《最終回》 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑯ “半年の往復書簡を振り返って 対談編”

法人本部 2018/05/31

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

往復書簡を終えるにあたって

半年にわたってお届けいたしました「往復書簡」も、今回の「対談編」でいったんの区切りをつけさせて頂く事になりました。お読みいただいた方、お声かけいただいた方、本当にうれしい気持ちで一杯です。あまりに多くの方が声をかけてくれるので恥ずかしさ半分の複雑な感情も私たちにはあります。

うしろ髪をひかれる思い(笑)で、今回の幕引きをしなければならないのですが、締めるにあたって二人で話したことを文字におこしてみました。「対談」とはいうもののこの先の文章は、ある意味、私たち二人のささやかな共同決意表明でもあります。ここまできたら、最後まで辛抱してお付き合いくださるとうれしいです。

このような時代、もっと考えていきたい! 発言していきたい!

今回、法人のホームページといういわば公の場での書簡となりましたが、あくまでも二人の個人的な意見なので、たくさんの「異論」はあったかと思います。それは、私たちのねらいでもありました。「異論を巻き起こす」つまり往復書簡を読んで心に引っかかりを感じたり、ちょっとした違和感を覚えたり、少しでも考えたりしていただければ嬉しいと二人で考えていました。

今の時代、つまり、テレビ、インターネット、SNSといった情報媒体が社会の中で猛威を振るってくると、「情報を知っている」ことこそが大きな価値であるという考えに、私たちは陥りがちです。更にその結果として、「考える」という意識が希薄になってくることも往々にしてあります。

例えば、最近話題のN大学のアメフト部の危険タックルの問題など、テレビでは連日連夜放送されています(もしかしたら、この記事をUPしたときには下火になっているのかもしれませんが)。繰り返し流される映像を見て、「知っているけれど、あれはひどい」「あれはスポーツではない」などの意見が出るでしょう。それは私たちも同じです。結果的に「N大学への批判感情」も声としてあがってくるのも仕方のないことかもしれません。これは世論の大勢を占める意見になっているのだという印象があります。

しかし感情的なことばかりで意見を言っても、一向に物事の本質が見えてこない、前向きにものごとがすすまないという話を二人でしました。

荒木:櫻井さん、それにしても最近のニュースは、どのチャンネルを見てもN大アメリカンフットボールのラフプレーネタばかりですね。スポーツ好きの櫻井さんは、怒りが止まらないのではないですか?

櫻井:勿論、あのタックルはスポーツとしてあり得ない出来事ですね。暴力的でもあり、あってはならないことだと思います。しかし、その後、危険行為をした選手が記者会見で謝罪した映像を見て、彼には今後の長い人生につなげてほしいなぁとも思いました。

荒木:なるほど、そうですね。確かに起こったことはもう取り消せないので、彼自身が将来に生かしていく、彼を支援するという視点は大切ですね。しかし、そういう意味で大学や関係者の対応は最悪でしたね。

櫻井:確かに最悪だと思いました。選手個人がカメラにさらされる中、大きな組織が守ってくれないということには憤りを感じました。と同時に、今回の出来事から、ほかの教育の現場や組織が、もう少し大きな声をあげても良いとも感じました。つまり、N大の問題という枠を超えて、大学機関が今回の出来事を受けて、問題点を明らかにし、将来に向けてそれを提起をしても良いのではないかと思いました。

荒木:なるほど。教育の現場が、子どもを守らず、きちんと物事を筋道立てて説明せず、まるで企業防衛的な発言ばかりを繰り返したことが大きな問題だということですね。問題があると言えば、メディアの取り上げ方もそうだとも思うのですが…

櫻井:起こった出来事の表面ばかりを繰り返して報道されるメディア情報も、私たちのニーズからきていると考えると、結局、私たちの意識も変えなければいけないのかなぁとも感じます。気をつけてメディアと付き合わなければ「考える」という行為を妨害されているような気持ちに、私などはなってしまうのです。

確かに、身近にいろいろな情報が手に入るこの時代は、ある意味風通しが良いという面をもっています。しかし、情報を、右から左に流すのではなく、一度せき止めて、「問題の本質を考えること」や「今後問題をどのように生かすか」といった視点で考えたいという話を二人でしました。そして、いろんな角度で発言できるようになりたいとも話しました。

当事者を意識して社会をみていきたい! 発言していきたい!

先ほどメディアの取り上げ方の問題にふれたとおり、私たちのニーズ、つまり、私たちの興味の方向にメディアは向いています。このことを考えると、例えば原発の問題などが取り上げられなくなってきたことは、メディアだけの問題だけではなく、私たちの興味関心が薄れてしまったことの表れだという話もしました。何かあるとワーッと報道され、人々が口にする単語。「東日本大震災」「福島第一原発」「メルトダウン」「大熊町」「マイクロシーベルト」等、沢山の単語が瞬間的に飛び交いますが、やがて意識の中から消えていきます。忘れるという行為を繰り返していくのが人なのかもしれませんが、それではいけないという反省を二人でしました。

荒木:精神保健の現場で働いている者として、この分野に常に関心を持っていなければいけないことは当たり前なのだけれども、櫻井さんは新聞をよく読んで勉強していますね。見習わなければ。

櫻井:昔からの癖が抜けないという感じがありますが、体調によっては集中力がもたないことがあります。どうしてもネットニュースではなく、新聞ということになりますが、新聞各社によって同じ記事の取り上げ方でも違う意見だったりするのは興味深いです。

荒木:なるほど、東日本大震災直後の原発問題に対する報道姿勢は福島県民の立場に立つと…いうような論調で概ね同じような論説が並んでいましたが、その原発の延長線上にあるエネルギー政策に対する考え方は「危険な原発はいらない」「資源のない日本に(安全な)原発は必要」などと意見が分かれているようです。

櫻井:「当事者(福島県民)の立場に立つと…」という視点は大切だと思うのですが、こういった議論が続く中で、いつの間にか当事者ということがすっかり置き去りにされてしまうことがありますよね。そして「当事者の立場に立つと…」という枕詞は、注意して見聞きしなければいけない言葉で、感情を煽(あお)るような使い方をされるような気がします。

荒木:ありがとうございます。以前の往復書簡の中で、少しそのようなことを私は書きましたね。「私は(精神障がい)当事者ではないが、できる限り当事者に思いを馳せられるようにはなりたい」と。なかなかエラそうなことを書いてしまいましたね。

ところでそうなると、私はいったい何の当事者なのだろうか?と考えました。その当事者の立場できちんと発言・行動できているだろうかと反省しました。

櫻井:私は、今後も精神障がい当事者として発信していくことは勿論ですが、例えば、年老いた父と生活する子という当事者の立場で、高齢者福祉のこと等たくさん語ってもよいのだとも思いました。

この文章を読んでいる皆さんはどのように考えましたか?二人で話をしたのは、病気とか障がいだとかに限らず、私たち誰もがいろんな形でなんだかの当事者として存在しているのではないかということです。そうでなくては社会のあらゆる問題を知る・考える必然性はありませんし、そんな新聞やニュースに触れる必要はありませんよね。
ただし、少しだけ気をつけなければいけないのは、自分がその当事者として立場(主観)で考えているのか、当事者に寄り添いたい(客観)と考えてなのか、きちんと区別することかもしれませんね。境界は難しいのですが。

書簡を通じてコミュニケーションの楽しさを知る

この半年間書簡を通して、二人でいくつかの話題を話してみました。お互いの考えの一致する点・全く異なる点、はたまた感心する点等、いわゆる普段の職場だけの関係では語りつくせなかったことが、書簡というツールを通じて交わせたような気がします。そして、コミュニケーションの楽しさに改めて感じ入ることができました。

じっくりと書き込むという「書簡の醍醐味を味わった」といったところでしょうか。

勿論、代償として自宅で遅くまでパソコンと向き合わなければいけなくなってしまいましたが…

そして、この書簡は、思わぬ形で読者の方々とのコミュニケーションにもつながったような気がします。はじめにも書きましたが、たくさんの方々にお声かけいただき、会話のきっかけにさせていただきました。

本当に感謝したいと思います。

荒木:今回、このような場で、言いたい放題させてもらえてけれど、楽しかったですね。

櫻井:疲れたけれど、心地よい疲れみたいな感じですね。「コミュニケーション」ってこういう感じなのでしょうかね。

荒木:ウーン。確かに、書くことには責任も生れるし、心の開放だけではありませんよね。

櫻井:でも楽しかった。このくらいのやり取り(コミュニケーション)で言いたいことがすべて伝えられるわけでもないですけれども。まぁ、それでも自分たちの意見が率直に言えるようなそんな社会にしたいなぁと思いました。ちょっと大げさかなぁ。

