特集/連載 Part ⑬ 【最終回】『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “対談編 – 過去を振り返って未来へ”

法人本部 2019/05/31

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

対談編 – 小林由美子(棕櫚亭 理事長)✖︎ 櫻井 博(棕櫚亭 ピアスタッフ)

次世代につなげる、支援につなげる

あの頃見たことを語り続けることが必要だと思うようになった。様々な出来事が記憶の底に沈まないうちに、それを次世代の現在の仕事に繋げる事が私の役割かもしれない。

『精神障害のある人の就労定着支援 – 当事者の希望からうまれた技法』
天野聖子 著/多摩棕櫚亭協会 編著(中央法規出版) より

小林: 元職員の森内勝己さんを皮切りに『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 (以下、『ある風景』)の後半戦も興味深く読ませていただきました。森内さんの文章が面白かったのは、棕櫚亭で仕事として体験したことが外に出てみて、深化しているというか。それは凄く分かりやすく書いてあって良かった。そして現在は福祉分野を離れてはいるが、今の仕事にきちんとつなげているのだと思いました。

櫻井: 経営感覚を磨くって凄いことですよね。目の前の支援をやりながらも、どうやってこの施設の行く先を考える、つまり森内さんで言えば広い視点で会社を経営しながらやっていく。ユニクロの社長が言っていたけど「全員が社長の気持ちでいないとダメだ」と話していたことを思い出しました。主体的に仕事に取り組みながら、俯瞰的にみていくことはこの世界にいると特に必要なことで、私なんか、ついいつのまにか目の前のことに巻き込まれています。

小林: 確かに柳井さん(ユニクロの社長)は強力な言葉をもっていますよね。あのレベルは難しいとしても、(精神障がい者の)支援を言葉で行なっていく私達、特に経営陣がまだまだ力量不足なのだと思う。勿論あれほど強烈にはなれないけど、言葉って大切で、私達もパートナーシップを持ちながらも、いろんな言葉を駆使して支援していくことは凄く大切だと思う。職員一人ひとり、みんながその意識をもってやってくれたら、凄い発進力になるよね。まず空気を読むということではなく。
話を戻しますが、『ある風景』の後半戦を読んで感じたのは、メンバー(利用者)に教えてもらったとかメンバーと共にやってきたとか、そういった精神みたいなものは今も棕櫚亭に大切に引き継がれているのは、この『ある風景』に一貫していると改めて感じました。多分、その具体的なものの一つはメンバーとのパートナーシップです。このパートナーシップというところは今も引き継がれて、それは利用者であるメンバーも今もとても評価してくれるところですよね。
と、同時にメンバーシップを大切にするような姿勢や精神といったものはきちんと私達が引き継ぐだけではなく、これからも先の世代に引き継いでいかなければいけないのだろうと思いました。
なぜ、こんなことを言うかというと前回(12月)の対談の終わりでも少し触れたとおり、引き継ぐということは、人を育てるということ、つまり人材育成のところに次の宿題が残されていて、連載のなかでもうひとつ大きなトライをしていかなければならないことだと改めて思いました。「人材育成」という単語こそ、職員が描く『ある風景』文章そのものには出てこないことなのだけれど、その意義について私自身として理解したということです。ともすると、人材育成のポイントは、もしかしたら今後研修なんかでケースワークの基本を学ぶことは勿論のこと、社会に対して広い視点をどうやってもてるようになるかと思ったりするわけですよ。

櫻井: 森内さんが言っていた「過去を振り返る」というところで「その起きたことは変えられないが出来事の意味は事後的に決まる、意思が未来を開き、未来が過去を意味づける」こういう言葉を最初に言って、結構センセーショナルな内容だなと思ったんですけど。
小林さんは「パートナーシップ」だけではこの社会福祉というものを乗り切れないということつまり、僕らは一歩すすんで天野さんが耕してきたことをもう一回考え直して、人材育成に力を入れることが必要と考えているのですね。

