行いました!

法人本部 2018/12/18

12月14日(金曜日)リコージャパン株式会社の成瀬治一さんを講師にお招きして職員の救命救急(AED)研修を行いました。

ちなみにAEDとは、心肺停止(呼吸をしていない)状態にある方の救命に使用する、オレンジ色の機器のことを指します。

今回の研修では、119番通報してから救急隊(救急車)が到着するまで【平均到着時間8分】の迅速な救命処置で生存率が大きく変わることを教えていただき、救命救急処置の大切さを実感しました。

具体的には、”救急教育用人体モデル”を実際に使って「倒れている人の意識確認・呼吸確認の方法」、「救助者自身の身を守る安全確認」、「効果的に周囲の人へ協力を求める方法」、「AEDの具体的な使い方」、「胸部圧迫の方法」など細かな点を教えていただきました。
職員からは様々な状況での具体的対処方法に関する質問が多く出ましたが、対処方法を丁寧に答えていただき有意義な研修となりました。

AED救命救急研修2018.12.14AED救命救急研修2 2018.12.14AED救命救急研修3 2018.12.14

 

 

 

 

AEDは胸部圧迫処置(中央の写真にあるように胸を強く手で押すこと)と両方を行うことで有効的な救命になるなど、講習を受けて初めて知る情報も多く、昨今の災害等の報道の多さから考えても職員の備えの大切さを実感しました。職員一同学んだことを生かして今後に備えたいと思います。

参考までに谷保駅近辺に設置されているAEDは、ピアス・谷保駅など3箇所になります。

皆さんも有事の際に備えて「日本救急医療財団全国AEDマップ」で、お住まいの地域のどこにAEDがあるかを確認することをお勧めします。

篠原 洋子

 

 

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特集/連載 Part ❻『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “Keywordは、「就労」「ピア」「生活」「食事」…かな。”

法人本部 2018/12/07

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

Keywordは、「就労」「ピア」「生活」「食事」…かな。

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
障害者就業・生活支援センター オープナー 森園 寿世
(精神保健福祉士)

違和感 ~ 精神科病院での実習

私は福祉の仕事に就くために、福祉系の学校に進学し、そこで実習先に精神病院を選んだことから、今の仕事とつながっていくことになりました。

その精神科病院での実習は女性の半開放病棟で行なうことになりました。
学生実習なので、当然夕方には終了するのですが、半開放病棟を出て、事故も無く終えたことにホッとした瞬間、背後でガチャンと重い扉と鍵のしまる音にドキッとしたことは今でも鮮明に覚えています。

また、病棟では、看護婦長が入院患者さんたちを対象に料理教室を開いていました。
看護婦長は一人で手早く料理を進めて、患者さんたちは手持ちぶさたです。
料理教室なのに、なぜ患者さん達に料理をさせないのかを聞いた時に、「この人たちは普段から『ああしろこうしろ』と言われているので、この時間くらいは、何もしないでいいようにです」と返ってきた答えに、なんか変、それはおかしいという違和感が心に芽生えました。

また、同じ看護婦長から、「この人たちはもう退院できるはずなのに、家族が受け入れを拒否しているから、ここにいるしかない」という事も聞きました。
自分の中のちっちゃな正義感みたいなものがうずいた大きな体験でした。

学生実習では色々な感情に揺り動かされました。そしてこの空間がもたらす違和感のようなものが私の心に、こびり付いたような、そんな感情も生まれました。

棕櫚亭との出会い

卒業後は、精神に携わる仕事に就きたいと精神科病院の就職を希望し、門をたたいたものの、残念ながら機会は得られませんでした。一方地域に目を向けた時、当時はまだ精神衛生法の時代、作業所といわれる施設はほんの一握りでした。

学校を卒業してから更に10年、時代は衛生法から精神保健法に変わっていた頃、棕櫚亭の求人情報と出会いました。応募の電話を入れたところ、「まずは棕櫚亭Ⅰ(国立市・谷保)に来てメンバーと一緒に作業実習をやってみて」と言われ、尋ねたところは、古い一軒家の広い民家でした。

ウエス(雑巾)作りや昼食作りのグループに別れて、にぎやかに作業をしていて、代わる代わるメンバーさんが私に話しかけてきてくれました。主に、年上の穏やかな男性メンバーさんが、この棕櫚亭の説明をしてくれました(後にこのメンバーさんはSSクラブ [生活就労支援部 1] のリーダー役になる方でした)。この日、あんまり職員の方とは話した記憶はありません(笑)。作業所は学生時代に実習をした精神科デイケアの雰囲気より、もっともっとフランクな雰囲気でした。この作業所の中では自分の中に芽生えた違和感が少しずつ払拭されていく感じがしました。

作業実習後の二次面接の日程は、「追って連絡する」と言われていました。ところが、私は自分の履歴書を渡し忘れたまま帰ってきていました。そのうえ、渡し忘れていることさえも忘れていたのです。その後、奇跡的に前理事長の天野さんが、住所も電話番号も判からない私を探しあててくれたのです。そんな間抜けなことをする人間によく働く機会をいただけたと思いましたが、反面「これは天命かもしれない(笑)」というくらいに感動しました。そして、今もこの棕櫚亭で働いています。

※1…SSクラブでは先駆的に「精神障害者の生活と就労を考えるプログラム」を提供していました

「どんな仕事をしたいのか?」自己に向き合う

二次面接を経て無事採用後、「喰えて、稼げて、寛げて」をコンセプトにしていた棕櫚亭Ⅱ(だいに・当時立川にあった作業所)に配属されました。再開発され始めたばかりのファーレ立川の近くにある手狭のアパートの一室。タバコ部屋もあって茶色い壁とタバコの臭いを思い出すと今も鼻がむずかゆくなります。この棕櫚亭Ⅱは開所当初から「働いて稼ぐ」ことを目的にした作業所でした。精神障害者が社会で働くなんて一般には想像できない、この時代に、棕櫚亭ではすでに打ちっぱなしのゴルフ練習場の早朝の集球作業をメンバー数人で取り組むグループ就労が行われていました。

