特集/連載 Part ⑫『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “未来へのヒント”

法人本部 2019/04/26

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

未来へのヒント

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
常務理事 高橋 しのぶ
(精神保健福祉士)

作業所の原風景

「作業所のある風景」というと、一番目に浮かぶのは棕櫚亭Ⅰ(だいいち)の台所です。私が20代の時に過ごしていたのですから、古い一軒家の頃です。台所の隅にL字型に二つベンチが置いてあり、灰皿を挟んで丸椅子が置いてありました…… そう、灰皿が作業所の一番いいところにあった時代です。昼食作りの合間や昼休み、夕方によくお茶飲みながらみんなでおしゃべりしていました。台所はⅠの中心地と言ってもよく、時として大勢でにぎわう空間であり、そして時には一対一で静かに語り合う穏やかな場でした。

思えば、私が初めて棕櫚亭を訪れたのもⅠでした。その時はまだ学生で、市内の公民館にある喫茶運営に関わっていました。そこで作っているクッキーを保存する瓶を探していたら、「リサイクルショップに見に行ってみたら?」と教えてもらったのです。そのころのⅠには、通り沿いに棕櫚の木がまだ何本も生えていて、まるで映画に出てきそうな一軒家でした。土間のようなところにリサイクルショップ「ぱるむ」があり、共同作業所という言葉すら知らなかった私は、「国立にこういうところがあったんだ!」という驚きとともに、「この小さなコーナーに大きな瓶なんてあるのだろうか?」と思ったのですが、ありました(友人の情報は正しかった)。それにもまして驚いたのは、応対をしてくれた女性が、私が喫茶の当番日にコーヒーを飲みに来てくれたグループのお一人だったことです。その時は、まさか1年後に自分がぱるむの業務で市内を走り回ることになるとは思いませんでした。

生活者になる

大学卒業後、喫茶店運営に夢中なままの私は、アルバイトをしながら別の大学の通信課程になんとなく在籍し、これまたなんとなく友人(山地さんです)に誘われて棕櫚亭のアルバイトを始めました。私が入った時には作業所は三つになっていて、各作業所についていた「明るく元気に美しく」「食えて稼げてくつろげて」「寛いで寛いで寛いだら」というキャッチフレーズをもとに、創設者である4人の職員たちが得意分野を生かして、棕櫚亭や精神障害者を取り巻く歴史、補助金のこと、病気のことについて研修してくれました。

メンバーと一緒に作業をし、専門家ではなく共に地域で暮らす生活者として関わることを棕櫚亭は何より大切にしていました。一方、公民館で社会教育と出会い、様々なところへ研修で連れて行ってもらっていた私は、他の同年代の人よりも社会を知っていると思っていたかもしれません。なんと世間知らずだったことか…… ほどなく自分がそもそも生活者になっていないことに気づきました。だって、自分の生活の土台となることは家族にやってもらっていたのですもの。

昼食作り、公園清掃、雑巾作り、毎日先輩メンバーに教えてもらいました。私は食材の値段もあまり知らなかったので、みんなで出し合った予算で人数分の材料をやりくりすることや料理の仕方から始まって、精神病院のことや薬、生活保護制度のこと等、ほとんどが新しい世界でした。「お母さんに習わなかったの?」「やったことないの?」等々、特に昼食作りでは先輩主婦メンバーが驚きながらもやさしく教えてくれ、料理が上達していく事に喜びを感じていました。

「楽しくて、お互いのため」に棕櫚亭と地域は結びついていた

棕櫚亭は私が入ってほどなく、法人化に向けて動き出しました。社会福祉法人になることがどういうことかを深くわからないまま、私は三回目となるコンサートの担当になりました。

「自分たちが楽しくて、棕櫚亭のためになる」をモットーに集合した運営協力グループ「外野手(そとのて)」と、これまでの2倍近い1,500席余りのホールを使っての“憂歌団”コンサート。法人化のための資金作りも掲げつつ、1年間かけて準備しました。夜の実行委員会では誰を呼ぶのか、どうチケットを売るのかなどを侃々諤々(かんかんがくがく)議論し、終わったあとの飲み会から合流する人達もいて、外野手メンバーの家族が経営していた居酒屋の2階では、これまで出会わなかった地域の人たちとの時間があっという間に過ぎました。そして迎えたコンサート当日、会場の一番後ろから“憂歌団”のメンバーが登場してくるのを見た時には、もう感無量で涙がこぼれました。

