特集/連載 Part ❹『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “失われた〈共同作業所〉が、もしかしたら世界のトレンドになるかもしれないというウソのようなホントの話”

法人本部 2018/10/19

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

失われた〈共同作業所〉が、もしかしたら世界のトレンドになるかもしれないというウソのようなホントの話

NPO法人多摩在宅支援センター円
添田 雅宏
(棕櫚亭OB)
はじめに

平成元年に精神科領域(無認可共同作業所)に就職してかれこれ30年が経過した。
ちょうど「精神衛生法」から「精神保健法」に大転換された年に就職したことは後々知ることになるのだが、入職当時はそのようなことは知る由もなく、唯々その環境に可能性と魅力とを感じていたことを思い出す。一緒に働き、昼食を作り、同じ場所で昼寝をし、また作業を行う、作業が終了すればお茶を飲みながらよもやま話に花を咲かせる、今思えばよくそれで仕事が回っていたものだと思うところもあるが、同じ空間を共有し、利用者と共に歩むことが良しとされ、素人でも市民性と対等性で仕事ができていた時代ではなかったかと思う。

『精神医療』第83号 コラム(批評社 2016年)より引用

これは私が2年前に依頼された原稿の冒頭部分である。タイトルは『無認可共同作業所再考 ~共同・協働とイギリスのco-productionをめぐる道程~』というちょっと硬いもの。私は3年前に現場復帰したのだが、目まぐるしい医療・福祉制度改編に振り回され、使えないワーカーになっているかもしれない(いや、たぶんなっている)不安に苛まされている。そしてそこから逃避するかのように気がつけば共同作業所時代の棕櫚亭のことばかり考えているように思う。されど、逃避するだけではもったいないほど無認可共同作業所時代の棕櫚亭には、現代の細分化された医療・福祉制度が切り捨ててきた大切な原石が埋もれており、それを再評価することで、これからの精神医療・保健・福祉制度をリカバリー志向で改革していく礎になる気がしてならない。
「くにたち共同作業所棕櫚亭」は私の職業人生(福祉職・教育職)の原点であり、その後の生き方にも大きな示唆を与えていただいた大切な場所である。
ここでは共同作業という言葉に秘められた大切な理念に思いを馳せながら、これまでの棕櫚亭とこれからの精神保健福祉のあり方について海外の事例との比較の中で綴ってみたい。

素人性、市民性、対等性が大切にされていた

棕櫚亭に就職した30年前、私は大学で演劇論を聴講していた学生であった。師事していた教授が市民病院の精神科で、遷延化したうつ病と神経症圏(当時)の新しい療法を研究していたことがきっかけで、精神科の患者さんと出会った。グループ運動表現療法と名付けていたその療法はのちに棕櫚亭で「雅教室」として形を変え、心身のリラックスと自己表現の練習のためのプログラムとして展開されるが、この時の私は精神科と一般科の違いも良く分からない素人であった。この病院で棕櫚亭がアルバイトを募集していることを聞き、消防設備の点検のアルバイトより勉強になるしお金ももらえるから良いかぁという軽い気持ちから応募した。そんな私の採用に関しては棕櫚亭運営委員会でいろいろと議論があったようで、定職に就いていないことや演劇をやっている変わり者ということがマイナス要因だったと入職後に聞かされた。今思えばそんな男をよく雇っていただいたものだと感謝しかない。精神保健福祉士という資格のなかった時代、様々なフィールドから作業所に転職する「変わり者」がいて、私の経歴はそんなに珍しくなかったようにも思うのだが。
そんなこととはつゆ知らず、私はと言えば呑気にも、魅力溢れる4人のお姉さま達との出会いと、当時東京に20か所程度しかなかった共同作業所を一緒に作り上げていくことに軽い興奮を覚えていた。一流の女優陣を擁した舞台を一から作り上げる、そんな感覚に似ていたのかもしれない。
棕櫚亭では当時、多摩地域の精神科医療に風穴をあけるというスローガンがあり、市民感覚を持ち合わせ地域で共に暮らしていくことを理念に掲げていた。生活のすべてを医療機関が管理することが普通に行われていた時代であり、精神病者という言葉はあったが精神障害者という言葉はなかった、つまり障害という概念がなかった時代でもある。自分たちの仕事は、精神医療の延長なのか、福祉事業なのか真剣に議論していたころが懐かしい。
またパターナリズムや専門性に疑いを持つ風潮があり、そのような背景が私のような「どこの馬の骨」な男の雇用を後押ししたのかもしれない。採用後、私は国立に移り住み作業所利用者(メンバーと呼んでいた)が暮らす街で共に生きることになる。
以下の文章は精神保健福祉士養成の教科書に寄せた文章である。メンバーと私との日常を記したものだが、時代の雰囲気がわかるものになっているのではないかと思い紹介する。