20181205130125ほとんどが私より年上の男性メンバーさん方で、喧嘩もあれば、ちょっと女性が聞き辛い話(今で言うセクハラ 話?)もありました。働くことを目指すといっても、作業が終わるとマージャンを毎日のようにやっていました(近所のおじさんたちの集まるサロン!?)。でも、麻雀牌を捨てながら、誰かが「家族とうまくいっていない、そもそも自分の病気のせいで、家族に大変な思いをさせてしまった、だからいま寂しくても仕方がない」なんて話し出すと、そうだよな…… Aさんは大変だよなぁと相槌を打ちながら聞いてあげています。
当時の作業所には面談室もなく、職員とメンバーとの相談はリビングです。聞くともなく他のメンバーさんも相談話しが耳に入ってきたり……。メンバーにとって、自分の家のように思える場所を、スタッフと一緒に作っていたように思います。

その中で、私もまた彼らとの向き合い方を考え始めるのですが、「職員の役割は何なのか? 」「メンバーと私が違うのは、車の運転をする事と作業所の会計の仕事をする事だけなのか?」……。
なぜ仕事として彼らに関わりたいと思ったのか悩み始めることになりました。

それからまもなく、時代は精神保健福祉法となり、精神障害者保健福祉手帳制度が創設されました。作業所では、メンバーさんを集め、手帳に関する勉強会などが始められました。
そして、棕櫚亭にはSSクラブ(生活就労支援部)が作られました。
SSクラブは、仕事やピアカウンセリング(当事者同士によるカウンセリング)について学んだり、「働くこととは自分達にとってどのような意味があるのか」などのディスカッションしたり、活気のある場でした。
ある時、メンバーさんに限らず、職員も「自分はどんな支援がしたいのか?なぜそう思うのか?」というテーマで一人一人プレゼンをする機会がありました。
その場で、私はうまく話すことができませんでした。改めて自分の考えをきちんと話せない自分にとてつもなく落ち込んだのを覚えています。
むしろ、メンバーさん達の頑張りを見れば見るほど、またもや自分の役割や何をするべきなのか、自分の生き方は何だろう。私は、何をしたいのだろうと。自己と向き合うことが益々多くなりました。よもや30歳を過ぎてこんなに迷うとは思っていませんでした。
また、ある日、先輩職員から「勤務時間でない時間でもメンバーとどう関わっていけるかが大事」というアドバイスをもらいました。とても大切なメッセージをもらったと思っています。

棕櫚亭の作業所を象徴するword

時代は自立支援法、障害者総合福祉法と移り、こなさなければいけない業務量も事務量も増え、メンバーとの関わりの時間もタイトになってきました。例えば私の関わる就労支援では、企業の参入など目まぐるしい動きの中で、福祉がサービス化されていく流れがあります。時代の流れの中でものごとを見失いそうになるときもあったりします。そして、難しくなってきた支援自体に行き詰ることもあります。
その中でも、私を受け入れてくれるメンバーやスタッフの懐の深さに救われながら、仕事を続けられています。私も気がつけば棕櫚亭のキャリアも長いほうの部類に入ってきました。たくさん語りたいことはありますが、紙面の関係もあり書き尽くすことができません。従って私が考える、棕櫚亭を象徴するKeywordをお伝えしたいと思います。このwordは今もこの棕櫚亭に息づいていると思います。

私なりに受け取ったそのwordの意味が、作業所から始まる棕櫚亭の理念につながっているのだと思います。それを紹介して私の文章の締めとさせていただきます。

「就労」とは…自己実現の機会を作ること。
「ピア」「生活」とは…一人にしない。支えあうこと。

メンバー一人ひとりに丁寧に関わっていくことなど創設当初から変わらず、いまも引き継がれている棕櫚亭の大切な骨組みです。

そうそう、それから

「食事」もでした。
当初から、皆でご飯を作って一緒に食べることにこだわって、今でも続けている大切なプログラムです。
同じ釜の飯を食うのも、実は一番大切なことのひとつなのかもしれませんね。

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

森園さんのキーワード4つが息づいている棕櫚亭という法人が法律の改正とともに歩んできた姿が、手に取るようにわかる文章でした。現在法人のベテランに属する森園さんが、履歴書を出し忘れ、そのこと自体忘れたのに、天野理事長はどうやって探しあてたのだろうそんな疑問もわいてきます。昔のメンバーさんが自分の家のように感じて居場所にしていた棕櫚亭も、多くの人が行き交い、自身を社会へ飛び出させていった場所を今、訪れてみれば隔世の感もあるかと思います。でもその時代一緒に生きたスタッフは健在で、あの頃に話の華を咲かせることができるのも棕櫚亭の良さかと思います。あの頃指導していただいたメンバーの皆様も時々遠い日を目を細めながら思いおこしながら、今を生きている。そのようなメンバーさんの集まりが30周年の記念行事であり、再会し、ピアスで語りあった日々であることを考えると、歴史の重さを感じざるを得ません。この「30年にわたる思い」は今に至るまでずーっと脈々と生き続けています。ひしひしと感じながら今回読ませていただきました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

愛知県豊川市に事業所見学と講演の出張に行ってきました

法人本部 2018/12/06

今回は5年ほど前からお付き合いのある社会福祉法人 若竹壮 あけぼの作業所の職員である柴田さんから講演の講師をご依頼いただきました。

内容としては、「自立訓練と就労移行支援の活用の仕方」と「定着率をあげるための支援・関わり方」についてでした。実はものすごいプレッシャーでした(汗)

21日(水)は豊川市内にある障害者施設を見学させていただき、22日(木)が緊張の本番でした!