小林: メンバーとの  「パートナーシップ」だけじゃ足りないとは思っていなくて、パートナーシップは絶対に大切にする必要があるんだけど、『ある風景』を改めて自分なりに咀嚼してみて考えたのは、そこだけを学び取るんじゃなくて、その前提に社会と積極的に関わり続ける強い意識をもった創設世代の存在というものを文章から透けて見えたわけですよ。
その人達が「作業所作ろう」、「授産施設で就労やろう」っていう部分は、社会との関わりを強く意識していたのだと感じ、大切だと思ったのですよ。

櫻井: 森内さんの文章の最後の方で「先人達の意思が、担い手を育てる」という文章が引用されていたんですが、彼のように優秀な人でさえ「(先代の)人材教育を引き継ぐことは難しい」と言っているような気がしました。つまり、小林さんもその先人にならなくてはいけないと考えているのですね。

社会とコミットメントする(つながる)

いろんな精神障害の政策の改善や社会改革などに吸収されて発信されるべきものが個人への攻撃や中傷として表出されている。精神障害の問題もこれらの問題も根っこは皆同じ所だから、どうにもしがたいし犯し難い課題を持っている。私達が長年悩んできた精神医療や福祉の改革も社会の諸問題に結びついているから、そもそも一つの世代で解決できる事ではなかったのかもしれない。いつかきっとの「いつか」は少し長いスパンで考えていこう。

『精神障害のある人の就労定着支援 – 当事者の希望からうまれた技法』
天野聖子 著/多摩棕櫚亭協会 編著(中央法規出版) より

小林:  『ある風景』の中では、文章として現れている部分が少なかったかなぁと思ったんだけれども、そもそも作業所が作られた経緯があって、それは創設世代の人達は社会にコミットメントして(つながって)いくというかソーシャルな存在として、例えば精神障害者が病院に収容されることに対してやっぱり真摯に関わって、作業所という新しい価値を作ったと私は理解しています。創設世代の人達は社会的におかしいと感じたことを「おかしい」とちゃんと言う人達だったんだと思う。
こういう人達が組織からいなくなった時に「おかしい」と言える人間がいないとまずい、必要な新しいサービスが出てこない。
棕櫚亭はいつも社会にコミットメントしてきたということでここまでやってきた気がします。そのために最初は無認可だったけど、どんどんどんどんそうやってコミットメントして、サポートして食える人を増やし、いろんな自分達の力や組織的にも力をつけてここまで来たと思います。社会福祉法人として組織化された今はどうやってある意味窮屈な現状を変えていくのが私達の大きな仕事でしょうね。
そういう意味では、私達が自身を成長させていく時に大切なのは、もう少しものごとを大きく捉えて、つまりフレームを広げ挑戦し社会にコミットメントしていく力で、私も含めて、まだまだ弱いなぁと感じるところです。
社会にどうやって棕櫚亭が関わっていくのか、コミットする力をどのように付けていくのか、考えていきたいと思うのですよ。

櫻井:  そういえば、社会との接点といえば、1,000人規模のコンサートとかやってましたよね、「憂歌団」とか呼んで。行事をやってそこから運営費収入を得ていたとか、逞しさがありましたよね。

小林:  改めて考えた時、例えばコンサートを開くということの意義は、運営費稼ぎであったり、更に言えば、社会との接点つまり社会とのコミットを行なっていたということなんですよね。そういった感じのものを『ある風景』から学んで棕櫚亭らしさとして引き継いでいかないといけないなぁって思いますね。