二人:(笑)

2018年5月吉日
多摩棕櫚亭協会 本部にて

櫻井博 と 荒木浩

荒木浩 と 櫻井博

 

最後に

読者のみなさんにはお付き合いいただき、重ねてお礼申し上げます。

そして、写真撮影などにお力添えいただいた、アーガイルデザインの宮良さんにも感謝申し上げます。

「またエネルギーがたまったら書簡やってみますか?」

「やらせてもらえますかね?」

「本当は当分そんな気持ちにはならないでしょう?今はね!(大笑)」

(了)

 

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑮ “棕櫚亭の理念を担う-櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/05/09

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

棕櫚亭の理念を担う

前略
荒木 浩 さま

半年にわたり、手紙をよんでいただいてありがとうございます。今回が最後になるのですね。最後に大きなテーマをいただき考えましたがうまく答えられないかもしれません。
今これを書いているのが連休まっただ中の自宅です。職場で書くことは認められてますし、ほとんどそうしてきました。今回は振り返る意味も含めゆっくり書いています。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

棕櫚亭の理念を担う

棕櫚亭の理念として、「精神障害者の幸せ実現」という大きな目標があります。荒木さんから問われた「なにを担ってくれるか」という問いにこたえるとすれば、法人に関するすべての仕事だと思います。

本当の事を言いますと、電話相談でもプログラムの活動でも高齢者配食でも、その活動が理念のどの部分がどういうふうにあてはまるかはわかりません。仕事として全力投球でやることによってそれがやがて理念として幸せ実現に向かえばと考えています。

棕櫚亭にメンバーとして入り、2回の入院を経て、いろいろな方との出会いがあり、棕櫚亭の魅力にひかれ、精神保健福祉士の資格を取り、週3日から始まった障害者雇用での採用でしたが、自分の中では健常者と障害者の境界は、気持ちのなかではありませんでした。

確かに病気をによる障害はありますが、それを意識しないよう努めました。

精神障害者の雇用率が上がり、一般での雇用は増えてきました。様々の分野に雇用の場は広がっています。荒木さんの手紙でも健常者と障害者の境界(ボーダー)は引けないと返事をいただきました。書簡を通じて境界を引いているのは自分のほうではないかと気が付きました。もともと境界をひけないことの多い社会のなかで、境界をひこうと思い、被害的になったり不安になったりすることは、そのできない境界に怯えているのではないかと思いました。、この半年間往復書簡を通じて荒木さんとの認識の違いでは、自分には多様性をもつことがすくなかったことも得た一つの教訓です。荒木さんの考える多様性に注目しずいぶん自分の思い込みも意識されました。

なぜ棕櫚亭を就職先に選んだか?

私が棕櫚亭を勤務先に選んだのも、そういう多様的な見方や考え方が仕事に許されているからです。荒木さんとの書簡で自分が気づいたこともたくさんありました。境界という考えをもたないほうが働くにはいいということも最後に気づいたことでした。それは回りから合理的配慮してもらうこととは違います。職員としてもつ立ち位置的なものです。

天野前理事長と始めた当事者活動

私は棕櫚亭に入職して天野前理事長とSPJ(棕櫚亭ピア事務局)という当事者の活動をはじめました。構成メンバーは主にオープナーの方が多いです。そこで話された事柄は秘密保持で他では話していけないというルールがあります。私はここで発言することで自分の不安感とか恐れる気持ちを解消しています。これはおそらく障害者というレッテルを「はがそうはがそう」という努力にも似ています。障害者だからこう見られているのではないかということを語りながら、うなずいているメンバーさんをみて安心します。他の方はどうかわかりませんが私の場合はこの茶話会に参加することで、また一週間がんばろうという気持ちになれます。

ここは障害当事者が集まっているという意味ではボーダーレスです。

こういうふうに考えると、境界とは社会の側からは都合よく考えられた言葉で、自分の気持ちのなかでそれを取り除けばとも思います。
荒木さんが「往復書簡の初め」で書いていたとおり、「障害者がリハビリして社会にでていけば私たちの仕事はなくなる」という考えもあったということでした。
でも現実に仕事をしていると、それも不可能だし、専門性の高いワーカーも必要です。その点では荒木さんと意見が一致しています。精神の福祉の分野では障害のない職員がメジャーで当事者スタッフはまだまだ少数です。いくら当事者に追い風が吹いているからといって力の差はあります。今年の5月で雇用されて5年たちますが、当事者性を追い求めて、特色のあるメンバーさんとの関わりを持とうという姿勢はかわりません。職場の上司にはピアスタッフだからできる仕事をしてほしいと言われています。でも私は雇っていただいたからには、なんでもやるつもりでいます。そこから多様性が許されている「棕櫚亭の精神障害にある方の幸せ実現」にすこしでもお役に立てればという思いがあります。
もちろん卓球も一生懸命やります(笑)

荒木さんの手紙で効率性を追い求める社会というのが、それだけではなく無駄もあってもいいと書かれているのを読んで、人間の幸せって無駄にあるものかと思いをよせました。
効率性を求める現代社会も福祉の分野ともうっすらボーダーが引けるのかもしれません。
そんな思いをもったのも、長い間企業にいたという経験があるからかもしれません。

でもそこに境界を引くつもりは今はありません。

最後に

半年の間ホームページにアクセスして読んでいただいた皆様にも感謝しています。
拙い文章で気持ちが伝わったかわかりませんが、境界線を探った結果を自分なりに書かせていただき最後にしたいと思います。

草々

櫻井 博

※いつも「往復書簡」読んでいただきありがとうございます。

手紙でのやり取りは、この号で終了となります。半年にわたりありがとうございました。3週間後の5月30日にスピンオフで「対談編」を上梓して「往復書簡」は完全終了になります。

この5月という時期があまりに忙しすぎて二人で話す時間がないのです。しばしお待ち下さい。本当にごめんなさい。

櫻井 博 & 荒木 浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑭ “目にはみえない境界線を越えて幸せを考える -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/04/25

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

 

往復書簡を読んで下さる皆様へ

半年という短い期間でしたが、次号が櫻井さん最後のお手紙、締めくくりは、書簡を終えての二人の対談でフィナーレとなります。従いましてこの回が私にとっての最後の手紙となります。このような場で書くことの重責から解放されホッとしているのが率直な感想です。一方、これまで文章を書きながら、いろいろな方の顔を思い出しながら、私なりに伝えたいメッセージや問いかけを綴る喜びがあったのも事実です。本当にお付き合いいただきありがとうございました。

このミニマラソンも最後の競技場に入ってきました。残りわずか、息も切れ切れですが、完走したいと思います。

目にはみえない境界線を越えて幸せを考える

前略
櫻井 博 さま

本当に気持ちの良い暖かな季節になりました。

ただこの春という時期は、一面穏やかな顔を見せながらも、特有の突風で、歩く道を遮るような意地悪をしてきます。暖かさにつられて洗濯物を外に思い切って出すのですが、帰ってきたらベランダにそれらが飛び散って、泣く泣く洗濯をもう一度しなければいけなくなるという経験はこの季節に多いような気がします。

 もう半年もたつのですね。そもそも、この往復書簡の始まりは、櫻井さんと私の原体験の一部をさらけ出してそれを切り口にしながら「当事者職員と(健常者)職員の境界線を探る」という大命題を掲げたことでした。この問いに対して私なりの「答えはでたか?」というと、潔く「No」と、うな垂れるしかありません。すみません、櫻井さん、私の力不足でした。

そもそも、対外的には法人事務長という肩書通りに顔半分事務職の私が「職員のありよう」を語るということには無理があったのかもしれません。他にも優秀な人材がいるにも関わらず(笑) ただもう一息頑張りたいと思います。

 

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

 

ソーシャルワーカー(福祉職員)のありよう

私の苦手なことはたくさんあるのですが、人に物事を伝えるということがその一つです。具体的に言うと、職員の教育がとても苦手です。敢えてかっこよく言えば職人気質の職員などと言い訳できますが、今時は全く流行りません。勿論、手をこまねいていても仕方ないので、少しでもそれらしいことを語れるように、時々は学生向けのやさしい本を読むようにしています。ずいぶん緩く書いているなぁと思うものもありますが、その言葉の平易さが人に伝える上では非常に参考になることがあります。