とはいえ、ただ一生懸命なだけでしなやかさのなかった私は、周りの方たちにたくさんの迷惑をかけました。結果として目標としていた資金が作れたかどうかは覚えていないのですが(笑)、私にとってこの外野手コンサートから得た経験は格別なものです。

コンサートの棕櫚亭らしかったところは、福祉を前面に出さず、そのアーティストを聞きたいお客さんに来てもらって、さりげなく棕櫚亭のことを知ってもらう、そのようなスタンスであったことだと思います。それは、Ⅰのキャッチフレーズである「明るく 元気に 美しく」にも正に表現されています。「福祉っぽくなく」とも言っていましたが、「作業所を地域の中の特殊な場所にしない」という設立からのモットーが随所に表れていました。

憂歌団(木村さん)とコンサート打ち上げで

憂歌団(木村さん)とコンサート打ち上げで

地域という視点では、楽しそうな事や興味深いテーマに出会ったら身内だけで行わない、地域に広げるというのも棕櫚亭が大事にしていることです。現在のこども食堂や学習支援への夕食配達という、地域貢献活動から繋がった地域の方たちとの協同も、「食」だけにとどまらず、一緒に研修を開催したりするようになってきています。ここにも棕櫚亭を開いた場所にしよう、楽しいことは自分たちだけで独り占めしないという作業所文化が継承されています。

作業所を再度考える

 今後、障害者自立支援法という新しい枠組みの中で、作業所がそのままの形で存続していくことはいよいよ難しくなってきました。この法律がどうかということは別として、これまでの作業所活動のよかった部分、反省すべき部分、両方を振り返るときが来ていると思います。それを踏まえ、今後どのような活動をしていくとしても、これまで大事にしてきた「安心してチャレンジできる」「仲間に出会える」「自信の回復につながる」そして何よりも「元気になる」場所であることを目指してきたいと考えています。

2006.9 はれのちくもり ピアス物語 「作業所の今、そして今後」 より抜粋

これは、棕櫚亭が2006年に出版した『はれのちくもり ピアス物語』に、私が寄せた文章の最後の部分です。この頃作業所はピアス設立後の機能の再構築というテーマに加え、2000年前後から始まった社会福祉の基礎構造改革により、「支援」や「サービス」という言葉が各現場に入ってきていました。また、出版と同年に施行された障害者自立支援法により、現在の施設は5年以内に法に定められたいずれかの事業体に移行しなければいけないことも決まっていました。この大きく精神保健福祉の流れが変わり始めた頃、作業所はその機能の必要性と重要性を確信する一方で、先行きが見えない不安に包まれていたように思います。実際、この頃私がいた立川では、作業所連絡会の話し合いを何回も行って、作業所機能の存続(地域活動支援センター)を行政に求めていました。

時は流れ、自立支援法が総合支援法に変わった現在、東京に200か所以上あった作業所は法律上消滅しています。その多くは個別給付と呼ばれる就労継続支援事業B型に移行しましたが、平均工賃によって収入がかわる報酬の仕組みに存続の危機を感じているところも多いと聞きます。さらに規制緩和という名の下に競争原理が導入され、事業所の役割はますます細分化され隙間を埋めづらくなりました。社会自体も、少子化や高齢化、そして災害が繰り返される中、家族は分断され、その影響は高齢者や障がい者、ひとり親、こどもなど弱い方弱い方へと拡がっています。

そのような中で、共同作業所のような機能を補助金や委託費で展開していくことは、もう現実的ではないかもしれません。しかし、時に混とんとしつつも、作業所には社会を知る上でのすべてがあったことは、私たちに未来へのヒントをくれているような気がします。