櫻井:  小林さんの中で「コミットメント」という言葉が棕櫚亭成長へのキーワードになっているのですね。コミットメントを切り口に私自身の体験にひきつけて語るのならば、「社会からはじかれた自分」ということを思い出しました。
僕が大学の時に病気になって凄く人間不信に陥って被害妄想的なった時に「自分はこういう人間で、こういう考えだから」と先輩に10通くらい手紙を出したが1通も返ってこなかった。手紙を送ったにもかかわらず彼らが、言うならば社会が受け入れてくれなくて爆発しそうなエネルギーがあった。
その時は入院ってことになっちゃって「なんで入院させられるんだ!」という怒りもあったんです。
でも『ある風景』を読み、私が過去を振り返る意味を自分なりに考えた時になんで自分が病気になったかとか、なんで自分が入院しなきゃいけなかったのか、ということを気付かされました。つまり、その時の私は(小林さんが言うような福祉に)繋がらなかった人だったんだと思う。だから病気になってしまった。そしてそのまま(福祉に)繋がらなかったら一生涯わからなかったと思う、自分の病気とか。長かったけれども必要な時間だったのかもしれない。
自分自身のことや病気を知ることはここで言葉にするよりもかなり辛いことなのだけれども、その延長線上で棕櫚亭で仕事をするってこともできなかったと思う。かなり遠回りだったけど、自分を理解することで他の方の理解ができるようになった。自分の思い込みや思い違いがあるってことが実際に仕事をさせて頂いて、電話相談とかフリースペースに来る人達を通じて分かるようになってきたし、その溝を埋めることが、言葉であり、コミュニケーションなのだという気づきにつながっています。
そのことを敢えて伝える必要とは思わないんだけど、困っている人達がなんとなく、福祉に繋がってくれてよかったなぁと思っています。
そして職員となった今の僕も過去にははじかれた人かもしれないけれども、少しずつ引っ掛けていくという、そういう努力はこれからもしていかなきゃと思う。

小林:  櫻井さんが「社会からはじかれた」「辛い思い」は理解できます。でもコミットしていくことの必要を感じている私達の側から言うならば、もう一歩、二歩前にすすんで「本当は私達が出会わなければならない人達に出会う努力をしなければいけない」そしてそれが、社会にコミットするということだと思うということを私は言いたいのですよ。

櫻井:  確かに時間はかかってしまったが、棕櫚亭との出会いのなかから、いろんな人を知ることによって、社会から離れちゃった段階から、また新たに社会に戻されて社会の構成員としての生き方を見つけたんだと思うんですよね。
ちなみに、最近始めた「こども食堂」なんかのサポート事業も社会福祉法人として社会にコミット(貢献)したい流れの中で始めた事業ですかね?

小林:  最初は社会福祉法改正の中で社会福祉法人の社会貢献の義務化の話がでてきたので、棕櫚亭も何かやらなきゃという部分もあった。だけれども本来、社会福祉法が変わったからやるんじゃなくて関わってみたら、それより前にやっぱり社会のなかにある課題なわけだから、だったらそこに積極的に関わっていくというまず姿勢が私達には必要なんだと思い「子ども食堂」のサポートを始めたのですよ。社会福祉法人の社会貢献活動の義務化うんぬんは置いといて。

時代が変わっても – 普遍的なもの

AIやバイオテクノロジーが進化を遂げるなか、もしかしたら統合失調症の治療も大変化を遂げて、悲惨な精神病院の話は前世紀の遺物になるかもしれない。仮にそうだとしても、いつの時代も肝心なのは大きな渦中にいるたった一人のかけがえのない人を思う事であり、その人のありように通い合う心である。

『精神障害のある人の就労定着支援 – 当事者の希望からうまれた技法』
天野聖子 著/多摩棕櫚亭協会 編著(中央法規出版) より

櫻井:  山地さんが「10年後も(精神保健の)パイオニアでありたい」と書かれていたこと凄く印象的だったのですけども、そのパイオニア意識、ようするに開拓者であり改革者あり先人でありたいという意識を若い人にもってほしいと思っているのですね?