そのように読み漁った本の一冊に(恐らくはやはり学生向けに)「福祉職員のありよう」について書いてあったものを見つけました。この本がとりわけ素晴らしいということでもなく、おそらくは他の本にも同じような意味を綴った文章はあると思います。しかし私たちが書簡を始めるにあたって掲げた「当事者職員と(健常者)職員の境界線を探る」ヒントになるかと思い、少し長いのですが、転載してみました。読んでみてください。文中には「ソーシャルワーカー」と書いてありますが、「福祉職員」と読み替えてよいのではないでしょうか。

恐らく、限りなく理解し、その人に近づこうとすることはできても、本当にその人やその人の人生を理解することなどできません。その人だって自分のことなど本当は分かっていないのに、他人である私にその人のことを理解などできません。(中略)
ソーシャルワーカーの営みは、どれだけ限りなくその人に近づけ得るかにあると思います。限りなさの程度というか限界は、ソーシャルワーカーがどれだけその人の人生を追体験できるか、どれだけ豊かに想像できるかにあると思います。出会った人から直接的に学びとると同時に人類が歴史的に蓄積してきた文学、音楽、芸術、哲学等々、人間を理解するための様々な遺産からどれだけ学びとっているかにも、かかっていると思うのです(以下略)

『ソーシャルワーカーという仕事』 宮本節子 著(ちくまフリマー新書)より抜粋

障害者・健常者以前に私達はソーシャルワーカー(福祉職員)である

上の文章から読み取れることは、3点あると思います。

①どんな人であろうとも、他者の人生の理解は難しい

②しかしソーシャルワーカーは、支援する人の人生を追体験し、豊かに想像することで近づくことが大切

③そのためにもソーシャルワーカーは、直接支援のみならず、歴史的な蓄積からも学ぶべきである

 健常者であれ、当事者であれ私たちは「福祉職員」だから、やるべき仕事は同じです。但し、精神的な病気を体験したという点、つまり追体験という意味では、当事者スタッフの方がメンバーさんの近くにいることは間違いないでしょう。しかし、それでも他者の人生の理解の深い部分は、当事者であろうと「他人である」以上、理解することは難しいのだと上の文章では書かれています。わたしもその意見には同意します。

その意味では櫻井さんが今も自分の経験に胡坐(あぐら)をかかず、いろんなことに挑戦しながら視野を広げていく姿勢は素晴らしいと思うのです。つまりは「健常者スタッフ」であろうと「障がい当事者スタッフ」であろうとこの仕事を選んだからには、経験ということにとどまらず、想像力を深め、文化的な角度からも見聞を広げる努力を続けなければいけないということなのでしょう。

繰り返しになりますが、今回の櫻井さんとの往復書簡では、「当事者職員と(健常者)職員の境界線を探る」という命題を立てながらも力及ばずついに境界線を見つけることはできませんでした。健常者であれ当事者であれ職員の間に引くような線、つまり「境界線なんてものはそもそもない」のかもしれませんね。櫻井さん、それを現段階での私の結論とさせていただくことを許していただけますか。

そして本当の締めくくりになりますが、次のことにふれさせていただき、筆をおきたいと思います。

幸せな社会を、そして棕櫚亭を、どのようにデザインしていくかこれからも皆で考えていきたい

私たちは、ロボット演劇の研究を通じて、人間を人間たらしめているものは何かを追求してきた。(中略)そこでわかってきたことは、どうも私たちがロボットなりアンドロイドなりを「人間らしい」と感じるのは、その動きの中に無駄な要素、工学者が言うところの「ノイズ」が、的確に入っているときだという点だ。(以下略)

『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』 平田オリザ 著(講談社現代新書)より抜粋

現代社会の中で、高い価値とされるものの一つに「効率(性)」というものがあるような気がします。「効率的に税金を使う」とか「効率的に働く」という言葉は、マイナスのイメージがわきにくいですね。そしてこの「効率」という言葉は福祉分野にも根付きつつあります。例えばそれは株式会社など営利企業の福祉事業参入ということです。少ない資金で「効率的」に利益を上げようとする営利企業の活動理念と、限りある税金を福祉に「効率的」に使う行政改革の流れとが結びついているのが現代の福祉の特徴の一つだと考えています。

その一方で、社会福祉論などの学問では、福祉社会とは「人間らしい」生活を営める社会であると教えられます。そして先ほど書いた通り、劇作家の平田オリザさんは、「人間らしさ」について「無駄である」という要素で語っています。これは大変興味深く、私は思わずうなずいてしまいました。私自身が無駄に気楽に生きているからそう思うのでしょうか?

営利企業の福祉事業参入など福祉の「効率化」が進む中、福祉学部の教室では「福祉社会とは『人間らしい(無駄ともいえる)』生活だ」と教授に教えられる状況には想像するだけで目が回ってしまいそうです。

あくまで誤解の無いように書いておきますと、私は決して「効率的な社会」や「株式会社」が悪いと言っているのではありません。努力をして、障がい者雇用で就職し、幸せを得た障がい当事者の方を沢山見ています。彼らを受け入れてくれているのはそのような社会であり、会社であることは間違いありませんし、皆さんのその笑顔に嘘はありません。ただ私がここで言いたいことは、社会の仕組みが一層効率的になりすぎた先に、私たちの幸せはあるのかという不安です。どのような社会が望ましくて、どのようなさじ加減でデザインしていくか、つまり「幸せな社会」を選び作っていくのは私たちの権利であり、大げさに言うならば、使命だと考えています。

そして同時に棕櫚亭の職員である以上、精神障がい者の方の「幸せ」実現、つまりは法人理念実現に向けて、社会の中ではほんの微力でも力を尽くさなくてはいけないのです。

さて、櫻井さんには、最後に職員として「棕櫚亭の目指す精神障がい者の幸せ実現」の何を担っていただけるのか、何を担いたいのか語っていただけますか?最後の無茶ぶりです。

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑬ “ボーダーレス社会の苦悩-櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/04/11

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

ボーダーレス社会の苦悩

前略
荒木 浩 さま

春がやってきて桜がさいています。また気持ちのいい季節がやってきました。
私はこの心躍る春が大好きです。
この手紙が公開される頃はすっかり桜も落ちてしまっていると思いますが。
実は去年の夏ごろ富士山に登ってみたいと、考えていました。初めての登頂なので一緒に荒木さんを誘ってと思っていました(笑)。荒木さんは5回も登っていたのですね。凄いですね。
私は登山用具が予算ではそろわないことを言い訳に登頂はあきらめていました。
回りのスタッフも勧めませんでしたので。
私を含め当事者は体力があまりないので、一人で歩き通しはきついし、練習も必要かと思います。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

自分探し

そうそう私の大学生の頃、卒業しても「自分探し」といって就職せず、世界を旅する人にこの言葉は都合のいいように利用された感がありました。
最近では、あまり「自分探し」は積極的意味では使われていないように思えます。
ある評論家は「自分探し」は他者と出会わなくては自分もわからない。という相対的に自分を観てみるということも言っています。
荒木さんの手紙を読むと意味がすこし違うような気がしました。
人間だれしもが悩むもので、自分の感じ方、好き嫌いを掘り下げることと。
この意味での「自分さがし」は大切な気持ちだと思いました。自分探しはしなかったですが、働いて辞めてまたアルバイトなどの生活は、他人から見れば自分探しをしているのだなと見方もあったかもしれません。
急性期が終わり自宅にもどった時、昼間、「眠たくて眠たくてしょうがない」時がありました。家ではしょっちゅうごろごろしていました。この時、家で「自分探し」をしているとは到底思えませんでした。

棕櫚亭のボーダーラインとしての機能

以前に棕櫚亭との出会いについて書きましたが、棕櫚亭がなかった時は自分と病院そしてその後ろの社会との境目はなかったような気がします。棕櫚亭をボーダーラインと考えたのは、そこに線をひいてくれるラインとしての役割があるような気がしたからです。
そのラインは自由に動き移動してくれます。社会をそして自分を観るとき、ラインを上下して、自分と社会を俯瞰的(ふかんてき)にみることができます。棕櫚亭はもちろん社会的集団ですが、そこに属することで社会や自分を再考できます。
その意味で私も自分探しの途上かもしれません。

何をもって幸せというのだろう?

