ピアスタッフとして駆け抜けた10年
~支援することと支援されることのはざまで~

ピアスタッフ 櫻井 博


※この文章は、令和5年活動報告会での貴重講演を原稿にしたものです。

はじめに

今紹介された、多摩棕櫚亭協会の櫻井です。私は小学5年の時に国立に引っ越してきてから短期間ほかに住んだこともありますが、30年以上国立に住んでいます。今回の講演の話を頂いた時は驚きました。棕櫚亭内部でお話しさせてもらったことがなかったからです。去年は世田谷でピアサポーター研修の講師をしました。先駆的な試みですが、私はその時国立市でも同じようにピアサポーターが増えてくれればと願いました。
ピアスタッフとして駆け抜けた10年をお話しさせていただきたいと思います。
私は普通の家庭で過ごしました。19歳の時に発病するまでは。その頃はまだ精神の病はいまほど知られていなくて、両親も悩んだ末病院に入院させたと、後で聞いています。
大学に進み、就労していく過程で思春期に受けた病に何度となく苦しめられました。病院に入院したり仕事を変えたりで時は過ぎていきました。
45歳の時、仕事の帰りに棕櫚亭と書かれたごみ箱が階段の下に置かれていて、そこに精神を病んだひとの居場所があることを知りました。仕事の愚痴をこぼしたくて、そこの施設長に毎日のように立ち寄り話を聞いてもらいました。結局45歳という年齢で会社を自己都合で辞め、棕櫚亭にメンバーとして通いはじめました。将来の展望も描けず、棕櫚亭に通うことも、棕櫚亭を休んだ頃2回の入院を体験しました。この頃は一人暮らしをしていたので、入院費やアパートの家賃やらの支払いには両親は苦労したかと思います。最長で半年ぐらい入院した時、まだアパートは借りていました。退院してすぐしたのは、寝床に入ったことでした。病院も疲れる場所だったので休みたかったです。今の病院は休息で入院できるようですが。棕櫚亭のメンバーさんが入院の時お見舞いに来てくれたりしたことは、とてもうれしく思いました。退院してからはアパートで横になりながらFM放送を聞いてのんびり過ごすのが日課になりました。10日ほど過ぎてから棕櫚亭に顔をだしました。
その時改めて棕櫚亭は居場所と感じられました。
そこでピアサポーターという活動を知り、まず始めは自分の退院した病院に出前講座に行きました。事前に病院のスタッフと打ち合わせをして話す内容としては、社会で暮らすことは、こんなに素晴らしいということを話してほしいということでした。入院していると社会で暮らすことは不安だらけで、また症状もあり、とても退院を考えられないという人もいます。その入院している方々に社会で暮らすことの希望みたいなものを話してほしいということでした。その時話した内容は退院時CC(関係者会議)を開いていただいたこと。そしてホームヘルプサービスを利用し訪問看護の人にきていただき、生活を成り立たせていった経験を話しました。
退院の時、周囲(ご近所さん)への不安や経済的な不安がありました。でも作業所に通って徐々に生活を楽しめるようになりました。社会生活は踏み入れればそんなに怖いこともないし、楽しいですよ。そんなこともお話ししました。また入院中こんなことに注意して生活していたとも話しました。病院でOTの時間を真面目に取り組んだり、睡眠時間を十分とったりして生活していたとも話しました。患者さん20名ぐらいの前でしたが緊張しました。
その後も同じ病をもつ私が他の病院に出かけて行き、出前講座をし、病院OTの茶話会の司会などをして過ごしました。そのころはもう50代に近くなっていました。まる5年間棕櫚亭に通い、職がなかったので、将来への不安はありました。でもなんとかもう一度仕事がしたいと思っていました。50代を過ぎたころ、棕櫚亭の担当スタッフと相談して、通信の大学に行きたいと言いました。その時は自分が働くというより、2年間を大学で過ごし、そこからなにか将来へのヒントがないか探ろうという気持ちが強かったです。
この大学に進学したのは資格取得というより、精神医学の勉強がしたかったからです。自分を半世紀以上にわたってくるしめた病の専門家になろうと思いました。
20冊以上の教科書を読み、レポートを提出し実習に行き、自分の病気を深く理解しました。
仲の良かったメンバーさんとの交流も徐々に減っていきましたが、通っていた通信の大学の生徒で同じような境遇の人と出会い、4、5人のグループで励ましあいながら勉強しました。
そんな感じで精神保健福祉士の資格を取り、棕櫚亭にスタッフとして採用されました。
メンバーだった7年あまりと、その後10年のスタッフとしての仕事のお話しをしたいと思います。