小林:  若い人もそうだけれども、まず私達棕櫚亭の経営陣が持たないと駄目だと思う。
何を耕すのか、何を開拓していくのかは社会の課題が見えてないといけないし積極的にそこに関わってなかったら課題が見えてこないから、パイオニアである為には社会に関心を持ちながら日々いなきゃいけない、それは凄く感じる。

福祉法制度上はいろいろ整ってきて、過去に比べれば精神障がい者にとって生きやすい社会になっていると思います。それでは日本が福祉的に充実してきたいえるのか?そこには疑問があって、私自身には実感が伴ってこないというのが本音です。結局、省庁の問題なんかも、障害者雇用促進法に定められた雇用率制度も以前に比べ拡充してきたにもかかわらず、行政庁が守っていなかったなど、露呈してしまった。ある意味実感を伴っていることだったんです。

そして、その実感の裏づけとして当事者の声に耳を傾け、その声を大切にしたいと思っているのです。例えば、SPJのような当事者活動からの声は大切だと思うのです。そういう当事者の声や力がこれから更に必要になってくると思います。

櫻井:  その話を聞いて思い出したことがあります。工藤さんが書いていたのですが、障害者自立支援法ができた時に同じ生活支援を行なっている「なびぃ」と「Ⅰ(だいいち)」のサービスが似通っているから、地域活動センターとして一つに統合されるのではないかという危機感が法人にありました。その時に「それは困る」とメンバーさんが声を上げ、小林理事長と工藤さんとメンバーさんが市役所に行って話しをきいてもらった。その結果、それぞれ地活Ⅰ型とⅡ型として存続できました。確かにあの時のメンバーさんたちの声は大きかったと思います。ああいうことですかね。

いきなり自立支援法でサービスが変わるのはびっくりしてしまいましたけど。

小林: 福祉サービスの法律の改正って、今のような社会情勢の中で必要な通過儀礼だったのかもしれません。措置から契約への変更は、当時も思っていたけれども、でも今から振り返ってみても「自立支援法」ができたことって大きな改革だったなぁって感じるところだよね。

櫻井:  でも、一方で法律が変わったところで変わらないことや場所がある。僕なんかは今も、棕櫚亭Ⅰにはのどかでゆったりできる昔からの雰囲気が残っている気がする。就労を目的をした場所ではないし、みんなが平日に行ってくつろげてる場所とか居場所として使っている所で、ある意味作業所時代のいい所を残している感じがする。あえて、棕櫚亭が残しているということなんでしょうね。

自立支援法によって、いろんなサービス形態ができ、選択の幅が増えたのはよいことだと思うのです。その一方で、社会的にみて経済性だとか効率性だとか強調される中で、人の尊厳なんていうと大げさだけど、安全に快適に過ごせる空間はいいなと思うんですけどね。この障がいの人達って一度経済社会からはじかれた辛さがあると思うので、まずはホッとできる気持ちを取り戻したいと思うのですよ。

形に残すこと – 出版することの意義について

小林: 棕櫚亭が社会福祉の活動を存続していくには、一定程度、制度にのらなくてはいけない事業規模になってきました。活動の継続性・連続性ということは、結果論ではなく法人としてきちんと取り組むべきことだと思います。そこは経営者として私は常に脳の片隅に持っています。それはメンバーと同様に、職員一人ひとりにも大切な生活があるということなのです。とはいえ、制度が変わろうと守らなければいけないものは、有形・無形、意識・無意識にいろんな断片として棕櫚亭のなかに残しているつもりです。

自分達の活動を「福祉サービス」という言葉で語ってしまったり、括ってしまうと、どうしても四角四面な印象が強くなって、自分達ができる事にリミッターを設定してしまうことがある。だから現場で働く職員には「支援の手法」よりも先に精神保健活動の意義や理念、そして棕櫚亭が思想性も含めて大切にしていることを意識して伝えなければいけないと感じている。実際、理念と実践を普段から言葉で結びつけ伝えていくようなことが、日々の忙しい活動の中で物理的(時間的)にも難しくなっている。支援の中身や意味づけって言葉にしづらいし、精神障がい者の方の支援って「言葉で行なうものだ」といいながらも、案外してこなかったなぁという反省が私にはあります。