荒木さんが死にゆく最後の瞬間幸せと思うことを目標に生きている、という荘厳なテーマをもって暮らしているのを知って感銘を受けました。
私は死ぬ瞬間笑って死にたいと思っています。
そろそろ交わしてきた手紙も佳境にはいろうとしていますが、荒木さんは好きか嫌いかその際で悩み進み動くことが大事と言っています。このあたりにボーダーラインの秘密が隠されていると、思いました。

ボーダーラインの本質

今仕事をしている上司に「物事を決めがちな傾向にある。」と言われたことがあります。先の書簡で荒木さんは好きか嫌いかにもラインをひけない。ひこうとしない。
それに関して私はそのラインにこだわりどっちかの側にいようとする。
性格的にラインを引くことをしてしまいますが、実は世の中のことはラインが引けないことのほうが多いことを荒木さんは言っているような気持ちがしました。
「自分探し」についても、時間が無駄かそうではないかではなく、そこで悩むことに意義があると言っています。私はこのことからボーダーラインはそこにありきではなく、うっすらとあるような感じかなと思います。病気になってしまうのはラインを濃く引きすぎた為、中間あたりにいられなくなってしまうからではないかと思いました。
そしてこの状態はストレスだなと感じました。
でもボーダーラインが引けない世界に生きている人にとってはより苦悩もあることも知ってほしいです。そのあいまいな世界で生き方を見失ったり、回りから拒否されたこと、妄想の世界に入ってしまう人もいるかもしれません。
ある人の人生が人類の歴史からみれば、点かもしれません。人生は短いことを考えると密度の濃い時間を送りたいと思います。「ぎゅーっ」と凝縮された時を過ごす。それは私の望むところです。

荒木さんが言われる一度しかない人生だから、いろいろな人生であっていいし、自分が選んだことを大切にしていきたいと思いました。時間を考える時人生はつねに動いているし、荒木さんの書簡での「ムーブ」(動く)ことは大切なことなのですね。

当事者スタッフと健康なスタッフのボーダー、当事者と健常者のボーダー、病気の人そうでない人。それらを探りながら、次回の返信を待ちたいと思います。

草々

櫻井 博

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑫ “誰にとっても、選んできた「人生に間違いはない」 -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/03/28

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

誰にとっても、選んできた「人生に間違いはない」

前略
櫻井 博 さま

寒い冬もいつの間にやら消え去り、冬には気にも留めなかった木々に赤やピンクが色づいているのをみて、気持ちまで暖かくなるのを感じます。

さて、この往復書簡も秋に始まり半年がたとうとしています。少し大げさに書かせていただくと、文章を書くということは身を削り取るようなものだとつくづく感じさせられたものです。自身の内面を描く行為は、例えるならば、鉛筆の黒い芯の部分を削っているようなものだという感覚です。私の場合、太い芯があるわけではないので、ゆっくり、そろそろと削らないとポキッと折れてしまうのではないかと思います。まあそういう意味ではこの半年の間にただでさえ細い芯を結構を削ってしまったので、近々この書簡の幕引きを考えたいと思っています。芯の太い櫻井さんには、誘っておいて申し訳ないのですが。

さて、櫻井さんの前回のお手紙の最後に「荒木さんは幸せですか?」という世にも恐ろしい質問をいただきました。櫻井さんにはどのように映りますか? 想像ですが、多分私のまわりの方には「荒木さんは幸せだよね」と言ってくれると思います、何となくですが。少し楽観的すぎますか?

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

 

 本心はどこにある?

話は少し脇道に入りますが、私は「富士山」が大好きです。告白すると5回ほど登頂しています。でも富士登山が楽しいと感じたことはこれまであまりありません。7合目あたりからの急登にしても辛いという思いこそすれ、山頂での眺めが「こんなにも素晴らしい」なんて感じたことは正直ありません。いわんや登り切ったという達成感なんて沸いたことがほとんどありません。山頂からの景色に関していうと、ガスっている(くもっている)ことなど2度ほど経験していますし、「ああそうですか、こんな風景なんですね」という程度です。「これぐらいの風景ならほかにもあるよ」とも思います。櫻井さんはこんな言葉聞いたことがありますか?「富士山に2度のぼるバカ」。これは「『一度は経験』と登るのはいいけど、あんなつまらない場所に辛い思いをして二度も行くのは馬鹿だよ」ということらしいです。言いえて妙だと私は思います。

それでは「いったい富士山の何が好きなの?」と問われると、即答で「富士山のある風景が大好きです」と答えます。「私は日本人だ」という意識の欠如は、オリンピックやWBCといったイベントに全く興味がないことからも明らかなのです。

しかし富士山のあの端正な山容を望むどんな景色も素晴らしいと感じます。なけなしのお小遣いで一眼レフのカメラを購入した動機の一つにもなっているほどです。

繰り返しになりますが、登る富士山は好きではないけれども、観る富士山は大好きなのです。

と、ここまで書いたときに私を知る人からは「『辛いし、景色も良くないし、臭いし』なんてこと言っても、5回も登っているのだから登るのも好きなんでしょ」と突っ込まれます。このようなツッコミを受けて思考停止する私は、実は「富士山に登るのも好き」なのかもしれません。案外、他者の目でみて感じた「あなたって実はこうだよね」と言われてしまう評価の方がその人の本心や本質(あるいはその一部)を正確に言い当てているのかもしれませんね。

 主観と客観の際で自分を探す

そういう意味では、食べ物の嗜好などは別にして、「好き」と「嫌い」などという感情は案外表裏一体なのかもしれません。前回の手紙で櫻井さんから「荒木さんは幸福ですか?」という問いかけをしていただいたわけですが、その答えは「私はなかなか実感しにくいのだけれども、(他者からそう見えている以上)実は今、幸せといえる」のかもしれませんね。

但しこの回答では、櫻井さんの問いを少しはぐらかせたようなところもあるかもしれないので、真面目に補足しておくと、「死を迎えた瞬間に『私の人生は幸せだった』と感じること」が私の生きる上での一つの目標なのですよ。言うは易しですが…

このように自分の事ながら、正解を持ち合わせていないことや明確に理解していないことは往々にしてあると思います。例えば何かに対して「いったい私は好きなのか?嫌いなのか?」という迷いに始まり、「一体自分は何を考えているのだろう」、そして「私はどのように生きていけばよいのだろう」ということにまで思いを巡らすことを「自分探し」というようですが、これはある時期、濃厚に必要だと感じています。せっかくこの世に生を受け、たった一度の人生を通じて「自分」のことを深く理解したいと思う気持ちは誰もがあるべきだと思います。勿論、障がいの有無に関わらずです。

 でも、一度きりの人生だから走り出してみる

とはいえ、少しだけ年齢を重ねた今、私から言えることは「自分探し」は頭の片隅に置きながら、ともかくも考えたことを身体化することも大切なことなのではないかと思います。先ほどの話で言うと「好き」か「嫌いか」というような解かりやすい感情でさえも、深く考えれば考えるほど曖昧になっていきますし、そこには絶対というものはないと考えるからです。今勤務しているピアスでは、メンバーさん(利用者)が就職準備訓練のなかで自己と向き合い、理解し、葛藤しながら行きつ戻りつ受け入れようとする姿勢、歯を食いしばって通ってくる姿勢には感銘を受けることしばしばです。

私も頭でっかちになってしまうところがありますが、「ムーブ!(動こう!)、ムーブ!」と自分を鼓舞して、迷いを片隅において動き始めるようにしています。外国映画の観すぎでしょうか(笑)

こんなことを書いていると、「今年も富士山に行きたいなぁ」なんて考え始めました。6度登る馬鹿も突き抜けていて面白いかもしれません、一度きりの人生ですからね。

そう「一度きりの人生だから…」という言葉は、私の中では字づらだけではない重みのあるものになっています。櫻井さんにとってもそうだと思いますが、いかがでしょうか?