事業所見学は驚きの連続!そこから感じた地域としての課題

最初に、自立支援協議会を見学させていただきました。豊川市の人口は18万人ということで、ほぼ立川市と同じ人口ですが、精神障害のある方達の社会人資源の少なさに正直、驚きを隠せませんでした。具体的な社会資源は、豊川市全体としての就労移行支援事業所は4ヶ所、そのうち精神障害者に特化した就労移行支援事業所は1ヶ所。地域活動支援センターに関しては、日中活動の場として活用できるのは1ヶ所ということでした。このことについては、豊川市で支援している皆さんも「なんとかしたい!」という気持ちで考えていて、「精神障害の方達が地域で安心して、働いて暮らせる社会」を目指して支援者の熱さも感じることが出来ました。
熱量が同じ仲間同士、事業所間の垣根を超えて、障害者雇用などを地域に発信していく意見交換が活発に行われていました。「就労部会が1番活発なんです」と話されていた、皆さんの表情がとても素敵で、国立はまだまだだな…とも感じた瞬間でした。また、とてつもない忙しさの中で、週1回の頻度で就労部会を開いていると聞き、小声で「すごい…」とつぶやいてしまいました。

いざ、豊川市の事業所に見学へ!

1ヶ所目は社会福祉法人 若竹荘 あけぼの作業所です。こちらの事業所は知的障害の方達を対象にしています。見学風景1

多機能型で、就労移行支援と生活介護事業です。就労移行支援に登録されている方達は、社会福祉協議会の建物内で、清掃訓練をしているとの事で、そちらを見学させていただくことが出来ました。
最初に感じたのは、全ての業務に対して、マニュアルが整備されており、どの利用者へも対応ができると同時に、職員側の指導の標準化が出来ていることに感心しました。
職員の定盛さんは「いい所をみつける、そして、伸ばす」の言葉はとても印象的で、ご本人の目標設定や職員が気づいたことなど、振り返りシートを活用しながら、関わっていました。

訓練をしているとついつい重箱の隅をつつくような対応になりがちな中で、「今、訓練でやる目標と課題」を3人の職員で共有するシステムが参考になりました!2

余談ですが、3人の職員での役割分担を決めていて、厳しめ、お兄さん的、お母さん的な職員として、対応しているとの事でした。そして、就職が決まった方達は笑顔の写真入りで、勤務条件や就職までの利用期間などを廊下に貼り出している工夫もされていました。利用者の方達のモチベーションになる工夫もされていました。

生活介護事業の見学もさせていただきました。3パンや某大手自動車会社の拭きあげで使用するタオルの製造に従事されていました。

とにかく質の高い製品が出来上がっており、法人の稼ぎ頭という説明にも納得できました。

生活介護の方達なので、働くことが目的ではない方達も大勢いらっしゃいました。4

働くことが全てではないため、お一人お一人ができることで、とても笑顔で過ごされていたのもとても印象的でした。

 

 

2ヶ所目は有限会社 ウィングです。5こちらは就労移行支援事業所と就労継続A型とB型の多機能型で、3障害を対象としています。こちらの事業所は、今夏にピアスの見学にいらしてくださりました。有限会社が立ち上げたものだけあって、本当に職場!でした。
就労移行支援の訓練では、中古品のインターネット販売を取り扱っており、出品から発送までを利用者の方が対応しているとの事でした。
6 また、就労移行支援に登録している方達には、ビジネスマナーやコミニュケーションについての座学なども行っているとことでした。
就労継続B型でも内職作業や農作業などを中心に行っているそうです。地域の特性もあり、農作物の袋詰めや車の部品組み立てなど、幅広く行っていることが特徴でした。

 

さらに、地域活動支援センターの見学にも行かせていただきました。豊川市の相談支援事業所が16ヶ所あるのに対し、精神障害者の方が日中利用できる地域活動支援センターは1ヶ所とのことでした。

1ヶ所に集中してしまっているため、利用定員の20人の方達がほぼ毎日通所されているそうです。プログラムも試行錯誤しながら、マジシャンを呼んだり歌を歌ったり、外出プログラムを取り入れたり・・・。本当に一生懸命に「精神障害者の方達が外に一歩出てみる」「日中に安心して通える場所」を目指した取り組みをされていました。

こういった地域活動支援センターが1つでも多く増えて欲しいと強く感じました。 (さらに…)

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特集/連載 Part ❺『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “悩みが許された時間と空間がそこにはあった”

法人本部 2018/11/16

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

悩みが許された時間と空間がそこにはあった

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
ピアス 副施設長 吉本 佳弘
(精神保健福祉士)
私が過ごした作業所の風景

当時の棕櫚亭Ⅰ(だいいち)作業所は、公園清掃や昼食作りなどの作業とスポーツやウォーキングなどのレクリエーションが中心だった。30代から40代の元気な男性を中心にグループに力があり、勢いがあった。

ちょうどその頃、障害福祉分野の大きな転換点となる時期だった。『措置から契約へ』。他障害の分野では支援費制度が始まっており、精神障害者は支援費制度の枠からは外れたが、今までの医療モデルの考え方から、生活者モデルへの転換をどのように行なうかという時代だった。

施設長(当時)の満窪順子さんが、『棕櫚亭Ⅰがどうなりたいか』を職員だけでなく、参加するメンバーに声をかけ一緒に納涼会02考えようと、障害福祉関連のニュースや、文献をミーティングなどで紹介してくれていた。

その中に『クラブハウスモデル』があった。

クラブハウスモデルは1940年代にアメリカ・ニューヨークではじまった。デイプログラムというクラブハウスを運営していく『仕事』を、メンバーとスタッフが共同し行なっていくというものだ。従来の施設のように授産事業を行い、福祉的な就労の機会を提供するのではなく、『仕事』を行うことを通じ自助を育み、相互支援を行うことで自信を回復していくことを目的にしている。その活動は世界的に広まり、日本でも活動が行われている。