メンバーだった棕櫚亭Ⅰでのこと

棕櫚亭というところは、スタッフとメンバーさんが共に作っていく。そんなところを大事にしています。共に意見を言い、お互い納得のいく形で生活なり就労活動をすすめていく、それをとても大事にしている法人です。理念に掲げる「精神障害者の幸せ実現」そんなところから生まれた核となる考え方です。障害者自立支援法以前には、スタッフとメンバーというくくりがとても小さかったような感じがします。旅行の企画や魚釣りの企画など、メンバーさんスタッフがプロジェクトを作ったりして、みんなで考え方を出し合って作っていく。活動自体はメンバーもスタッフもないそんな雰囲気が漂っていました。
現在の棕櫚亭もその時の雰囲気に近いものに、原点回帰しているそんなことも聞かれます。
買い物ひとつにも多くの人の手がかかっているそんな毎日でした。個々の作業を通じて学んでいく、元気になっていく私にはそんな時期でした。

精神保健福祉士の資格をとったこと

50歳を超えた頃、この精神の病気を専門に勉強し、なにかそれを今後の人生に役立てないか考え始めました。記憶力のピークは過ぎていたし、棕櫚亭メンバーだったころ他の事業所主催の講演会を聞きに行くだけでは満たされない時期があり、考えました。
その頃の収入は障害年金と工賃だけでした。でもどこかで、また就労できる、経済的に安定すると漠然とした希望はもっていました。大学卒だと、2年間の通信教育で、精神保健福祉士の資格を取れることを知り、これに挑戦しようかと思いました。
2年間で資格を取れなかったら、この分野で仕事をするのは諦めようという気持ちもありました。就労を生活と切り離すことはできませんが。車の両輪のように、生活と就労活動を考えていました。この頃はまだヘルパーさんに来ていただいてもらったり、訪問看護さんに来訪してもらい、生活の基本的な部分はずいぶん改善されていたところでした。

ヘルパーさんと訪問看護さんにお世話になり

何故この方々が必要かというと、どちらも病気の部分、できないことを、少しでも改善してくれるからです。よく社会モデルというと、できないことは環境を変えるというし、できないことよりできることを伸ばせと言います。もともと経験の少ない当事者はこの経験をできるということにあります。ヘルパーさんの背中をみて、まねてやることで家事をはじめとした、もろもろのことができるという経験になります。週2回来ていただいたヘルパーさんには本当にお世話になりました。資格の勉強もその時間ヘルパーさんに家事をやってもらって、参考書を読めたことも事実です。掃除や洗濯などの家事をやっていただき、体力もためられました。いわゆるお手伝いさんと違うのは、いずれかはヘルパーさんがいなくなった時も、同じように自分も生活できるレベルになることが目標だということだと思います。障害をもつものが家庭の様々のこと、ゴミ出し、掃除、料理などをこなすことは、かなりハードルが高いですが、これが生活をすることと、学ぶ点はたくさんありました。まず、自分が回復する過程で最初は自分で生活できる基礎を学ぶことが大きいです。勉強の合間にもヘルパーさんの動きをよくみて学びました。ジーパンの干し方も、できた料理を食べる時も、野菜の切り方のサイズなどにも目配りしました。資格試験の勉強が終わったと共にヘルパーさんの力を借りず自分でするようになりました。でも生活面だけではなく、時に話し相手になっていただいた効果も大きかったです。外の風を入れてくれたことです。 訪問看護さんは病気に関するアドバイスを受けます。コミュニケーションの基本みたいなものを教えてくれます。棕櫚亭Ⅰでの人間関係などにも相談に乗っていただきました。また薬の効き方なども聞くことができます。訪問看護の専門性は言葉によるものなので、つっこんで聞くことで病気が治っていくのを実感できます。
例えば実家とうまくいかないことがたびたびありました。一例として両親に相談するエピソードにこんなことがありました。
実家とうまくいかないときは「そういう場合は話題を両親2人に同時に同じ話題をするのではなく、別々に同じ話題をすること。例えば母親には帰りがけに玄関で一言言ってみる。それを心がけて。」というアドバイスがあったので実行してみたら、母が「お父さんがそういうのも問題だね」と味方になるような言葉を引き出すこともできました。内容はすっかり忘れましたが、両親には別々に違う場面ではなすといいのだとわかりました。