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

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『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑪ “就労 クローズ就労での経験 オープン就労がなかった時代 -櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/03/14

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

就労 クローズ就労での経験 オープン就労がなかった時代

前略
荒木 浩 さま

今から20~30年前は、病気のことは話さないで就労するのが当たり前でオープン(自分の障害を話して就労する)クローズ(自分の障害のことを話さず人事面接を受け就労する)という考え方もはっきりなかった時代がありました。今ほど病気の理解もすすんでいない時代でした。

就職の面接に行っても「性格はちょっと内向的で、人間関係とか気にするタイプ」とか自分を表現して乗り切っていました。

企業のほうにも働く側にもある意味、病気が一過性と考えられていた時代でもありました。

いまでは考えられないことですが、学生時代の就活は病院から外出届をだして、面接に行き病院に帰ってくることもありました。病院からスーツで会社面接に行って病院に帰ってくると、「よ、会社員」などと患者さんにからかわれることもありました。

 

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

病気になったから幸せになれた

病気をしたから得た人間関係、そして自分の悪い性格もすこしは丸くなったかと思いがあります。

病気と真剣に向き合えた棕櫚亭のメンバーとしてこの施設に参加していた何年間で考え方も価値観も変わりました。

ちいさな幸せで十分満足でき、それを他の人と分かちあえる。これはおそらく病気にならなければ体験できなかったと思います。

受験期の自分の価値観は社会的名誉とかお金持ちになりたいとか、そんな考えにあふれていた感じでした。その一方でそうじゃない、もっと違う何かがあると感じていたこともありました。その何かが病気になってわかったような気がします。お金には変えられないもの、それも病気を通じて知りあった仲間が教えてくれたようです。

それも棕櫚亭という施設に出会えたからです。病気になって幸せになれたと考えられたのも多くの同じ病気をもって生活する仲間を知ったからです。

それまでの過程をすこし話したいと思います。

辛いを乗り越えた先

荒木さんが手紙で言われた「生き抜く」というのも、私も病院の中で痛感していました。

先に就労のことを書きましたが、クローズで就職している意識はあまりありませんでしたが、(あまり病識がなかった)患者さんがいなくなっていく(ほとんどが自死)時、死ぬのもいやだが、生き続けることももっと大変でした。病院で死ぬと思っていた19歳の自分は30代にはいなくなっていました。荒木さんが辛いことを乗り越えて成長していったのと同じように辛いことは私も多かったです。

 

問題は仕事ができない

就職の面接に受かっても、現場は細かい指示もあったり、基礎的なパソコンの知識、体力を求められたりして、よく怒られていました。

例えば今日残業になりそうな時、上司と一緒に夜の9時まで仕事をして、翌日は全員が8時出勤とかもありました。自分が精神的な病をよく知らなかったぶん、休みたくても自分の状態を説明できないことが多かったです。「なんでスピードが遅いのか」という指摘が多く悩んで愚痴を言っていることもありました。病院から企業訪問していたので、昼間も眠くてしょうがなかったです。今なら病気を休息期、回復期とか考えられますが、その当時は人並みに仕事をして、現場で鍛えられた感じでした。上司の命令は絶対で、もしかしたら今で言うブラック企業だったかもしれません。仕事をして給料はもらっていたので生活にはあまり困らなかったですが、その分お酒や食事にお金を使っていました。

お酒は仕事が終わると3日に1回ぐらいは同僚、上司と飲みに行っていましたし、夕食は外食でした。

将来への望みもなく、毎日くる日もくる日も過ごしていました。

一人暮らしでしたので、気楽でしたが、今人に支えられているなかで感じられる幸せ感はなかったです。

会社を休みたくても、休めず、「とにかく出社してこい」と言われ、働き続けたという感じがします。

仕事を通じて、皆会社では仮面をかぶって演じていて、会社という舞台で踊っているような感じでした。仕事上、注意され叱責されるのも、長時間働くのも、今でいう「仕事だから」という意識が会社側には強かったです。

自分も生活の為に働いているというわりきりがありました。

「石の上にも3年」というように、長くいれば仕事に慣れてはきましたが、自分の望むような仕事はできなかったし、常に回りを気にしていました。お金は稼いでも幸せはお金を使った時だけでした。

10代で病気になり、気は弱くなっていた自分が社会参加している意識はあまりなかったです。

 

幸せ感再び

そんな中、棕櫚亭との出会いは鮮烈でした。

サラリーマンとして会社に行った帰りにふと目にした棕櫚亭という文字に触れ(その頃の棕櫚亭第一作業所)、施設長に話しを聞いてもらったのが始まりでした。施設長は自分のいうことを否定せず、黙って聞いてくれました。

後に会社を退職し、棕櫚亭に通い始めます。そこに通うことで

よく人が言う「人間関係で鎧も刀で武装しなくていい関係」に気が付き自分もその中で過ごせる幸せを感じられるようになりました。

人間関係の距離の取り方というのも、あまり実感としてもっていませんでした。

棕櫚亭での勉強会で、講師の立川社協で働いている比留間さんが、「人間関係の距離の取り方は、縮めすぎて痛い目にあったことがない人でなければ、わかりません。その経験があってはじめて距離の取り方を知る」と、言われたのが印象に残っています。人間関係で悩んでいたのは距離が近すぎてどろどろになっていたんだと、過去の記憶が思いだされました。

性格を変え、会社を変え、幸せ感を感じるまで、ずいぶん回り道をしましたが、悔いてはいないです。それがあったから今幸せと思えるからです。

荒木さんは幸せってどんな時に感じますか?

 

草々

櫻井 博

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

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Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ❿ “生き抜いてこそ~「辛さ」と「幸せ」の境界 -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/02/28

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

生き抜いてこそ~「辛さ」と「幸せ」の境界

前略
櫻井 博 さま

風が吹くと身がすくむほど寒いと感じます。それでも気のせいか昼の日差しはほの暖かくなってきているので、わずかながら東京は春に向かっているのだなぁと思う今日この頃です。ただ全国的に今年は厳しい冬のようで、特に福井県などは今もヒドイ積雪状態で農作物などがかなりの打撃を受けているとの報道があります。「寒い冬でも、いつかやがて春に向かう」という「自然の摂理」を私は東京にいて体感していますが、一方で福井県の話を例にとるまでもなく「自然の驚異」を意識することが多くなってきました。

「自然の驚異」といえば、それをテーマとしてとり扱った「ジオ・ストーム」という映画を最近観ました。ザ・ハリウッドという作品なので好き嫌いはあるかと思いますが、「アルマゲドン」なんかが類似作品だと思います。この作品は、近未来世界の設定で、人類が国を超えて力を合わせ地球に起こる異常気象のコントロールに乗りだしたことから話は始まります。宇宙ステーションでその後の気象をうまくコントロールしていましたが、やがてウイルスでステーションが故障し、再び各地で大寒波・熱波・竜巻などの大きな問題が起こってしまいます。主人公がこの大問題の解決に乗り出す話なのですが、サスペンス的な要素もあり、すごく面白くて3回も映画館で観てしまいました。天候をコントロールする未来を想像すると、人類が神の領域に入っているような気がしますね。話の落ちにはやや不満が残りましたが、気象問題に関わらず、いくつかの意味深い問題提起をしている良作だと思いましたので、機会があれば櫻井さんにもぜひ観てほしいです。

あぁ、すみません、話が横道にそれてしまいましたが、まずはお礼を言わねばいけませんね。病気と青春時代を絡めて書いていただいた、櫻井さんの前回の手紙を読ませていただきました。受験を控えた前日に統合失調症を発症してしまったのは、高校時代のすごし方にあったのではないか?しかし、今この歳になって振り返ってみると、病気に罹ったのは「不幸でもあり幸せでもある」と締めている。ただでさえ生き辛い今の格差社会の中で、なんとも櫻井さんは「幸福感を得ていらっしゃる」とのこと。

 

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

 

多くの別れと自身の揺らぎ

「病気になったことが、幸福につながっている」という逆説的なこの一文は、スルーできないところですよね。櫻井さんの辛い10代後半が幸せの50歳につながっているのは、間の30年以上が激動の転換期だったということでしょうか?確かに、私も48歳になったということは、人生の半分以上を東京の地で生活し、仕事に費やしてきたということです。いろんな経験などがあったにも関わらず、それでも人生観や価値観においては10代の呪縛がなかなか解けないでいるのが正直なところです。これは何度かこの手紙のやり取りでも触れたとおりです。それだけに青春期の過ごし方が、その後の自分を大きく左右することは、個人的な考えとして間違いがないと思います。

ただ一方、ある程度自分自身の人生観、価値観、自我が重要な青春期に固まったとしても、私のような対人援助職を続けているとそこが揺るがされてしまうことがあります(いや、この仕事に限らないのかもしれませんが)。得てして、このことは頭を抱え込むような大きな悩みにもなりますが、上手く乗り越えると自己の再構築にも繋がります。言葉でさらっと語れるほどに楽なプロセスではないのですが、客観的に語るとしたら、20代・30代のこの時期に仕事を通じて精神的な辛さに直面することで自分をみつめ直し、そしてそこを乗り越えていくことで他者を知る(理解する)というようなイメージです。この時期は大切だったと今なら思えます。揺るぎは大小さまざまな場面やきっかけで生まれるのですが、私が何よりも辛いものを挙げるとしたら、メンバー(利用者)の死や彼らとの別れに直面したときでしょうか。事故など思いもよらない突然の「不自然な」お別れは本当に辛いものです。

 

連絡が取れず、自宅をお伺いすると食べ物を詰まらせて亡くなっていた方。この方は病院から退院するときに親御さんと話し合いをして一人暮らしを勧めました。私が20代の若造の頃のことです。ご両親も他界されていて、身内とも連絡が取れずひっそりと関係者数名で火葬されました。

 

別の40代の方は母親と二人暮らしでしたが、母親が突然病死され、親類に引き取られるように東北のとある町へと旅立っていきました。何とか東京で生活できないものかとぎりぎりまで思案したものの上手くいきませんでした。10数年後、東日本大震災でかの町は津波に飲み込まれ壊滅しました。

e.t.c…..