つまり、クラブハウスの活動は、単に作業を行うのではなく、自分達で作業所を運営し、自分の活動を発信する。価値ある仕事を誰もが担い、元気や自信を取り戻す。地域に閉ざされた楽園を作るのではなく、安心できる港を手に入れ、それぞれが船を出す。棕櫚亭Ⅰをそんな場所にしていきたいと皆の気持ちが固まっていくことになるのである。

棕櫚亭との偶然の出会い

そもそも、私は福祉職を希望していたわけではなかった。大学には行っていたものの、あまり勉強に集中していなく、モラトリアムを満喫していた。たまたま友人が社会学の単位取得のためにボランティア活動をしていて、立川社会福祉協議会に登録をしていた。大学2年の時に、その友人から外国人の健康診断を目的にした地域のお祭りがあるからと言われて、思いがけず手伝うことになった。思えばそこが福祉との接点だった。

近隣の学生や社会人が集められ、お祭りを賑やかなものにするために出店するというものだった。「何かを企画し、誰かと共同して作業する、お客さんに喜んでもらう」そんな共同作業はとても新鮮で楽しく、その後も何年かそのお祭りに参加している。そんなひょんな事から始まったボランティア活動であったが、いつの間にかお祭りの他にも身体障害者の介助や外国人の為の日本語教室のキッズルームで子守をするなどを始めてしまっていた。

大学4年の時に就職活動を早々に諦めて、バイトでもして暮らすかなと考えていたところに、立川社協の職員から『人と接して働くのが好きでしょ?』と言われ棕櫚亭の非常勤に応募してみないかとの誘いを受けた。元々人と接するのに緊張感を感じ、うまく馴染めないなとも感じていたのでその言葉を聞いた時にとても意外でビックリしたのを覚えている。

まぁ、それでも食っていかなくてはいけないのでとりあえず面接を受けてみることにした。面接は当時の理事長石川先生と天野さんだった。何を話したのかは覚えていないが、非常勤での採用が決まり、福祉の道に踏み出すことになったのだ。

職員としての思い、そして揺らぎ

棕櫚亭Ⅰ作業所に配属され、公園清掃や昼食作りをメンバーと一緒におこなっていたのだが、毎日が驚きの連続だった。私自身、それまでの人生で精神障害のある人たちとの接点がなく、福祉系の大学でもなかったので、今思い返すと恥ずかしながら精神障害と知的障害が何がどう違っているのかも全く知らず入職したのだ。

そのような状況の私が、「皇族の関係者ですよね?」とメンバーに言われたことは忘れられない経験の一つだ。

しかし、メンバーと作業を共にし濃密なかかわりの中で、一人一人の魅力的な部分に触れることになる。

料理が得意な人がいたり、笑顔がとても素敵な人もいた。棕櫚亭Ⅰはそんな彼らによって毎日が明るく盛り上がり、エネルギーが生み出されるそんな場所だった。ゆったりとふくよかな空間だったと今も心から思える。

ただ若かったあの日、ふとその一日を振り返った時に、なぜこんなに素敵な人たちが社会に出ることができず、社会の中では自信なげにすごさなくてはいけないのかという思いもわき、こころがかき乱されるようなこともあった。どういうわけだか気持ちがあせることもあったと思う。健康を疑わなかった自分のどこかに揺らぎをいつの間にか抱えているような気がした。

Aさんとの出会い

棕櫚亭Ⅰには、30代の男性で、Aさんという人がいた。棕櫚亭Ⅰのことを思い出すと彼の事が真っ先に浮かぶ。作業を一緒におこなったりすることも多く、同じ喫煙者という事で、灰皿の前で身の上話やバカ話をすることが多かった。

彼は棕櫚亭Ⅰのエネルギーの中心になっていた一人だった。

彼は周囲への気配りだけではなく、時におちゃらけムードを作ったりもできる人で、他の利用者も彼には一目置いていた。私は、そんな彼にとても魅力的に感じ、職員として何ができるんだろう、何かできないかと考えることが多かった。ミーティングなどでは必ず彼に話を振ったり、時に頼るようなこともしたと思う。そうすることが彼の発揮できる場所を作ることにもなるんだと心から思っていた。

しかし、それは勘違いだったのだと思う。彼はある時期から作業所に通所できなくなった。私は状況を理解できず、困惑した。『なぜこれなくなったのだろう?』

後に、私が良かれと思って親しく接したことや頼るようなことが、Aさんにとって、彼の兄弟関係を彷彿とさせるものだったと他の職員に聞かされた。自分の思いが彼にはとても負担だったようだ。

その後、私とは距離を置くことで、彼は徐々に復帰することができるようになった。理屈では負担だったことが理解できても、私はその後悶々とした時間を過ごすことになる。

時は過ぎ、少しほとぼりが冷めた頃だったと思う。多摩総合精神保健福祉センターで行われる『ピアカウンセリング』の研修があることをたまたま耳にしたAさんが、参加を希望したと聞いた。この研修は職員と一緒に参加することが条件となっていた。なぜだか、Aさんは私と一緒に参加したいと申し出てくれたのだ。このことをきっかけに徐々に彼とのやり取りが増えていったことのうれしさはあったのだが、しかし依然として職員としての距離や関わりというものにもやもやとした感情があったのも事実だ。

作業所のありようを皆で考える

その研修後、JHC板橋会の「クラブハウス」研修をAさんと一緒に受け、棕櫚亭Ⅰに持ち帰った。皆の関心も高く、私たちもよりクラブハウスについて知りたいということで、小平市にある「クラブハウスはばたき」で3日間の実習をすることになった。