櫻井: 社会福祉のあり方、つまりよいサービスを提供すれば棕櫚亭として事足りるのだという考え方ではないということなのですね。

小林:今回、前理事長の天野さんが『精神障害のある人の就労定着支援 – 当事者の希望からうまれた技法』執筆、出版されました。読ませていただいて、考えさせられたのは、「やっぱり語り継がなきゃいけない、人が育っていかなければいけない」と天野さんが思って、中にしまっていた言葉を全部紡ぎだしてくれたんじゃないかということです。とにかく、その熱量が凄い。理事長を引き継いだ私としてはプレッシャーを感じるほどです。

櫻井: 天野さんの書かれた文章で「諸問題を発信しても、これだけで全部を終われるかというとそうじゃない。これから、これをもとにしてやっていかなければならない」という凄い意欲を感じたのですけども、どのように次世代に繋げていくこととか、どうして過去を振り返るのかという問題を深く考えていかなきゃならないということですかね?

言葉にし切れてないってことはホントに僕らの未熟さもあるし、天野さんはいつも言ってたと思うんだけど「支援って言葉でやっていくんだよ」ってしつこいくらい言われてて、それは続けていかなければいけないし。この前に読んだ本で「社会ってコミュニケーションと言葉でできている」っていうようなことが書いてありました。だからそういう意味では言葉って凄く大事だし、そこは今後僕らに課せられたこと、発言していくことの大切さをこれからも考えていきたいと思いました。

小林: そうですね。これは森内さんも書いてくれたんですが「振り返ることができる歴史は組織にとって未来を作り出す財産だ」と書いてあるけど、まさに天野さんはそれをしてくれたんだろうね。天野さんが仕事を始めた精神病院の悲惨な歴史が今の私達の活動につながっていること、そしてその時遣り残したこと、思い残したことなど自分の負の部分をさらけ出して文字にしてくれている。「明るく、元気に、美しく!」を体現している天野さんもこんな歴史があり、思いがあり、「次どこへ行くのかしっかり自分達で考えなさい」ってバトンを渡されたのだと強く感じました。

天野さんも内省されていたように、私自身がどうしてここ(精神保健分野)で仕事をしているのか? どのような意義を見出しているのか今一度考え直すよい機会をいただいたと思っています。そして、平行して行なわなければいけない人材育成する上でとてもいい財産を残してくれたと感謝しています。

櫻井: 本当にありがたい財産ですよね。精神保健の関係者もさることながら、このような複雑多様化したいき難い社会の中で、ゆれながらも懸命に生きていく一人の人生の読み物としても刺激を受けます。読み手によっていろんなヒントが隠れていると思うので、ぜひ一般の方にも読んでいただきたいと思っています。ぜひ多くの方にお買い求めいただければと考えています。

小林: 最後になりましたが、この本という結晶は天野さんを中心に多くの人の下で生み出されています。形になったのは中央法規の柳川さん、アーガイルデザインの宮良さん、画家の満窪篤敬さん、そして、創設者世代の藤間陽子さん、寺田悦子さん、満窪順子さんのご尽力やアドバイスがあったからだと聞いております。感謝します。

本のあとがきに、感謝の一文を入れるのことが多いのですがかかれていません。それは、本に書かれたような大胆な行動家である一方、案外恥ずかしがり屋の面も強く持つ天野さんだからなのです。ですから、私 小林が現理事長として成り代わってこの場で改めてお礼申し上げます。

小林 櫻井 二人: (笑)

対談を終え…当事者スタッフ櫻井さんのコメント

『ある風景』も最後の対談を終え、『ある風景』に関わった人々皆様への感謝の念でいっぱいです。執筆いただいたかたは忙しい仕事の合間を縫って書いていただきました。ありがとうございました。