生き抜いてこその幸せ感

いったい彼らは幸せだったのか?自分の支援は間違っていなかったのか?彼らのことを思い出すにつけ、いろんな感情で頭の中がかき乱されます。こんな時思い起こすのは、かつて前理事長が就職したメンバーに向かって「生き抜くのよ」と笑いながら送り出していたことです。戦後の高度成長期に生まれた私にはあまりにも過激に聞こえましたが、今となっては彼女の言わんとすることはわかります。

「人が生れるということを選べないように、死ぬということも選べない。だから何としても生きていくしかない」というのが、この仕事に就いて行き当った、現時点での生死に関する私の結論です。「どんなに良い支援をしていても、その方が不本意に死んでしまったり、又は死に近づけさせたりしてはいけない」という支援の根幹の考えは、多くの別れの中で体感し確立したと言えますし、私の頭の片隅には必ずあります。実は冒頭で触れた「気象コントロール」も人為の入り込む余地のない「不自然な」振る舞いだと考えています。人それぞれで良いとは思いますが、「不自然であること」の尺度はもっておいた方が良いのではないかと思います。今の私の危機感は、社会が全体主義に飲み込まれるなかで「不自然であること」に対する私達のアンテナの感度が悪くなっていることなのです。

すみません。話が飛躍しましたね。話を戻して、少なくとも「生死に関する」このような考えは若い頃には希薄だったように思います。決して軽んじていたわけではないのですが、どこかで「人生は太く短く」みたいに考えているところがありました。しかし年月の積み重ねの中で考え方が真逆に変化したようです。桜井さんは辛くも、生き抜いてきたからこそ幸せにつながったのではないかと思います。

 

つらつらと手紙が長くなって申し訳ありません。櫻井さんは、青春期以降いろんな体験と長い時間を経て幸せを感じるまでになったと書かれていましたが、どのようなエピソードの中で変化していったのでしょうか?お話していただけますか?

それにしても「辛い」と「幸せ」というのは、漢字が似ていて紙一重なのが良くわかりますね。

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

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『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ❾ “思春期を振り返る -櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/02/14

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

思春期を振り返る

偏差値教育におけるゆがみ

前略
荒木 浩 さま

前回、自我と他我に関して触れました。私は自我と他我の考え方をここで話そうと思いはありません。
ただ自分が物心ついた頃、集団にはいるのが怖かったことで、避けて逃げていたことがありました。そのことで社会性みたいなものの形成が遅れ、自分を追い込み、その結果病気になったのかもしれないとの思いがあります。自分の殻に閉じこもり、気の合う人と話し遊び群れるという考え方です。
その当時(1980年代)も大学生が大人の社会性についていけず、悩みひきこもる人もいました。私の場合
「自分が大人の社会になじめない」そのような苦手意識はありました。今考えると「なんでだろう」と、疑問に思います。自分が社会を見ようとしないで、見ないですぎた分、あとにつけはまわってきました。
荒木さんは自我と他我についてエピソードは忘れたと言っていますが、わかった時があったのですね。自分と他人を違うとういう認識が確固としてあったということですね。
その認識も荒木さんが社会になじんでいたからだと思います。

荒木さんに前回、自我と他我について説明していただいたことありがたく思っています。前回は性格と病気に関して私なりの考えを書きましたが、「アイデンティティの確立は今受けしない」と、荒木さんは書かれていて、その根拠がインターネットの出現だと言われると「なるほどなあ」と、納得するも、隔世の感に似たものがあります。

私の高校生活はサッカー部の練習に多くの時間を割いたと思います。進学校な為か部活は盛んではありませんでした。一回目の書簡で荒木さんが触れた、偏差値も私の年代(1970年代後半)も重要視されていました。私が現役で大学を受けた年が共通一次試験元年でした。私はクラブ活動に身を入れるいっぽうで、なにか自分の確立した考えを確立したいと思いました。勉強はできるほうではなかったですが、そのころ読んだ、前回お話しした、坂口安吾の「堕落論」にひかれ、勉強からドロップアウトしました。自宅学習が必要な理数系はほとんど勉強しなかったです。

大学進学があたりまえの高校で、すこしでも偏差値のいい大学を目指す校風には当時馴染めなかったです。
大学浪人時代、「偏差値を上げるのは皆ができない問題に正解することだ。」と思い、そのへんの技術的なことに一生懸命になったことは、ゆがんでいるとおもいました。基本的なものを飛び越した感じはありました。(基本的な知識はおざなりにし、応用的知識の習得訓練)

浪人時代の一年(多分一生で一番勉強した一年)は自分にとっても、精神的にも肉体的にも追い込まれた一年ではなかったかと思います

自然気胸を発症したのもこの一年の冬でした。そして受験を控えた当日、統合失調症にかかりました。
このおいこまれた経験は、自分の性格ではなく、自分がつくりだした世界にも起因するのではないかと思うこともあります。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

小さいころ病気の兆候はあったか?

小学生の頃、落ち着かず人にちょっかいをだして、いじめられた経験から発達系の障害もあったのかなと思うこともありましたが、少なくても幻聴、妄想がなかった日々があったのですから、やはり病気になったのは高校生活の過ごし方が大きく影響したのではないかと思います。
やるせない気持ち、不安な気持ちを内包しながら、罹るべくして罹った病気ではなかったかと思うこともあります。

病気になっても幸せ感を得られた

自分の偏差値で、せーいっぱい背伸びして入学した高校で劣等感をもちながら過ごしたことも、自分が歩んできたことには変わりません。今回この往復書簡を書くにあたって思い起こした高校生活も綺麗ごとばかりではなかったかと思います。
ついつい自分の過去は脚色しがちです。
でもこの10代最後の年に病気に罹ったことは、「不幸でもあり幸せでもあるかな」と最近思えるようになりました。そうでなければ、ズーっと偏差値のより高いところを目指し続け、数字でその人の能力をみて、格差社会における、いわゆる上のほうを、偏差値を上げるのと同じように目指す。そんな生き方だとしたら、いまのような幸福感は得られなかったと思うからです。

草々

櫻井 博

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

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『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ❽ “失われた青春期と喪失感、発病 -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/01/31

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

 

前略
櫻井 博 さま

1月も下旬になり、かなり寒い日が続きます。いかがお過ごしでしょうか。

気持ちの良い秋が短く一気に冬に突入したためか、この時期になっても体が寒さに慣れていきません。原因は異常気候のせいでしょうか? それとも単に私の老化のせいでしょうか? 老化というのは、冗談も交じっていますが、とは言え私も2年後には50歳になります。見た目は50歳を大幅に超えていますが。

いわば人生の折り返し地点を大きく超えてしまって、少し物ごとへの考え方も変わってきたなぁとも感じる今日この頃です。

例えばこの書簡も、全部とは言わないまでも自分の心の内を櫻井さんに書いていますが、数年前までは全くなかった発想です。勿論、これまで私なりに仕事を一生懸命やってきたわけで、決してコミュニケーションに対して手を抜いてきたわけではありません。ただ、どうしてこの書簡を始めたのかというと、何というか仕事への心の向け方というよりも、同世代の今の理事長に「社会の中で、年齢なりの立ち振る舞いができているか?」と言われた時の衝撃が発端になっています。なかなかエキサイティングな職場ですよね、時々私は凹んでいますけど。ともかく、社会の中でアラフィフの自分が行動や発言していくということを考えたとき、経験という資産しかないことに愕然としました。悩みましたが思い直して、当事者スタッフの櫻井さんにこの経験の一部をきちんと開示して、次世代に残すべき別の資産を作りたいと思ったのです。

前置きが長くなってすみません。前回の手紙から少し間が延びてしまったため、お手紙を読み返しています。そして思い出し思い出しながら返信を書かせていただきます。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