「クラブハウスはばたき」では利用者が積極的に事業所の運営にかかわっていた。職員室などの職員専用のスペースは存在せず、誰でも自分の行きたいところに行くことができる。職員会議などはなく、運営について話し合う時間は誰もが参加でき強制されない。さらに、自分たちの活動を広報誌にまとめ、世界に発信していた。過渡的雇用(クラブハウスと企業が契約し、利用者が労働する)というクラブハウスから社会復帰へのきっかけがあり、安心感を持ちつつ就労にチャレンジしていた。

その時の私はクラブハウスを理解をするので精一杯だった。しかしAさんは職員と利用者の関係性など(クラブハウスモデルでは利用者と職員はパートナーシップといい、運営する上では協働する関係となっている)を利用者に質問をし、クラブハウスモデルがどんなものなのかをどんどん吸収していた。彼の姿勢に圧倒されっぱなしだった。

実習後、メンバーとクラブハウスに関するミーティングを行った。全員が、一致してクラブハウスを目指そうとなったわけではなかった。そこまで考えられないという人もいたし、そもそもそんな責任のあることは出来ないという人もいたように思う。

話し合いの結果、次のようなルールを皆で取り決めた。「作業以外にも工賃の計算や、実習生のふりかえり、利用希望者への説明、事業計画や総括、とにかく一緒に行うこと」「職員だけでの会議は持たない」「パートナーシップという関係を結ぶ」「みんなの事はみんなで考え、みんなで分担する」「クラブハウスの考えをすべて実現することはできないもののまずは自分達で出来る事を増やしていく」 メンバーの皆さんは誠実だったと思う。一方、できないこと、受け入れられないメンバーの気もちや姿勢を受け止める器が、作業所にはあった。

このような喧々諤々意見を交わしているうちに、一人一人の意識が変わっていくのがよく分かった。勿論、私自身もである。時に睡眠不足で身の入らない学生実習生に「誰か相談できる人はいないか?」と親身になったり、今まで、人の前に出る事が苦手な人がすすんでミーティングの司会をかってでくれるようになったり、引きこもりがちになっているメンバーを迎えに行き作業所まで同行する人がいたり、『GM(グループミーティング)』では幻聴で困っているBさんのためにみんなでその対策を考えたりと。人によってそれぞれだが、少しずつ少しずつ皆がすすんで行動する事が増えた。お互い思いやり、尊重される場があることで、安心してチャレンジすることができたように思う。自分のことだけを考えるのではなく、『みんなでみんなの事を』考えることが増えていった。何事も話し合いという労力と時間をかけながら。

あの時、そして今も思うこと

最後に平成17年度当時の活動報告会で、棕櫚亭Ⅰが年度の活動目標として掲げた言葉をお伝えしたい。

『棕櫚亭Ⅰで活動する私たちは人との触れ合いを、支えあいを大切にしたい、作業所の運営など意味ある役割を通じて、責任感や達成感を持ちたい。病気があっても一人の人間としていろいろな経験をして、より豊かな人生を送りたい…と願っています』

私は思いもかけず、この精神保健福祉の業界に飛び込んできて、今も色々な思いを抱えながら仕事をしている。自分の支援が正しいのか? 間違っていたのか? 悩むこともある。それは、今も昔も変わらないし、これからも揺らぎは続くであろう。ただ、この頃に棕櫚亭Ⅰの活動の中で考えたことは、悩み続けること、揺らぎこそ大切なことなのだということ。だから、Aさんとのことも私の気持ちの中では簡単に解決してはいけないことだったのだと思う。むしろ揺らぎの中で自分や自分達のことを深く考え、他者に思いを馳せ、そして何よりも、対話の中で相互理解しようとする姿勢が大切なのだと気付かされた。「パートナーシップ」という考えの基に。

作業所で「パートナーシップ」という対人支援の基本を体感できたこと、そしてそこで起こる葛藤が許された時間のながれと空間。これが、今も精神保健に携わる私にとって大切な宝物だと思う。

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

吉本さんがボランティアから福祉業界に入ったのもこういうきっかけだったのかとわかりました。今、棕櫚亭の若手管理職として大切な仕事を担われている吉本さんにも若いころメンバーと語り、悩んだ日々があったことに、とても親近感を覚えます。メンバーもまたクラブハウスモデルの中で同じように役割を担い、変わっていったのかもしれないとも思えます。クラブハウスモデルは現在の棕櫚亭Ⅰに引き継がれていますが、初期の頃いろいろ試行錯誤した吉本さんの苦労が根をはっているように思います。この仕事に魅力を感じている他のスタッフも、メンバーさん達に育てていだだいたのだと思います。棕櫚亭Ⅰを皆でつくりあげた当時の思いをこれからも大切にしていきたいと深い思いに至りました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

アルジャジーラがやってきた!~放映編~

法人本部 2018/11/13

無2題

10月のお知らせで、省庁の障害者水増し雇用問題について、中東カタールに本拠地を持つアルジャジーラが取材に来たことをお伝えしました。
そして、今回はその第二弾。
今月9日にその模様が放映された事をお伝えいたします。

今回、棕櫚亭では水増し問題の取材を受けましたが、取材全体のテーマは「Japan’s disability shame」直訳すれば、「日本の障害は恥」と言う、もっと大きく、もっとショッキングなもの。
取材前には、「日本は、2020年にオリ・パラピックを控えているが、来日していつも思うのは、外で障害者に出会わないと言うこと。海外(とりわけ欧米)では、もっと普通にダウン症の子供等に出会うのに…そんな疑問に端を発したのが今回の企画です。日本人の障害者観が浮き彫りになる様なものになればと思っています。」と、そんな説明を受けました。

取材先は棕櫚亭の他に、旧優生保護法の下、精神病者にさせられ、無理やり精神病院に入院、強制不妊手術を受けた男性の半生や、津久井やまゆり園で起きた障害者殺傷事件の犠牲となり、辛うじて生き残った被害者家族の今。さらにはパラリンピックを目指す青年アスリートなど、30分番組では収まらない内容ばかりものばかりでした。