『一杯のジュースから』

その共同作業所は終戦直後に建てられた平屋で、どこか長閑(のどか)で日本の原風景を色濃く醸し出していた。今から 20 年ほど前、私は「彼」と出会った。彼は当時30代。2人の兄を持つ末っ子として大切に育てられた。
20代の頃、統合失調症を発症。その後は入退院を繰り返し、アルバイトを行いながら何とか社会生活を営んでいた。やがて家にひきこもりがちになった彼は、保健師の勧めで開所したばかりの共同作業所に通い始めたのだった。一流大学卒で留学経験もある彼は他の利用者との関係がうまく築けず、孤立しているように見えた。
ある年、記録的な猛暑の中、私達は公園の草むしりの作業を一緒に行なった。仕事が終わって共同作業所に戻り彼はジュースを美味しそうに飲んでいた。私は意図せずに「そのジュース僕にもちょうだい!」と彼に話しかけた。彼は「いいよ!」と私にジュースをくれた。
仕事を終えた充実感とともに、とても和やかな時間が流れた。
その後父母が相次いで他界、遺産相続の件で兄たちと折り合いが悪くなり病状が悪化した。医療保護入院となった病院で待遇の悪さを批判し病院スタッフに暴力を振るったことが原因で転院となり、彼は「処遇困難患者」となった。そして彼はこの後いくつもの病院を転々とすることになる。
ある日、付き合いのない病院の医師から私宛に電話が入った。彼が私に会いたいと言っている。病状は安定しているのだが兄達は退院に反対している。何とか兄達を説得し、もう一度地域生活ができるよう支援してくれないかとのことだった。彼が作業所を離れて5年の月日が過ぎようとしていた。私はどうして彼が私に会いたいと言ってくれたのかを聞いてみた。「あの暑い夏の日、一緒に草むしりをしたことを思い出したんだ。あの時僕からジュースをもらったでしょ。僕はとても嬉しかったんだよ。仲間ができたって思ったんだ」。
家族の調整を終え、燻り続けていた遺産相続に一応の決着をつけた後、彼は退院し一人暮らしを始めた。そして現在の彼は、地域活動支援センターに所属しホームヘルパーを上手に利用しながら、ピアサポーターとして地域移行支援事業に積極的に取り組んでいる。

『精神保健福祉の理論と相談援助の展開Ⅰ』[第1版] 第5章 コラム
(古屋 龍太=責任編集 弘文堂 2012年4月30日刊行)より引用、一部改

このジュースはもちろん「回し飲み」である。炎天下の中での作業を終え、皆バテバテで喉はカラカラだった。過酷な状況を生き延びた戦友のような気持が自然に芽生えていたように思う。後日彼はこうも言った。精神障害者として差別されている自分が飲んでいるジュースを欲しいと言ってくれている人がいる、しかも回し飲みで。そんなことを言ってくれた人は初めてだった、高校時代の部活の友人関係を思い出したと。
もちろんこの話はメンバーと友人のように付き合えということではない。ここで伝えたかったことは、同じ空間を共有する中で人としての対等性を確認し合ったこと、そしてそのことを理屈ではなく身体知として理解しているのかは試されるということである。また精神障害に起因するスティグマを抱えて生きている当事者にとって、身近な存在である作業所職員の言動、立ち振る舞いはその後の人生をも左右することがあるかもしれないということだ。共同作業の中には目に見えない豊かな副産物がそこここにあることを改めて実感している。

共同作業とco-production

共同作業所のすべてが優れていたわけでもなく、そこに戻れば良いというものでもない。来てもらわなければ何もできない場所であったことは大前提として、素人故に疾患を見逃したことがきっかけで命を落とす人がいたり、身分保障があいまいだったり、ほとんど社会資源のない中で生活・就労支援などすべてに気を回さなければならない状況であったり、メンバーの就労先探しに奮闘したりと苦労の連続であったことも事実だ。
時は過ぎ、大学の教員になった私はイギリスに研修に行く機会を得た。ピアサポートワーカーのことを学ぶために行ったのだが、そこで見聞きした世界情勢に大いなる刺激と示唆を受けた。引用ばかりで恐縮であるが以下を参照されたい。