社会の風を感じた精神保健福祉士の実習

棕櫚亭Ⅰへ通所することを減らし通信教育で2年間みっちり、教科書を読み、レポートを提出しました。
でもこの資格をとって社会とどうつながれるのかは正直わかりませんでした。
資格を取る過程で2週間の実習に行きました。ここで自分の強み、弱みがわかったような気持ちがしました。ある、なにげない電話が、その一本が、その一本でしかつながれない電話なのかもしれないので、もっと聞くことに丁寧になるよう実習担当者からアドバイスを受けました。電話応対が雑だったからです。グループで夕食をしているとき、ちょっと調子に乗り、いろいろな会話を結ぼうとしてやっていても、メンバーさんの中には話しは聞いているだけで楽しく、自分は話さないほうがいい、気分がいいという人の存在も知りました。
グループで話すのは苦にならないし、一人ひとりの会話に寄り添えるのは強みだが、電話などの顔が見えないとき、話しをするのが弱みだと思いました。電話はなるべく、ゆっくり明るく話そうと思いました。相手の話をじっと待つことの大切さも学べました。

スタッフとして

2013年に資格を取得して、その年に棕櫚亭に非常勤で週3日、働くということで採用になりました。これはけっして自分の力だけではなく、メンバーさんやスタッフの方々のおちからぞえがあって実現したと思います。ここでメンバー契約が終わりスタッフとしての非常勤契約にうつりました。いままでサービスをうけていた立場から、支援する側であり、支援される側といった2面性をもった立ち位置にかわりました。ちょうど、メンバーさんとスタッフの間を状況をみて、いったりきたり、振り子のように動いて仕事をするようになりました。
何故、就職先に棕櫚亭を選んだのかは理由があります。メンバーでいたころより、棕櫚亭の雰囲気がいいし、ここにいるスタッフとして一緒に働きたいと思ったからです。
本音を言えば、就労を考える時、知らないところでは、仕事も人間関係も自信がなかったからです。仕事のことで自分が傷つきやすく、仕事に行けなくなるのではという不安感があったからです。いままでも就労を経験していましたが、うまくいかないのは自分のせいと、必要以上に自分を責めてしまい、出社ができないということが過去にもありました。アイデンティティ(自分らしさ)が壊れてしまうという恐怖感もありました。仕事ができていないという思いよりも、仕事ができないという評価されるのが怖かったです。

仕事で配慮を受ける立場になって考える時、最初なにを配慮してもらうか、わかりませんでした。
配慮は自分が考えだすのではなく、これは配慮されているのだなあと解釈しなおすことなんだなあ、と思うことがありました。
たとえば、昼休みに、市役所への提出書類を持っていくのを依頼されるのも、自分が昼休みをうまく取れないので、外に出て、一息いれてきてね。という配慮に感じたことなどです。この昼休みの過ごし方は、今でこそスマホが普及し、それで過ごすことが多いかもしれませんが、私は昼ご飯を食べると休憩とらずに、すぐ業務に戻っていたので、外にでてきたほうがいいよという配慮があったかと思います。
当事者が健康な人の中で仕事を考える時、人間関係のハードルの高さはなににもまして高いです。そこのつまずきで、多くの人が就労を諦めてしまいます。そのためには、上司の方々に相談にのってもらうことが欠かせないです。棕櫚亭という法人の利用者として職員として様々のことで相談に乗ってもらい、就労を続けていくことは大切なことだと思います。