9日当日、私もインターネットで番組を見ましたが、言い方は不謹慎かもしれませんが、水増し雇用も吹き飛ぶ、それ以前の日本ひいては日本人が、障害者の尊厳をどの様に捉えているのかを大きく問われる様な番組の仕上がりでした。しかし、その延長線上に今回の省庁の水増し問題が繋がっているのだという事も痛感せずにはいられない30分間でした。

最後にこんな事を思い出します。取材時、インタビュアーがこんな事を私に問いました。「日本人は全てに完璧を求めすぎるのでは?」と。それは何かに限定された質問と言うよりは、今回の取材で彼が感じた日本全体への率直な感想だったように私には思えました。
日本が世界に誇る「おもてなし」。しかしこれは、もしかしたら障害者はもちろん、日本人全体にある窮屈さを強要しながら成り立っているのかもしれません。

精神障害者の幸せ実現を掲げながら、その問の答えに窮した私も、その中にどっぷり浸かった一人なのかもしれない・・・・そんな事を、アルジャジーラはやって来て、私に気付かせてくれました。
とにもかくにも、貴重な体験となりました。

理事長 小林由美子

アルジャジーラ*オンライン記事はこちらから

*映像はこちらから(1:40~)

特集/連載 Part ❹『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “失われた〈共同作業所〉が、もしかしたら世界のトレンドになるかもしれないというウソのようなホントの話”

法人本部 2018/10/19

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

失われた〈共同作業所〉が、もしかしたら世界のトレンドになるかもしれないというウソのようなホントの話

NPO法人多摩在宅支援センター円
添田 雅宏
(棕櫚亭OB)
はじめに

平成元年に精神科領域(無認可共同作業所)に就職してかれこれ30年が経過した。
ちょうど「精神衛生法」から「精神保健法」に大転換された年に就職したことは後々知ることになるのだが、入職当時はそのようなことは知る由もなく、唯々その環境に可能性と魅力とを感じていたことを思い出す。一緒に働き、昼食を作り、同じ場所で昼寝をし、また作業を行う、作業が終了すればお茶を飲みながらよもやま話に花を咲かせる、今思えばよくそれで仕事が回っていたものだと思うところもあるが、同じ空間を共有し、利用者と共に歩むことが良しとされ、素人でも市民性と対等性で仕事ができていた時代ではなかったかと思う。

『精神医療』第83号 コラム(批評社 2016年)より引用

これは私が2年前に依頼された原稿の冒頭部分である。タイトルは『無認可共同作業所再考 ~共同・協働とイギリスのco-productionをめぐる道程~』というちょっと硬いもの。私は3年前に現場復帰したのだが、目まぐるしい医療・福祉制度改編に振り回され、使えないワーカーになっているかもしれない(いや、たぶんなっている)不安に苛まされている。そしてそこから逃避するかのように気がつけば共同作業所時代の棕櫚亭のことばかり考えているように思う。されど、逃避するだけではもったいないほど無認可共同作業所時代の棕櫚亭には、現代の細分化された医療・福祉制度が切り捨ててきた大切な原石が埋もれており、それを再評価することで、これからの精神医療・保健・福祉制度をリカバリー志向で改革していく礎になる気がしてならない。
「くにたち共同作業所棕櫚亭」は私の職業人生(福祉職・教育職)の原点であり、その後の生き方にも大きな示唆を与えていただいた大切な場所である。
ここでは共同作業という言葉に秘められた大切な理念に思いを馳せながら、これまでの棕櫚亭とこれからの精神保健福祉のあり方について海外の事例との比較の中で綴ってみたい。

素人性、市民性、対等性が大切にされていた

棕櫚亭に就職した30年前、私は大学で演劇論を聴講していた学生であった。師事していた教授が市民病院の精神科で、遷延化したうつ病と神経症圏(当時)の新しい療法を研究していたことがきっかけで、精神科の患者さんと出会った。グループ運動表現療法と名付けていたその療法はのちに棕櫚亭で「雅教室」として形を変え、心身のリラックスと自己表現の練習のためのプログラムとして展開されるが、この時の私は精神科と一般科の違いも良く分からない素人であった。この病院で棕櫚亭がアルバイトを募集していることを聞き、消防設備の点検のアルバイトより勉強になるしお金ももらえるから良いかぁという軽い気持ちから応募した。そんな私の採用に関しては棕櫚亭運営委員会でいろいろと議論があったようで、定職に就いていないことや演劇をやっている変わり者ということがマイナス要因だったと入職後に聞かされた。今思えばそんな男をよく雇っていただいたものだと感謝しかない。精神保健福祉士という資格のなかった時代、様々なフィールドから作業所に転職する「変わり者」がいて、私の経歴はそんなに珍しくなかったようにも思うのだが。
そんなこととはつゆ知らず、私はと言えば呑気にも、魅力溢れる4人のお姉さま達との出会いと、当時東京に20か所程度しかなかった共同作業所を一緒に作り上げていくことに軽い興奮を覚えていた。一流の女優陣を擁した舞台を一から作り上げる、そんな感覚に似ていたのかもしれない。
棕櫚亭では当時、多摩地域の精神科医療に風穴をあけるというスローガンがあり、市民感覚を持ち合わせ地域で共に暮らしていくことを理念に掲げていた。生活のすべてを医療機関が管理することが普通に行われていた時代であり、精神病者という言葉はあったが精神障害者という言葉はなかった、つまり障害という概念がなかった時代でもある。自分たちの仕事は、精神医療の延長なのか、福祉事業なのか真剣に議論していたころが懐かしい。
またパターナリズムや専門性に疑いを持つ風潮があり、そのような背景が私のような「どこの馬の骨」な男の雇用を後押ししたのかもしれない。採用後、私は国立に移り住み作業所利用者(メンバーと呼んでいた)が暮らす街で共に生きることになる。
以下の文章は精神保健福祉士養成の教科書に寄せた文章である。メンバーと私との日常を記したものだが、時代の雰囲気がわかるものになっているのではないかと思い紹介する。