生身の人間同士が時にぶつかり合いながらともに過ごすことによって相互理解が生まれる場所であった、その相互理解から生み出される「居場所」という宝物だったと思います。

最後に…… 棕櫚亭Ⅰの台所

  大した事務仕事もなかった入りたての頃、よく夕方にⅠの台所のベンチでメンバーとおしゃべりしていました。ある時、当時私の母と同じ年くらいのメンバーと二人になった時間帯がありました。なんてことない話から、その方は自分のお母様の話をし始めました。その方の若い頃に、お母様が自分の目の前で服毒死されたのだそうです。私は絶句してしまい、何を返したか覚えていません。その方はまるでその時に戻ったかのように、お母様がこころの病で苦しんでいたこと、目の前で薬を飲んで苦しむ姿をどうしようもできなかったことなどを涙ながらに語り、最後に「こんな話をしてごめんなさいね」と涙を拭っていました。私は、それまでその方の何を見ていたのだろうと思いました。作業所でのやりとりだけで、その方に対する印象を勝手に決めつけていた自分をとても恥ずかしく思いました。

この人に話して良かったと思ってもらえるような人になりたい、少なくとも話したことを後悔するような職員にはならないように力をつけようと強く思いました。それが私の人と関わる仕事を続けていく上での原点の一つです。常に自分の姿勢やありようを変えてくれる、それを体感させてくれる時間でした。

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

ある風景も最終回を迎え、高橋さんの台所からの報告は本当に情景が目に浮かぶようです。「生活者になる」のくだりは、そうそうあるあると思わず声をだして読んでいました。私も十代の頃から病気になった為、生活のほとんどを親がやってくれ食材の値段に目がいくようになったのも恥ずかしい話ここ数年のことです。でもそんな「野菜の値段が高くなったですね。」という話題から人は心を開き様々な話題に及ぶのも、長く病気になっていると気づきません。社会に繋がるというのは生活を自分で組み立てる楽しさを経験していく、そんなことを高橋さんの文章は言っているような気がしました。憂歌団の話も楽しいお話です。障害者自立支援法、総合支援法のなかを棕櫚亭がどう泳いでいくか、そんなことを考えながらも大切なことを伝えています。「この人に話してよかったと思えるような人になりたい、少なくても話したことを後悔するような職員にならないように力をつけよう」と。

この原点こそが大切なことだと思いました。

ある風景も今回で最終回です。次回は対談編になります。お楽しみに!

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❸『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “そこにあるすべてをメンバーとともに”

法人本部 2018/09/28

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

そこにあるすべてをメンバーとともに

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
地域活動支援センターなびぃ 施設長 伊藤 祐子

〈棕櫚亭〉との出会いの風景。

季節は秋。昭和記念公園の原っぱは、よく晴れて風が吹いています。当時、地域福祉の仕事をしていたわたしは、そこで開催されているイベントの担当者としてテントを見回りながら、ゴミを拾い発電機を点検し団体に声をかけるなどの、雑多な仕事に追われていました。
その一角に棕櫚亭がテントを出していました。他よりずいぶんのんびり準備していて、開店が遅くなった団体です。売り物はポップコーンとビールだったと思います。開店してからは順調にお客さんが訪れているようで、手作りの看板の下から頭にバンダナを巻いた何人もが顔を出し、テントを訪れるお客さんにガヤガヤと対応しています。テントの脇で看板を手にした人の「ポップコーンいかがですかぁ」の声がのどかに響いています。
そのテントの後ろ側にまわったときです。あたたかい日が射す草の上に大きなブルーシートが敷かれ、そこにいろんな人たちが腰をおろしています。紙コップを片手に輪になってのんびりおしゃべりする人たち、かたやぼんやり黙って静かな人たち、横になって目を閉じている人、そして中にはギターを弾いて歌っている人までいます。おもいおもいに過ごす人たちと、せつないような楽しいような聞いたことのないメロディーが漂うその光景が、なんともふわふわと非日常で、でもどこか日常の延長のような感じもあり、そしてどんな人もそこにいられる「懐の深さ」のようなものを感じたその不思議な眺めを、20年経った今も思い出すことができます。