ここに人間関係から発する一つの妄想パターンがあります。妄想というか推測です。自分の解釈かもしれません。人間関係は仕事が順調な時は感じませんが、仕事で注意されたり、指摘されたりするときに、時々でてきます。そんな時は外に出て、そんなことはありえない。と思うことで乗り切りました。実際自分の心の働きを質問したこともありました。
たとえば支援の仕方の拙さを指摘され、そのあとスタッフ数人が部屋にこもって何か話しはじめた時、自分のことを話しているのではないかと、思うことがありました。でも実際そのことを上司に相談すると、部屋でこもって話しているのは全然べつのことを話していたということはよくありました。自分のことを話題にして話すほど時間もないし、支援者は目の前のことに忙しいと説明されました。
でも障害の特性でそう思いがちなんです。現場は職員の話しなどしている暇はなく、次々に起こる仕事への対応に追われていることも、自分が上司に相談したことで、よくわかりました。メンタルの部分で壊れなかったのはこういう話をしてくれる先輩方、上司がいたからです。
そして自分のアイデンティティ(自分らしさ)も保たれました。

職員としての立ち位置

職員の立ち位置としては、メンバーさんとスタッフの間を結ぶ懸け橋のようなものと、漠然と思っていました。
最初の頃は支援センターで様々なメンバーさんと出会い、話しをする活動の中で、ピアということを前面に出し、話しを深めたり、いろいろな意見を交換することに重きを置きました。皆がフリースペースを自分の居場所の一つだと考えてもらえるよう努めました。
多いい時は10人ぐらいで机を囲みいろいろな話しをしました。自分と同じ資格を取りたいという人もいました。また病気をどう捉えて考えていったらいいか質問するメンバーもいました。とにかく皆さん元気でにぎわっていました。そこで自分も元気を頂きました。生きるはりみたいなものを感じました。メンバーさんとの関係性の強い手ごたえもありました。
この頃の立ち位置はほとんどメンバー(利用者さん)さんに寄っていました。
メンバーさんが元気になっていくのが自分の生きがいでした。
この頃盛んに使い始められたリカバリ―(回復)を共に共有するという思いでした。
でもその一方で逆の意味で孤独を感じることもあります。

役割葛藤と混乱

ピアスタッフについて詳しい相川章子先生はピアスタッフのことについて書かれている本でこんな風に引用しています。
ピアサポーター側の困難さとしては、利用者の役割からサービス提供者の役割へ移行することで、利用者アイデンティティと新たな専門者アイデンティティのバランスを保つ困難さを経験すことがあきらかにされている。
又ピアサポーターのスタッフの中にスタッフとしてのアイデンティティが芽生えることで、利用者の信頼を失ったり、利用者のアイデンティティに気づき、対等な同僚ではないことに気づくことと、海外の文献を示していらっしゃいます。またこんなことも引用しています。
ぴあサポーターは精神保健システムの評論家の役割から、精神保健システムの一員へと役割が変わり、あたかも「無人島」にいるかのように孤立感を抱く方もいると。
私もそういう孤独感を持ちました。