『一杯のジュースから』

その共同作業所は終戦直後に建てられた平屋で、どこか長閑(のどか)で日本の原風景を色濃く醸し出していた。今から 20 年ほど前、私は「彼」と出会った。彼は当時30代。2人の兄を持つ末っ子として大切に育てられた。
20代の頃、統合失調症を発症。その後は入退院を繰り返し、アルバイトを行いながら何とか社会生活を営んでいた。やがて家にひきこもりがちになった彼は、保健師の勧めで開所したばかりの共同作業所に通い始めたのだった。一流大学卒で留学経験もある彼は他の利用者との関係がうまく築けず、孤立しているように見えた。
ある年、記録的な猛暑の中、私達は公園の草むしりの作業を一緒に行なった。仕事が終わって共同作業所に戻り彼はジュースを美味しそうに飲んでいた。私は意図せずに「そのジュース僕にもちょうだい!」と彼に話しかけた。彼は「いいよ!」と私にジュースをくれた。
仕事を終えた充実感とともに、とても和やかな時間が流れた。
その後父母が相次いで他界、遺産相続の件で兄たちと折り合いが悪くなり病状が悪化した。医療保護入院となった病院で待遇の悪さを批判し病院スタッフに暴力を振るったことが原因で転院となり、彼は「処遇困難患者」となった。そして彼はこの後いくつもの病院を転々とすることになる。
ある日、付き合いのない病院の医師から私宛に電話が入った。彼が私に会いたいと言っている。病状は安定しているのだが兄達は退院に反対している。何とか兄達を説得し、もう一度地域生活ができるよう支援してくれないかとのことだった。彼が作業所を離れて5年の月日が過ぎようとしていた。私はどうして彼が私に会いたいと言ってくれたのかを聞いてみた。「あの暑い夏の日、一緒に草むしりをしたことを思い出したんだ。あの時僕からジュースをもらったでしょ。僕はとても嬉しかったんだよ。仲間ができたって思ったんだ」。
家族の調整を終え、燻り続けていた遺産相続に一応の決着をつけた後、彼は退院し一人暮らしを始めた。そして現在の彼は、地域活動支援センターに所属しホームヘルパーを上手に利用しながら、ピアサポーターとして地域移行支援事業に積極的に取り組んでいる。

『精神保健福祉の理論と相談援助の展開Ⅰ』[第1版] 第5章 コラム
(古屋 龍太=責任編集 弘文堂 2012年4月30日刊行)より引用、一部改

このジュースはもちろん「回し飲み」である。炎天下の中での作業を終え、皆バテバテで喉はカラカラだった。過酷な状況を生き延びた戦友のような気持が自然に芽生えていたように思う。後日彼はこうも言った。精神障害者として差別されている自分が飲んでいるジュースを欲しいと言ってくれている人がいる、しかも回し飲みで。そんなことを言ってくれた人は初めてだった、高校時代の部活の友人関係を思い出したと。
もちろんこの話はメンバーと友人のように付き合えということではない。ここで伝えたかったことは、同じ空間を共有する中で人としての対等性を確認し合ったこと、そしてそのことを理屈ではなく身体知として理解しているのかは試されるということである。また精神障害に起因するスティグマを抱えて生きている当事者にとって、身近な存在である作業所職員の言動、立ち振る舞いはその後の人生をも左右することがあるかもしれないということだ。共同作業の中には目に見えない豊かな副産物がそこここにあることを改めて実感している。

共同作業とco-production

共同作業所のすべてが優れていたわけでもなく、そこに戻れば良いというものでもない。来てもらわなければ何もできない場所であったことは大前提として、素人故に疾患を見逃したことがきっかけで命を落とす人がいたり、身分保障があいまいだったり、ほとんど社会資源のない中で生活・就労支援などすべてに気を回さなければならない状況であったり、メンバーの就労先探しに奮闘したりと苦労の連続であったことも事実だ。
時は過ぎ、大学の教員になった私はイギリスに研修に行く機会を得た。ピアサポートワーカーのことを学ぶために行ったのだが、そこで見聞きした世界情勢に大いなる刺激と示唆を受けた。引用ばかりで恐縮であるが以下を参照されたい。

一昨年、イギリスのリカバリーカレッジと精神保健福祉改革を学ぶために現地へ赴く機会を得た。(中略)私が感銘を受けたのが、その改革の中核をなす言わば哲学ともいうべき理念である。まずは、まだ世界的に定義の定まっていないリカバリーという概念をその中核に据えたこと、次にコ・プロダクション(co-production:共同制作、協働、共同作業など)という考え方を改革の柱とし、当事者と家族、専門職、地域住民らが一体となって改革を進める方向性を示したことである。(中略)先にも述べたようにイギリスでは連携のその先にco-productionを据えた。改革の中心人物から聞いた話だが、イギリスはヨーロッパという土地柄、個人主義の上に立ち、異民族との血で血を洗う戦いの末に、如何にして対立する民族、文化、慣習と共生するかを考えている国であるという。(中略)このように考える国がco-production(共同制作、共同作業、協働)を通してこそ相互理解を得られるという結論に至っていることは非常に興味深い。日本の文化の中で培われた共同作業の概念とは厳密には異なるのかもしれないが、(中略)当事者と専門職の垣根を越え地域の中で共により良いものを作っていくという姿勢に変わりはないことは、熱意(Passion)を持って改革を進めようとする人達との交流から容易に感じられた。

前出 『精神医療』第83号 コラム(批評社 2016年)より抜粋

話が大きくなり過ぎたかもしれない。私は棕櫚亭時代から夢見がちで、夢を語るより目の前の仕事をきちんとこなせとよくお叱りを受けていた。その癖はそうそう変わるものではないようで、もう少しお付き合いをお願いしたい。
リーマンショックにより財政破たんしたイギリスは精神医療福祉予算を大幅に削減しなければならなくなった。イギリスの優れたところはただ予算削減をするのではなく、これを機にリカバリー志向で精神医療福祉改革を行おうとしたところだ。その中心理念がco-productionつまり共同作業、共同制作である。お金がないのは日本も同じ。何もないところから文化を作り上げていったあの時代と重ねもう一度夢を見たいと思うのは浅はかなことなのだろうか?