発病と自我について櫻井さんが思うこと

統合失調症になった原因について前回の手紙で櫻井さんは、青春期に「自我」が確立できなかったからだと書かれています。なかなか哲学的な話になってきて、櫻井さんの話についていけるか心配になってきました。「自我」とは学生時代を思い出すような、ワードですね。この手紙はできるだけ背伸びをしないように書きたいとは思っていますが、どうなりますやら。
「自我」という言葉を深掘りすることが目的ではないのですが、解釈でわかれる言葉なので私なりに一応定義づけしておきます。言うならば「『自我』とは、『鏡に映る内面(心)』の『自分からの見え方』」のことだと理解していますが、よろしいでしょうか。

丸めた言い方をすると「自分ってこんな心の持ち主なんだと思うこと」なのでしょうか。

櫻井さんは「ゆるぎない強い自我を青春期に確立できなかった」から病気になってしまったと書かれていますが、「櫻井博ってこんな心の持ち主なのだ」という自我を青春期につくれなかったことが病因であるとおっしゃりたいのですね。

失われた青春期をとりもどす

青春期に自我の確立ができなかったことが統合失調症の原因となるのかどうなのか、正直に言うと私の知識ではわかりません。しかし、櫻井さんの文面から透けて見える、青春期の強い喪失感は理解できるような気がします。間違っていますか?

大切な時期を病院で過ごしてしまったことが櫻井さんにとってどれほど辛い体験でその後の喪失感につながっているかは、就労訓練を行なっているピアスのメンバーさんの支援でもよく感じています。ピアスメンバーの多くも櫻井さんと同じように青春期に発病していることが多いのですが、就職した経験がある方、そうでない方いろいろな方がいらっしゃいます。

そういう意味では決して皆さんを一概には言えないのですが、「ピアスの訓練は辛い」という思いだけで通っている人ばかりではないという実感があります。

勿論、ピアスは就職のための訓練というだけあって、肉体的にも精神的にも負担は大きいと思っています。それでは40名の方皆さんが毎日ゼイゼイいいながら訓練しているかというと、あながちそういうことでもありません。お昼の時間、休憩時間やアフターファイブを生き生き楽しんでいる場面をお見受けすることが多々あります。その彼らの姿はいわば青春の穴埋めをしているがごとくです。他者とのふれ合いの中で自身を取り戻していくということは、ピアスというコミュニティーの強みだとつくづく思うことがあります。

このことがどういうことかと自分なりに解釈したときに、自分の存在というものは他者の存在でようやく浮き彫りにされるのだということです。

少し私事を書かせていただくと、高校時代に「自他の区別」をかなり強烈なインパクトで受けいれた記憶があります。その時強い孤独感を感じたものです。上手く書けないのですが、このような仕事をしている原点はその「孤独感」にあると思っています。これは確信をもって言えることです。ただ残念ながら具体的なエピソードは思い出せませんが、かなり独りよがりな気づきがその時期にあったことは覚えています。その頃から心理的に殻にこもっていったことを手紙を書きながら思い出しました。「自分」と「他人」は別という、言葉以上の強い観念に縛られているという気持ちが今はないとはいえません。
まぁそれはさておき、一方でこのようにも感じるのです。

現代社会と自我の確立

今青春期にあるどれだけの若い人達が「ゆるぎない自我」を確立する必要があるのか?という疑問もあります。

例えばそれは、リアル(現実)と、インターネットを代表とするバーチャル(仮想現実)の世界を私達は行き来しながら生活していることが当たり前になっている昨今です。本名と匿名を使い分けながら、どちらにいようと不自由ない世の中になってきているような気がします。自分が簡単に他人に成り代わることができるのです。むしろそこを闊達にうまく渡り歩いていることがスマートで賢い人という評価を受ける時代だと思うのです。「自我の確立」なんて言葉は、今や過去の遺産となりつつあるのでしょうか。

もしかして、時代時代によって統合失調症の発症原因は違うのかなぁとも考えたりもしました。

私が苦手な哲学的な話を少し避けていただきながら櫻井さんの発症前後、つまり高校生ごろのことをもう少し詳しくお聞きすることができますか? すみません、リクエストが多くて。

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ❼ “対談編”

法人本部 2018/01/17

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

新年あけましておめでとうございます

ホームページをご覧いただいている皆様、遅まきながら、新年あけましておめでとうございます。

旧年中は『往復書簡』をお読みいただき、ありがとうございました。
読んでくださる方からは「楽しみにしています」とお声掛けいただき嬉しく感じています。
さて、紙面も思いの他すすみましたので、ここで一度対談をしたいと考えました。
案外とこの文章書きという作業は私(荒木)にとって負担で、少し息抜きがしたかったというのが本音で、加えていうならば、公開後読み返した時に少し内容の補足が必要かもしれないと思ったからです。
裏話をすると、公開の少し前から実際の手紙に近いやり取りを始めていて、わずかばかりのストックがあったのですが、いざ公開する段になって「やっぱりこのように書きたい」と手直しをしてしまう。そうするとそれを受けた櫻井さんも話の流れから書き直しせざるを得ないという悪循環を、私がまねいているという始末。桜井さんごめんなさい。結局、タイムラグが少ないほぼリアルタイムな手紙のやり取りをしているのが実態です。もっと言ってしまえば、お互いできるだけ職場で時間を作って書こうと思っているのですが、持ち帰って夜遅くまで自宅のパソコンに向かっています。私はともかくも、櫻井さんにとっては負担になっているような気がします。「まぁ、なんと時間外まで使って熱心な」と褒めてくれという気はまったく無いのですが、気持ちを入れて書いているという気持ちを吐露させてください(笑)
ということで、今回は指向を変えて、以下が対談の模様になります。

荒木 浩

対談編

荒木: あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

櫻井: こちらこそよろしくお願いします。

荒木: このページで使っている写真どうですか? 秋に近くの谷保天満宮でとった写真なのですが、天気もよく、いい写真だと思いません。

櫻井: いいですよね。ここは菅原道真公を祭る学問の神様がいることで有名ですよね。正月は出店も並びにぎやかになります。高台があるのですが、ここから見える富士山は本当に綺麗ですよ。

荒木: たくさんの鶏が解き放たれていてのどかなところですしね。

櫻井: のどかなところだけに、かっこいい古いポストも残っていますね。このポスト写真を撮ってくれたアーガイルデザインの宮良さんが探してくれました。ホームページの多くの写真が彼の手によるものですが、いいものばかりです。

 

櫻井博 と 荒木浩

荒木浩 と 櫻井博

昨年を振り返って

荒木: さてそろそろ本題に入りますか(笑) この書簡が始まった昨年(平成29年)を振り返って、櫻井さんにとってどのような年でしたか? 私にとっては、棕櫚亭の30周年記念行事を喜んでくれたメンバーさんの笑顔を忘れることができません。そしてこの組織はメンバーに支えられているのだなぁという実感がありました。また天野さんと藤間さんという組織の創設者が退職され、ついに継承がまわってきたかという1年でしたね。周囲に聞いてみると、社会福祉法人、なかでも精神障がい者の支援を中心に行なってきた法人にとって、立ち上げた団塊世代の退職で組織継承の事は切実な課題になっているらしくどこも苦戦しているとのこと。そういう意味では、うちの法人は、小林さん(理事長)、高橋さん(常務理事)、山地さん(オープナー施設長)、荒木のアラフィフ4人で探り探り、苦戦した1年だったと思います。理事会の審議などで自分の力のなさに肩を落とし、メンバーの就職にヤキモキしたり、逆に喜んだり、ある意味エキサイティングで背伸びした一年だったかもしれません。よく自分に言い聞かせているのですが、「個人的には、背伸びって必要な時期がある」と思うんです。背伸びすることで足元が不安定にはなるけれども、そうしないと強い筋肉が足につかないというか。メタボ対策というか(笑)

櫻井: なるほど(笑) そうですね、私には挑戦の年でした。2年前から介護従事者の勉強を始め、年末から年始にかけては、日曜日に学校に行き、昨年4月から週5日のフルタイムに変わり6月からは常勤採用になりました。介護の勉強は終わらせ、今は棕櫚亭の仕事に専念しています。
私も30周年の記念行事も忘れられません。組織継承で新しい経営陣とともに退職まで頑張ろうと思った瞬間がありました。本当ですよ(笑)平成29年という年は最後に病院を退院した平成19年から数えてちょうど10年たちますが、棕櫚亭にもっと早く出会えれば人生もかわったかも知れないと思ったりもします。私がメンバーとして棕櫚亭にいたのをかぞえても14年間ぐらいです。30周年を迎えた棕櫚亭は、さらに16年間も積み上げているので、すごいことだと思います。
ピアスタッフつまり当事者スタッフならではの視点で業務に関わればと思いますが、実際仕事にはいると、まわりのスタッフと足並みをそろえることも重要なことに気が付かせられます。
またこの往復書簡がはじまったことも印象に残っています。ベテラン職員の荒木さんとすこしづつつみあげてきたものを「手紙というかたちで」と提案された小林理事長にも感謝です。