時は平成17年。障害者自立支援法前夜。

それから数年後、縁あってわたしは多摩棕櫚亭協会に入職し、平成17年に〈棕櫚亭Ⅱ・だいに〉に配属されます。当時「小規模通所授産」と呼んでいたこの事業は、その翌年の平成18年に施行された障害者自立支援法によって行き先の選択を強いられることになるのですが、時はまさにその直前。今回総括する〈共同作業所〉としては最終章の場面ですので、わたしはそれを体感できた最後の世代ということになります。今この文章を読んでくださっている方に、その空気が少しでも伝わればいいなと思いながら書いています。

Ⅱは、立川駅南口の雑多な喧騒を通り過ぎた住宅街にあらわれる、ちょっと古ぼけた紺色のアパートの1階にありました。「懐が深い」というイメージを抱いて棕櫚亭にやってきたわたしですが、実際に中に入ってみると、拠り所である信条とやり方が確かであることが「懐が深い」場を維持しているのだということがわかりました。そこには、「作業所で行うすべてのことをメンバーと共有する」という信条がありました。

作業所のすべてをメンバーとともに。

ある夏の日。車を停めて小さなアパートの前に降り立つと、先月も草むしりをしたはずなのに雑草が元気よく青々と茂っています。誰かが「あー、これは草むしりしないとダメだねー」とつぶやき、「草取りやりたい人ー?」とそれぞれの希望を聞いて分担を決めるうちあわせが始まりました。場所は、立川駅から車で5分ほど走った、細い路地に建つ古いアパートです。黒いエプロンの背中の紐をお互いに結び合って支度を整えた8人は、それぞれの道具を手に、仕事にとりかかります。草取りチームは片手に小さな鎌、片手にコンビニ袋を持ち、アパート周りの隙間にしゃがみ込みます。後ろの手すりでは、拭きチームが雑巾がけを始めています。階段では、ほうきチームが、ガシャンガシャンとちりとりを使って掃き掃除を始めています。「休憩は11:15ごろにねー」「お茶持ってきたー?」という声が聞こえています。

参加が少ないプログラムのかわりに、大いにやっていこうということになった作業は、地元の不動産屋さんからもらったアパート清掃の仕事でした。あちこちに傷のある8人乗りのステップワゴンに乗りこみ(ええ、その傷のうちいくつかはわたしにも身に覚えがあります…)、小さなアパートをみんなで取り囲み、せっせと掃除しました。そこにまつわるすべての事をメンバー・職員みんなで手分けしました。作業はもちろん、道具の準備から後片付け、日誌を書き、請け負っているすべてのアパートに毎月行けるようにミーティングで予定を組み、月末には請求書を作って不動産屋さんに届け、ほうきが壊れればみんなでホームセンターへ買い出しに。雨が続くと予定が進まないと焦り、落ち葉の多い季節はげっそりし、感謝の言葉をもらえばみんなで喜び、苦情がくればみんなでしょんぼりしながら改善策を考えました。暑い日も寒い日も、体調が悪い人は悪い人なりに、元気な人は元気な人なりに。
他の場面でも同様でした。そこにまつわるすべてのことをメンバーから奪わない、というのがここの流儀でした。いいことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも。

シンプルに。すべてをメンバーと。

みんなが自分のこととして考え行動できるように、物事はシンプルでした。例えば、みんなで使う道具や文房具、食器など、Ⅱにあるいろんな物は、どこに何があるかみんなでわかるようにしていて、使いたいと思うときに誰でも使えるようになっていました。「物がどこにあるかわからないと、知らない人の家に来たような気持ちになるもんね」、と誰かが言いました。しくみ、活動内容、時間の流れについても、一人一人が「主」であるように「お客さん」になってしまわないように、シンプルに見えやすくのが、ここのやり方でした。

それぞれの抱えている課題でうまくいかないこともいろいろありました。それもなるべくメンバー同士でお互い考えることを励ましました。体調が悪いメンバーが来所できなくなったときには、メンバーと一緒に自宅に顔を見に行ったこともありました。ソファや部屋の隅で、いろいろな人が個人的な状況を話したり相手の話を聞いたりしていました。わたしも、自分の生活状況や悩みをずいぶん聞いてもらいました。個人情報という言葉が頻回に聞かれる今となっては、懐かしい光景です。