おわりに

先が見えず無我夢中で駆け抜けてきた共同作業所時代の棕櫚亭は紛れもなく“レガシー”であろう。それをどう受け止め、解釈し、次の時代に引き継いでいくかは、とても大切な仕事だと思う。もし私の書いた文章がその一助になれば幸いである。
最後に。身勝手な私をいつも寛容な心で受け止めてくれる棕櫚亭の皆様に対する恩返しになればと願いつつ、前出のコラムで書いたものをまとめの言葉としたい。

“無認可共同作業所はその歴史的使命を終え、「障害者総合支援法」の中で形を変え現在に至っている。事業が細分化され縦割りの支援システムが増えていく中で、当事者のリカバリーを中心とした事業・制度がどの程度まで浸透しているのか、まだ見えてこない。
しかし、日本には当事者と支援者らが培ってきた日本らしい仕組みが存在していたことは事実であり、誇りに思っても良いように思う。共同作業所は切迫した状況を打開するために家族や支援者・当事者達が必要に迫られて作り上げてきたものである。天から降ってきた制度に振り回される昨今、ここに考えが至ったことでもう少し先へ進める兆しが見えた。”

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

今回、添田さんへの原稿依頼で職場である東京都八王子市に伺わせていただいたきました。ご多忙にもかかわらず本当に暖かく迎え入れてくれました。棕櫚亭らしく元職員というだけで、ぶしつけに原稿依頼をしたにもかかわらず、快く受けていただいたその優しさは、たくさんのワードとして文中にあふれるほどちりばめられています。私自身、精神保健福祉士取得のため、学校に通っていたのですが、その時に師事したのが添田さんで、文中の「一杯のジュースの話し」は、私が知る添田さんらしいエピソードだと思いました。ピアスタッフとして働いている中で、私はいつも自分の立ち位置について悩み、考えあぐんでいますが、添田さんのおっしゃる「素人性、市民性、対等性が大切である」という言葉は、今後の働きにヒントを得たような気がします。

ありがとうございました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

アルジャジーラが棕櫚亭にやってきた!

法人本部 2018/10/12

官公庁の障がい者雇用水増し問題が公(おおやけ)になり、沸々と怒りが沸き起こりました。「何ということだろう、こんなに必死にメンバーさんも就労訓練して、企業側も一生懸命考えながら職場の受け入れをしてくれているのに!」あんなに「働けよ」「受け入れよ」とせっついていた、本家本元の行政機関がごまかしていた雇用率の数の多さに唖然としました。

「企業が雇用率をごまかしたら、さも鬼の首をとったように行政の指導に入るのだろうなぁ」と話しをしていたら、既報の通り、どういう伝(つて)か東京新聞からの取材があって、理事長の雄々しい(?)姿が社会面にデカデカとのりました。そして、その後も各方面からのインタビューなどが相次いだあと、今度はなんとあの「アルジャジーラ」の方々がやってきました。これは驚きです。

ご存知の方も多いかとは思いますが、何と言ってもイラク戦争でアルカイダ情報を流し続けたあの中東の新聞社です。「そんなところが、いったいなんで棕櫚亭に取材だ?」と職員が驚き悩むなか、なぜかメンバーさんは嬉しそうに受け入れをしてくれました。「確かに、そりゃそうかも」なにしろアルジャジーラの名前は世界に轟(とどろ)いています。ニューヨークタイムズでも、BBCのような大手でもなく、どういうわけかアルジャジーラの取材。日本の全国紙でもなく、一挙に世界に飛んでいったのも、何はともあれ興味を持ってくれるのは嬉しいから、理事長以下職員一同、メンバーさん達も大歓迎でウェルカム!

無題

「日本の障がい者雇用はどうなっている?」「働いているところが見えづらい」「訓練の厳しさは日本社会ならではなのか?」などなど、驚くほど真っ当な疑問質問のインタビューが山ほどあって、あっという間の6時間。何はともあれ、ともかくも精神障がい者の就職実現に向けてメンバーさん、職員の必死の実践はわかっていただけたようでした。打ち解けた取材の終わりには、職員メンバー入り乱れて、私たちからもアルジャジーラの正体(?)やら存在意義やら、根掘り葉掘り聞いたりして思いもかけない異文化交流もありました。

もう何年か後には、外国人受け入れがすすんでイスラムの若者がトレーニングに来ることがあるのかでしょうか?そういえば精神科病院の身体拘束で亡くなった青年はニュージーランドの人でした。外国人の存在が無視できない数になった頃には、手帳の有無や雇用率という数字は案外関係なくなるのかもしれません。

普段見過ごしてしまう大きな視点や先々への思いもめぐらしてくれた貴重な時間となりました。

この模様については、11月に英語版で海外放映されるとのこと。日本ではYou Tubeで視聴可能になるとのことですが、詳細がわかり次第、HPでもお伝えします。

ピアス通信11月号でも、障がい者雇用率改竄問題特集として「緊急!メンバーアンケート」「アルジャジーラにピアス通信員が逆取材!」で取り上げることになっています。

楽しみにお待ちください!

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