最後の小林理事長との対談はいろいろなことに話しがおよびました。

コミットメントというテレビCMでよく聞く言葉もつながっているという意味で使われていることが福祉の業界の特色をだしていると思います。CMでは誓約、確約などの意味で使われていたと思います。話は天野前理事長の本にも及びました。わたしも天野前理事長の若い頃からの人生の軌跡を読み涙がでました。挫折もあったけれどここまで棕櫚亭を大きな組織にした人生に感動しました。棕櫚亭が子供食堂への協力など社会福祉法人として果たしている役割を担っているのも誇りに感じました。

棕櫚亭の『ある風景』を語っていただいた方々につながる若い世代の人々が、この次はどんな “ある風景” を語ってくれるか楽しみです。

このサイトにアクセスし読んでいただいた皆様ありがとうございました。

 

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

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『精神障害のある人の就労定着支援 – 当事者の希望からうまれた技法』
天野聖子 著/多摩棕櫚亭協会 編著(中央法規出版) 

 

もくじ

 

特集/連載 Part ⑫『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “未来へのヒント”

法人本部 2019/04/26

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

未来へのヒント

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
常務理事 高橋 しのぶ
(精神保健福祉士)

作業所の原風景

「作業所のある風景」というと、一番目に浮かぶのは棕櫚亭Ⅰ(だいいち)の台所です。私が20代の時に過ごしていたのですから、古い一軒家の頃です。台所の隅にL字型に二つベンチが置いてあり、灰皿を挟んで丸椅子が置いてありました…… そう、灰皿が作業所の一番いいところにあった時代です。昼食作りの合間や昼休み、夕方によくお茶飲みながらみんなでおしゃべりしていました。台所はⅠの中心地と言ってもよく、時として大勢でにぎわう空間であり、そして時には一対一で静かに語り合う穏やかな場でした。

思えば、私が初めて棕櫚亭を訪れたのもⅠでした。その時はまだ学生で、市内の公民館にある喫茶運営に関わっていました。そこで作っているクッキーを保存する瓶を探していたら、「リサイクルショップに見に行ってみたら?」と教えてもらったのです。そのころのⅠには、通り沿いに棕櫚の木がまだ何本も生えていて、まるで映画に出てきそうな一軒家でした。土間のようなところにリサイクルショップ「ぱるむ」があり、共同作業所という言葉すら知らなかった私は、「国立にこういうところがあったんだ!」という驚きとともに、「この小さなコーナーに大きな瓶なんてあるのだろうか?」と思ったのですが、ありました(友人の情報は正しかった)。それにもまして驚いたのは、応対をしてくれた女性が、私が喫茶の当番日にコーヒーを飲みに来てくれたグループのお一人だったことです。その時は、まさか1年後に自分がぱるむの業務で市内を走り回ることになるとは思いませんでした。

生活者になる

大学卒業後、喫茶店運営に夢中なままの私は、アルバイトをしながら別の大学の通信課程になんとなく在籍し、これまたなんとなく友人(山地さんです)に誘われて棕櫚亭のアルバイトを始めました。私が入った時には作業所は三つになっていて、各作業所についていた「明るく元気に美しく」「食えて稼げてくつろげて」「寛いで寛いで寛いだら」というキャッチフレーズをもとに、創設者である4人の職員たちが得意分野を生かして、棕櫚亭や精神障害者を取り巻く歴史、補助金のこと、病気のことについて研修してくれました。

メンバーと一緒に作業をし、専門家ではなく共に地域で暮らす生活者として関わることを棕櫚亭は何より大切にしていました。一方、公民館で社会教育と出会い、様々なところへ研修で連れて行ってもらっていた私は、他の同年代の人よりも社会を知っていると思っていたかもしれません。なんと世間知らずだったことか…… ほどなく自分がそもそも生活者になっていないことに気づきました。だって、自分の生活の土台となることは家族にやってもらっていたのですもの。