一昨年、イギリスのリカバリーカレッジと精神保健福祉改革を学ぶために現地へ赴く機会を得た。(中略)私が感銘を受けたのが、その改革の中核をなす言わば哲学ともいうべき理念である。まずは、まだ世界的に定義の定まっていないリカバリーという概念をその中核に据えたこと、次にコ・プロダクション(co-production:共同制作、協働、共同作業など)という考え方を改革の柱とし、当事者と家族、専門職、地域住民らが一体となって改革を進める方向性を示したことである。(中略)先にも述べたようにイギリスでは連携のその先にco-productionを据えた。改革の中心人物から聞いた話だが、イギリスはヨーロッパという土地柄、個人主義の上に立ち、異民族との血で血を洗う戦いの末に、如何にして対立する民族、文化、慣習と共生するかを考えている国であるという。(中略)このように考える国がco-production(共同制作、共同作業、協働)を通してこそ相互理解を得られるという結論に至っていることは非常に興味深い。日本の文化の中で培われた共同作業の概念とは厳密には異なるのかもしれないが、(中略)当事者と専門職の垣根を越え地域の中で共により良いものを作っていくという姿勢に変わりはないことは、熱意(Passion)を持って改革を進めようとする人達との交流から容易に感じられた。

前出 『精神医療』第83号 コラム(批評社 2016年)より抜粋

話が大きくなり過ぎたかもしれない。私は棕櫚亭時代から夢見がちで、夢を語るより目の前の仕事をきちんとこなせとよくお叱りを受けていた。その癖はそうそう変わるものではないようで、もう少しお付き合いをお願いしたい。
リーマンショックにより財政破たんしたイギリスは精神医療福祉予算を大幅に削減しなければならなくなった。イギリスの優れたところはただ予算削減をするのではなく、これを機にリカバリー志向で精神医療福祉改革を行おうとしたところだ。その中心理念がco-productionつまり共同作業、共同制作である。お金がないのは日本も同じ。何もないところから文化を作り上げていったあの時代と重ねもう一度夢を見たいと思うのは浅はかなことなのだろうか?

おわりに

先が見えず無我夢中で駆け抜けてきた共同作業所時代の棕櫚亭は紛れもなく“レガシー”であろう。それをどう受け止め、解釈し、次の時代に引き継いでいくかは、とても大切な仕事だと思う。もし私の書いた文章がその一助になれば幸いである。
最後に。身勝手な私をいつも寛容な心で受け止めてくれる棕櫚亭の皆様に対する恩返しになればと願いつつ、前出のコラムで書いたものをまとめの言葉としたい。

“無認可共同作業所はその歴史的使命を終え、「障害者総合支援法」の中で形を変え現在に至っている。事業が細分化され縦割りの支援システムが増えていく中で、当事者のリカバリーを中心とした事業・制度がどの程度まで浸透しているのか、まだ見えてこない。
しかし、日本には当事者と支援者らが培ってきた日本らしい仕組みが存在していたことは事実であり、誇りに思っても良いように思う。共同作業所は切迫した状況を打開するために家族や支援者・当事者達が必要に迫られて作り上げてきたものである。天から降ってきた制度に振り回される昨今、ここに考えが至ったことでもう少し先へ進める兆しが見えた。”

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

今回、添田さんへの原稿依頼で職場である東京都八王子市に伺わせていただいたきました。ご多忙にもかかわらず本当に暖かく迎え入れてくれました。棕櫚亭らしく元職員というだけで、ぶしつけに原稿依頼をしたにもかかわらず、快く受けていただいたその優しさは、たくさんのワードとして文中にあふれるほどちりばめられています。私自身、精神保健福祉士取得のため、学校に通っていたのですが、その時に師事したのが添田さんで、文中の「一杯のジュースの話し」は、私が知る添田さんらしいエピソードだと思いました。ピアスタッフとして働いている中で、私はいつも自分の立ち位置について悩み、考えあぐんでいますが、添田さんのおっしゃる「素人性、市民性、対等性が大切である」という言葉は、今後の働きにヒントを得たような気がします。

ありがとうございました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

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