メンバーと職員の関係性もどこか「お互いさま」というムードがありました。若く、未熟な職員は特に「メンバーに育ててもらう」ことが当たり前でした。わたしにできることといえば、安定して出勤しているということくらいだったでしょうか。人生経験も、言葉の含蓄も、まとっている文化も、メンバーの方が一枚も二枚も上でした。未熟なわたしがときに偉そうなことを言っても、うんうんと聞いてくれた年上のメンバーたちの顔がたくさん思い浮かびます。「懐が深い」とわたしが感じた棕櫚亭の魅力は、まさに、歴代のメンバーたちが造ってきたものだったんだということが、今はわかります。

挿画 バベットしもじょう ある風景 ~共同作業所 棕櫚亭を、私たちが総括する。|社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会

共同作業所の風景 画-バベットしもじょう

それぞれの船出 ~変化の波にのって。

明るく元気に美しく。創設者たちが謳ったキーワードどおり、通所メンバーも増え、活発に活動していたⅡにも、変化の波がひたひたと迫ってきていました。懐深く、いろいろな人のいろいろな活動や在りようを受け入れてきたⅡが、法の枠組みの中で何を選択していくのか。悩みに悩んで出した結論は、事業の終了でした。これは、メンバー一人一人の進路について考え、当時の社会資源、法人全体の方針を考えた上で出した苦渋の決断でしたが、棕櫚亭が大切にしてきた「変化をおそれない」という文化にも当てはまることだったと思います。Ⅱらしく、それぞれの在りたいことやりたいことに向き合っていこうという方針が決まり、ちょうどこの頃、お腹に第一子を授かったわたしは、これから変化していくⅡと同じ状況であることに感慨を覚えながら、次の地点への着地まで見守っていく作業が始まりました。

それぞれの進路について考え、決断していく作業はたいへんなものでした。自分がこれから何をしたいか考えて結論を出し、新しい場でチャレンジするということには、いくつものハードルがありましたが、変化へのストレスと不安と闘いながら、それぞれのメンバーがぞれぞれのペースでそれを超えていきました。だんだん暑くなっていく季節でした。いろいろな社会資源を一緒に見学にまわりながら、ご本人にとって何回目かの人生の岐路に立ち会っているんだと、じりじりと照る陽射しを受けながらわたしは実感していました。汗をだらだら流しながら一緒に歩く妊婦の存在は、みんなにとってプレッシャーだったとは思いますが…。

結果的に、わたしが組ませてもらったメンバーはみんな、次のステップを決めて船出しました。それができたということは、やはり、その人自身に力があったんだと思います。そしてさらに言えば、このⅡですべてを分かち合い、ここで起こる物事を「自分のこと」として受け止め行動してきたことが、この決断につながった、ということもあるのかもしれません。悩んで揺れながら、次の一歩を自分の力で決めていく姿を、横でしっかり見させてもらったわたしは、最後まで本当にメンバーに育ててもらいました。
その後まもなくみんなに見送られて産休に入ったわたしは無事出産し、わたし自身の作業所歴はここで幕を閉じます。

育休後復帰したわたしは、今は「なびぃ」に勤務し、メンバーのみんなと向き合う日々は続いています。あのころⅡメンバーに教わったギターを、ときおり「なびぃ」メンバーとたどたどしくつま弾くとき、Ⅱの風景と手触りがわたしの中にふいに色濃く立ち上がります。その文化をきちんと次世代に伝えるという恩返しができたら…、その時こそ本当に「お互いさま」と言えるのかもしれません。車の運転の上達はもうあきらめたけど、あの頃を思い出しながら、もう少しギターの練習がんばってみようかな。

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

伊藤さんの「ある風景」を読みながら、一つのシーンが浮かびました。ゆったりとした時がながれるなかで、メンバーも職員も分け隔てなく笑いあって過ごしている風景です。
その風景が市民祭の場であったり、アパートの掃除であったりです。そこでかわされる言葉の優しさが、メンバーさんの懐の深さが、伊藤さんに大きく影響を与えたとの思いがあります。メンバーさん皆が作業所のどこになにがあるのかを知っている。皆が主役という考え方は大切にしたいと思います。皆それぞれの道に踏み出し船出していった。その後のメンバーさんに会ってみたくなりました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会
挿画: バベットしもじょう

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