昼食作り、公園清掃、雑巾作り、毎日先輩メンバーに教えてもらいました。私は食材の値段もあまり知らなかったので、みんなで出し合った予算で人数分の材料をやりくりすることや料理の仕方から始まって、精神病院のことや薬、生活保護制度のこと等、ほとんどが新しい世界でした。「お母さんに習わなかったの?」「やったことないの?」等々、特に昼食作りでは先輩主婦メンバーが驚きながらもやさしく教えてくれ、料理が上達していく事に喜びを感じていました。

「楽しくて、お互いのため」に棕櫚亭と地域は結びついていた

棕櫚亭は私が入ってほどなく、法人化に向けて動き出しました。社会福祉法人になることがどういうことかを深くわからないまま、私は三回目となるコンサートの担当になりました。

「自分たちが楽しくて、棕櫚亭のためになる」をモットーに集合した運営協力グループ「外野手(そとのて)」と、これまでの2倍近い1,500席余りのホールを使っての“憂歌団”コンサート。法人化のための資金作りも掲げつつ、1年間かけて準備しました。夜の実行委員会では誰を呼ぶのか、どうチケットを売るのかなどを侃々諤々(かんかんがくがく)議論し、終わったあとの飲み会から合流する人達もいて、外野手メンバーの家族が経営していた居酒屋の2階では、これまで出会わなかった地域の人たちとの時間があっという間に過ぎました。そして迎えたコンサート当日、会場の一番後ろから“憂歌団”のメンバーが登場してくるのを見た時には、もう感無量で涙がこぼれました。

とはいえ、ただ一生懸命なだけでしなやかさのなかった私は、周りの方たちにたくさんの迷惑をかけました。結果として目標としていた資金が作れたかどうかは覚えていないのですが(笑)、私にとってこの外野手コンサートから得た経験は格別なものです。

コンサートの棕櫚亭らしかったところは、福祉を前面に出さず、そのアーティストを聞きたいお客さんに来てもらって、さりげなく棕櫚亭のことを知ってもらう、そのようなスタンスであったことだと思います。それは、Ⅰのキャッチフレーズである「明るく 元気に 美しく」にも正に表現されています。「福祉っぽくなく」とも言っていましたが、「作業所を地域の中の特殊な場所にしない」という設立からのモットーが随所に表れていました。

憂歌団(木村さん)とコンサート打ち上げで

憂歌団(木村さん)とコンサート打ち上げで

地域という視点では、楽しそうな事や興味深いテーマに出会ったら身内だけで行わない、地域に広げるというのも棕櫚亭が大事にしていることです。現在のこども食堂や学習支援への夕食配達という、地域貢献活動から繋がった地域の方たちとの協同も、「食」だけにとどまらず、一緒に研修を開催したりするようになってきています。ここにも棕櫚亭を開いた場所にしよう、楽しいことは自分たちだけで独り占めしないという作業所文化が継承されています。

作業所を再度考える

 今後、障害者自立支援法という新しい枠組みの中で、作業所がそのままの形で存続していくことはいよいよ難しくなってきました。この法律がどうかということは別として、これまでの作業所活動のよかった部分、反省すべき部分、両方を振り返るときが来ていると思います。それを踏まえ、今後どのような活動をしていくとしても、これまで大事にしてきた「安心してチャレンジできる」「仲間に出会える」「自信の回復につながる」そして何よりも「元気になる」場所であることを目指してきたいと考えています。