孤独感とSPJ

この孤独感をどう克服するか、また仕事矛盾するなかで続けていくか、そんなことはいつしか大きなテーマになりました。
孤独感を、就労して天野前理事長とオープナーメンバーの2人と立ち上げたSPJ(棕櫚亭ピア事務局)の茶話会でテーマにしたことがありました。解消はできないけど、同じように仕事をしている当事者の方々に聞いてもらいました。自分だけではない健常者との境界みたいなものは茶話会メンバーも多かれ少なかれ感じていたようです。
私は話すことで、自分だけではないと安心しました。茶話会の話は秘密厳守のためにここでは話せませんが、就労している当事者の茶話会は私にとってなくてはならないものになっています。
そして5年くらいたち、仕事の上で自分の立ち位置の境界をメンバー、スタッフの間に設けないように努めました。スタッフとの間の関係もその時々の気持ちを話すことで理解してもらったり、メンバーさんには寄り添いながらも、話を聞くことしかできない立場という限界のことも説明しました。それと共に仕事も一人のスタッフとして、基本的なルーティンワークをこなすように努めました。例えば苦手なパソコンの入力業務などです。パソコンの業務は上司や同僚がほんとに、きめ細かく教えてくださいました。何度聞いても嫌な顔ひとつしないで教えてくださいました。
そのパソコン業務と共に、ちょうどそのころから、自分の気持ちを聞く人に理解されるように話すことができるようになったり、自分の弱みを見せたり頼ることも覚えていったかと思います。そこまで3~4年はかかったかと思います。
ある時メンバーさんの健康状態が悪く、スタッフにつっかかった現場に居合わせ、そのメンバーさんが「なんか櫻井さんも言ってください」と迫られた時、「それは上司の指示なので、私からはなにも言えません」と言ったこともありました。
その時はメンバーさんに加担するのではなく、棕櫚亭の方向性、施設としの方向性が大事だと思ったからです。
また組織の中で仕事をすることは、スタッフとしては方針は、皆おなじ方向を見て、目指すものだという考えがあったからです。
また自分が仕事を休んだほうがいいのか、わからなかったとき、相談にのっていただいた上司もいました。他の人の目から、これは仕事をせず、休んだほうがいいという指示をいただくように、自分の心の内側を話しました。
休んだほうがいいか、上司との話し合いで、自分で決めていくというプロセスを経験しました。風邪なら熱が37度以上あるから休もうかと、思いますが、体調が悪い、精神的に休みが必要と思うのは、きめこまく上司と相談して決めてきました。家族のことで休むのは仕方がないことという棕櫚亭の思いやりもありました。
他の障害者施設がどういう感じかわかりませんが、スタッフのこのような思いやりのなかで働いてメンバーさんとエンパワーメントしていく。共に歩む姿勢だけは貫けたと思います。
メンバーであった棕櫚亭Ⅰにいた頃、友人も増えました。友達とは、いろいろなところにでかけました。楽しい毎日を過ごしていました。しかし一般社会に参加しているという意識はそんなに感じませんでした。それがいいことか悪いことか、そもそも社会の定義の問題がありますが。
ここではお金を得て生活できる社会生活という意味です。
スタッフになって離れていった友人もいました。「一人で偉くなったんじゃない。櫻井はメンバーさんに感謝の気持ちがたりないよ」と厳しい指摘をする友人もいました。私はスタッフのみならず、メンバーさんには本当に感謝しています。この気持ちは変わりません。
でもこの指摘のように、理解されないなら「仕方がない」と思って頭を切り替えたのも事実です。自分のアイデンティティ(自分らしさ)を壊したら仕事ができなくなってしまうという恐れがあり、自分を保つことが大事だと考えたからです。必要以上に自分を責めると病気になる危険性もあるからです。

病気になる可能性(最悪入院)

話す、相談するということで随分回避されてきました。訪問看護の人とクライシスプランを考えたり、病気の講演会でとにかくアイデンティティ(自分らしさ)を大事にということを聞きました。現実には思ったことを同僚や上司に相談しながらすすみました。
最近でも、過去の入院パターンと同じような感覚があったとき、それを上司に相談して、休むことと、仕事を減らすことで乗り越えた経験があります。