自己開示について

荒木: ありがとうございます。櫻井さんの前向きな行動力にはいつも感心させられます。当事者であろうとなかろうと、特にこの仕事を専門職として選んでいる方にとって自己研鑽していくことは大切だと思います。もちろん自己研鑽というのは、技術的なことなども含みますが、個人的には人間としての幅を広げていくことこそ大事なことだと思います。「いったい幅を広げるということってどういう意味ですか?」と、いつも叱りつけている職員に反問されそうですが、そこは各自で考えてくださいとしか言いようがありませんけど(笑)もちろん最低限必要な知識・技術・倫理観などはあると思いますが、それを超えた部分は各々で大いに伸ばせばよいと思います。どうしても知識やテクニカル的なことに意識が向きがちなのは仕方ないことですが、対人援助の仕事はオンリーワンのメンバー支援をしていくのだから、四角四面の知識や技術では現実問題に対応できません。そこを個人の経験や想像力で補わなければならないと思うのです。つまり私の言う「人間としての幅」というのは、想像力というかその人の人生にいかに思いをはせることができる力があるかということなんです。この力ってある時期になればつくものではなく、継続的に研鑽しなければいけないものだと思っています。まぁこれはあくまでも私の考えなのですが。そもそも同質化された職員集団は個人的にはちょっと気持ち悪いので、いろいろな個性があって良いと思います。

そういう意味では、今回この記事、つまりあまり話してこなかった自分個人の過去や考えの一部をさらすことでいろんな評価をうけることは覚悟してもいます。櫻井さんを巻き込んで申し訳ないのですけれどね。それにしても、いくら文章を書くのが上手い桜井さんでも、発症時の過去を思い出したり、自己開示したりという作業は負担だったのではないでしょうか? 先日たまたま、自己開示に関する質問をメンバーさんにアンケートという形でお聞きしたところ「負担である」「話しても良い」の半々の結果が出ました。桜井さんには少しお聞きしたいのですが?

櫻井: そうですね。私にとって、自分の思いや過去を語る、自分のありのままを語るこの書簡での自己開示度は高いと思います。「当事者が自己開示するとは、信頼を置ける関係になってようやく徐々に自分のことを語ること」と、精神保健福祉士取得のための教科書にも書かれています。一般的なイメージでは健常者が酒を酌み交わし、本音で語ることに似ているかもしれません。
一般企業では、例えばコンビニの店長、デパートの店長、商社マン、などはたくさん商品を売り、高い利益をどのようにあげるかということが仕事の目的ですが、福祉の仕事はその方の本音を聞きながら、一緒に考えていくかが、利益をあげるのと同じように大切なことだと思います。
気を付けなければいけないのは、商品にはプライバシーはありませんが、福祉の仕事は自己開示(プライバシー)によって生活の向上を目指すため、その取扱いに職員は注意を払わなければならないという事です。それは法律上などと言うまでもなく、この職に就く者にとって絶対に必要な倫理観です。
今回の往復書簡では、私の自己開示は荒木さんの魔法の言葉(笑)でひきだされていますが、ある程度荒木さんも自己開示されているので、こちらも誠意をみせる意味でも自己開示しています。これが大事で、他人の自己開示には、ある程度自分の自己開示も必要となる場合が多いということです。多いと書いたのは、支援者とメンバーの関係では、メンバーに比べ支援者が自分のことを開示することは少ないからです。しかし支援者はメンバーが自己開示されたことに誠実に反応しなければなりません。
そして当事者が自己開示する意味はもう一つあるのではないかとも考えています。自分の過去、プライベートの部分を会話という形で外にだすことによって、自分を第三者的に俯瞰してみることができるということです。俯瞰してみるからこそ、自己開示すると恥ずかしいという感情がうまれてくることもあるのではないかと思います。だから支援者は過去の生活暦を語るメンバーにたいしては慎重な態度と寄り添う姿勢が必要です。自己開示を受け入れてもらった感をメンバーが感じ取れれば第一関門は通過したといえると思います。

「人生が終わった」と感じた瞬間

荒木: なるほど、櫻井さんは、自己開示しそれを話題にすることで、自分を客観視するという事をしているのですね。そしてその情報を生活の中で生かしていくという姿勢は、私たち職員にも必要な態度なのだと思います。ところで櫻井さんは医療保護入院になった時のことを「本当に人生がここで終わる」と話されていますが、そのあたりのことを詳しく話していただけますか?どういう点で人生が終わると考えたのでしょうか?どうしてこの質問にこだわっているかというと、私達職員は、「人生が終わる」といかないまでも精神的に多くの苦悶を抱えた、あるいは抱えている人達と日常接しているということをきちんと意識することが必要だと思うので聞きたいからですけれども。

櫻井: 医療にかかっているのに、人生が終わるとは不思議に思われるかもしれませんね。医療は人の命を助けると思うのが普通だと思うのですが、医療保護入院時の精神状態のなかで『精神病院では自分の命が失われる』という被害妄想が働き、『自分の人生の終着点が精神病院になってしまった』という誤った考えで入院したからです。もちろん今ではそんなことは思っていませんが。閉鎖的な精神病院の世界では、この考えは直るどころか、いっそう加速され、自分の命をとるため病院に暗殺者を送り込んできた。その思考から抜け出して退院をして具合が悪くなり、また病院に戻るの繰り返しが何十年も行なわれていました。被害妄想は閉鎖的空間では助長されるというのが、私の実感です。
医療が人を助ける場所だと信じることが入院の時はなかなか信じられませんでした。それが『本当に人生が終わる』という発言に繋がっています。実際最近聞いた話では、精神病院での身体拘束が以前に比べ増えているという話をききます。精神科特例など問題があるといわれる精神病院では、地域生活をしている以上に苦しんでいるのではないかと思うこともあります。
ところで逆にお聞きしたいのですが、職員の方は『人生が終わる』なんて考えたことがありますか?

荒木: 私は少し書いた通り東京に上京した時はかなりピンチでしたが、それでも『人生が終わった』とまでは思わなかったですね。決して楽観的ではなかったのですが、それでもわずかながら選択肢があったように思います。例えば最悪、私の場合九州に帰ることもできたのではないでしょうか。他の職員の方はどうでしょうか?聞いてみたい気もします。
振り返ると私の入職当時も精神科に対する偏見はあったと思いますし、社会も昔に比べればよくなりましたが、それでもというところが今もあります。いまだに内科を受診すれば周囲は「病気を心配する」のに、精神科を受診すれば「人生を心配する」みたいなところがないとは言えません。「人生が終わる」と感じる方が私たちの周りにいるという思いで、この仕事の重みを感じなければならないと改めて思わされましたね。

あぁ、ただ、いま話をしながら思い出したのは「人生が終わったとは少し違うのですが、「生活がやばい」と思ったことは確かにありました。22歳の入職後2年で子どもを授かったのですが、勿論当時学生だった奥様は働けず収入がなく、手取り14万円の給与で家族3人暮らしていかなければならなかった時は「オワタ」(笑)と思いましたね。当時は私もタバコを吸っていましたが、喫煙場所でタバコを一緒にくよらせていたメンバーの方から「市に(生活保護を)申請してみたら」といわれました。さすがにできませんでしたけど。

これは棕櫚亭の給与がどうのこうのというのではなく、この精神保健福祉業界の地位や補助金が低かったということなんですよ。誤解のないように。そういう意味では職員が安心して働けるように基盤作りをしていくことも私の今の仕事であるという、最初の話につながってくるのです。ということで、すこし話が長くなりましたが、桜井さんありがとうございました。それでは後半戦に突入したいと思います。

これまで桜井さんの話の中に出てきた、アイデンティティーのことや、今そしてこれから先の櫻井さんの仕事への思い・展望などに水を向けすすめていきたいと思っています。桜井さんお手柔らかに、よろしくお願いしますね。

2018年1月吉日
多摩棕櫚亭協会 本部にて

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

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