2006.9 はれのちくもり ピアス物語 「作業所の今、そして今後」 より抜粋

これは、棕櫚亭が2006年に出版した『はれのちくもり ピアス物語』に、私が寄せた文章の最後の部分です。この頃作業所はピアス設立後の機能の再構築というテーマに加え、2000年前後から始まった社会福祉の基礎構造改革により、「支援」や「サービス」という言葉が各現場に入ってきていました。また、出版と同年に施行された障害者自立支援法により、現在の施設は5年以内に法に定められたいずれかの事業体に移行しなければいけないことも決まっていました。この大きく精神保健福祉の流れが変わり始めた頃、作業所はその機能の必要性と重要性を確信する一方で、先行きが見えない不安に包まれていたように思います。実際、この頃私がいた立川では、作業所連絡会の話し合いを何回も行って、作業所機能の存続(地域活動支援センター)を行政に求めていました。

時は流れ、自立支援法が総合支援法に変わった現在、東京に200か所以上あった作業所は法律上消滅しています。その多くは個別給付と呼ばれる就労継続支援事業B型に移行しましたが、平均工賃によって収入がかわる報酬の仕組みに存続の危機を感じているところも多いと聞きます。さらに規制緩和という名の下に競争原理が導入され、事業所の役割はますます細分化され隙間を埋めづらくなりました。社会自体も、少子化や高齢化、そして災害が繰り返される中、家族は分断され、その影響は高齢者や障がい者、ひとり親、こどもなど弱い方弱い方へと拡がっています。

そのような中で、共同作業所のような機能を補助金や委託費で展開していくことは、もう現実的ではないかもしれません。しかし、時に混とんとしつつも、作業所には社会を知る上でのすべてがあったことは、私たちに未来へのヒントをくれているような気がします。

生身の人間同士が時にぶつかり合いながらともに過ごすことによって相互理解が生まれる場所であった、その相互理解から生み出される「居場所」という宝物だったと思います。

最後に…… 棕櫚亭Ⅰの台所

  大した事務仕事もなかった入りたての頃、よく夕方にⅠの台所のベンチでメンバーとおしゃべりしていました。ある時、当時私の母と同じ年くらいのメンバーと二人になった時間帯がありました。なんてことない話から、その方は自分のお母様の話をし始めました。その方の若い頃に、お母様が自分の目の前で服毒死されたのだそうです。私は絶句してしまい、何を返したか覚えていません。その方はまるでその時に戻ったかのように、お母様がこころの病で苦しんでいたこと、目の前で薬を飲んで苦しむ姿をどうしようもできなかったことなどを涙ながらに語り、最後に「こんな話をしてごめんなさいね」と涙を拭っていました。私は、それまでその方の何を見ていたのだろうと思いました。作業所でのやりとりだけで、その方に対する印象を勝手に決めつけていた自分をとても恥ずかしく思いました。

この人に話して良かったと思ってもらえるような人になりたい、少なくとも話したことを後悔するような職員にはならないように力をつけようと強く思いました。それが私の人と関わる仕事を続けていく上での原点の一つです。常に自分の姿勢やありようを変えてくれる、それを体感させてくれる時間でした。

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

ある風景も最終回を迎え、高橋さんの台所からの報告は本当に情景が目に浮かぶようです。「生活者になる」のくだりは、そうそうあるあると思わず声をだして読んでいました。私も十代の頃から病気になった為、生活のほとんどを親がやってくれ食材の値段に目がいくようになったのも恥ずかしい話ここ数年のことです。でもそんな「野菜の値段が高くなったですね。」という話題から人は心を開き様々な話題に及ぶのも、長く病気になっていると気づきません。社会に繋がるというのは生活を自分で組み立てる楽しさを経験していく、そんなことを高橋さんの文章は言っているような気がしました。憂歌団の話も楽しいお話です。障害者自立支援法、総合支援法のなかを棕櫚亭がどう泳いでいくか、そんなことを考えながらも大切なことを伝えています。「この人に話してよかったと思えるような人になりたい、少なくても話したことを後悔するような職員にならないように力をつけよう」と。

この原点こそが大切なことだと思いました。

ある風景も今回で最終回です。次回は対談編になります。お楽しみに!

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

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