仕事で考えること

メンバーさんに寄り添うことは大事だと思うと同じようにそこで一緒に働くスタッフとの関係にも慣れていくようにしました。
ピアスタッフとして、仕事をしながら、一緒に働くスタッフにも配慮して支援をいただく。そのことはずいぶん救われた感じです。あるスタッフには「いつも大丈夫?無理してない?」などと声掛けをしてもらうのも安心できます。スタッフとしてメンバーさんに接していく、もの言いや、行動は教えていただいたり、みせていただいて、ずいぶん学ばせてもらっています。
ほかの様々な関係機関とのつながりで、自分の言動を考えることもありました。棕櫚亭の方向性は大事なので、それに合わせたり、そつたりすることをこころがけています。他機関との電話なのでも、棕櫚亭の一スタッフとして対応しているという自覚をもった気持ちはいつも持っています。
棕櫚亭につながる前に就職していた会社では会議というと、最低でも一言質問しなければならなかったです。長年会議で質問することが身に着いたため、棕櫚亭でも会議中、ここは質問しよう。ここは発言。などと会議中?マークでいっぱいになってしまいます。
何か言わなければと思うことは、自分の意見の開示することで、そのことで気分的に体調が悪くなることもしばしばあります。そうなる前に最近は頓服を飲んで鎮めています。
自己開示が大きいと、そこから生じる葛藤がおきるからです。
こういう言い方はおかしい。こういう発言はしないほうが。まどろんだ頭で考えています。

ここ10年を振り返る

10年を振り返る時、はじめ考えていた立ち位置はメンバーさんとスタッフの間に立つというものではなく、常にメンバーさんとスタッフの間を振り子のように行き来し、止まることなく動いていたという感じです。それを可能にしてくれたのは、また長期にわたって休まなかったのは、メンバーさんの優しさであり、スタッフの思いやりであったと感じています。
10年前に周3日の非常勤で働かせていただき、5年前には週5日、40時間の常勤に採用されました。常勤になっても、自分のできる範囲で仕事をさせていただき、なによりもスタッフ、メンバーさんが暖かく、優しくしてくれたので今日まで働き続けていると思います。
その時々で自分にあった仕事を任され、やりがいを感じています。
どんなに小さな仕事でもそれを具体的に捉え、決して手抜きの仕事はせず、丁寧さを心がけました。精神保健福祉士の資格をとる実習で指摘された雑なことはしないように注意しました。またメンバーさんにも「自分だけ職員になって」と思われないよう、言動にも注意しました。
5年前に結婚し、家庭ももてるようになりました。自分で描いた家庭も、相手のあることだし、価値観も違い、最初はうまくいきませんでした。周りの方々に相談しながら、お互いの気持ちを読み込むことで、歩み寄り今はとても楽しいです。
週5日間仕事をすることで、一日一日より優しく接してくれたりしっかりしてきた、と妻からも言われています。
妻も体調が良くなり、家庭の仕事もより多くするようになりました。

リカバリー(再生)

第一回目のリカバリーフォーラムが行われたのもかれこれ10年以上前のことです。盛大に行われ、友人と行った大会では、新しい時代になるんだ。と思ったのはきのうのことのようです。その時自分はリカバリーできるのかというより、その英語の意味、再生という回復していく過程でエンパワーメント、力をつけていくという内容に勇気をもらったのを覚えています。回復、いままでとは違った道を自分と周りの人の支援で作っていこう。仲間と共に歩もう。そんな思いで会場を後にして今につながりました。就職も結婚も大変なことですが、喜びもまた大きいです。そこまでくるには、たくさんの方々の出会い、支援、アドバイスがありました。生きづらさを具体的に自分の前につきだし、ならばどういう見方、生き方をしたらいいのか、たくさんの、メンバ―支援者の方が教えてくれました。
でもリカバリーしたと思うのは本人ではなく、他の人の評価とも思います。そしてその評価を超えたい、そのためにはなにができるか。問いかけは続いています。
今日、おあつまりいただいた皆様に、自分の10年を話しましたが、それ以前はいろいろなことがありました。自分らしさ、病気、環境いろいろ難題がありました。
でも20年近くまえに、ゴミ箱から結びついた棕櫚亭には人生をかえた出会いがたくさんありました。そこから道路を引き直すように180度方向転換したきっかけに棕櫚亭との出会いがありました。基調講演という私には身の余るお話をいただき、お話しさせていただきました。私も今年の3月で定年退職し、引き続き継続雇用させていただいています。

今日は貴重な時間をさいていただき、聞いていただきありがとうございました。