『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑮ “棕櫚亭の理念を担う-櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/05/09

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

棕櫚亭の理念を担う

前略
荒木 浩 さま

半年にわたり、手紙をよんでいただいてありがとうございます。今回が最後になるのですね。最後に大きなテーマをいただき考えましたがうまく答えられないかもしれません。
今これを書いているのが連休まっただ中の自宅です。職場で書くことは認められてますし、ほとんどそうしてきました。今回は振り返る意味も含めゆっくり書いています。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

棕櫚亭の理念を担う

棕櫚亭の理念として、「精神障害者の幸せ実現」という大きな目標があります。荒木さんから問われた「なにを担ってくれるか」という問いにこたえるとすれば、法人に関するすべての仕事だと思います。

本当の事を言いますと、電話相談でもプログラムの活動でも高齢者配食でも、その活動が理念のどの部分がどういうふうにあてはまるかはわかりません。仕事として全力投球でやることによってそれがやがて理念として幸せ実現に向かえばと考えています。

棕櫚亭にメンバーとして入り、2回の入院を経て、いろいろな方との出会いがあり、棕櫚亭の魅力にひかれ、精神保健福祉士の資格を取り、週3日から始まった障害者雇用での採用でしたが、自分の中では健常者と障害者の境界は、気持ちのなかではありませんでした。

確かに病気をによる障害はありますが、それを意識しないよう努めました。

精神障害者の雇用率が上がり、一般での雇用は増えてきました。様々の分野に雇用の場は広がっています。荒木さんの手紙でも健常者と障害者の境界(ボーダー)は引けないと返事をいただきました。書簡を通じて境界を引いているのは自分のほうではないかと気が付きました。もともと境界をひけないことの多い社会のなかで、境界をひこうと思い、被害的になったり不安になったりすることは、そのできない境界に怯えているのではないかと思いました。、この半年間往復書簡を通じて荒木さんとの認識の違いでは、自分には多様性をもつことがすくなかったことも得た一つの教訓です。荒木さんの考える多様性に注目しずいぶん自分の思い込みも意識されました。

なぜ棕櫚亭を就職先に選んだか?

私が棕櫚亭を勤務先に選んだのも、そういう多様的な見方や考え方が仕事に許されているからです。荒木さんとの書簡で自分が気づいたこともたくさんありました。境界という考えをもたないほうが働くにはいいということも最後に気づいたことでした。それは回りから合理的配慮してもらうこととは違います。職員としてもつ立ち位置的なものです。

天野前理事長と始めた当事者活動

私は棕櫚亭に入職して天野前理事長とSPJ(棕櫚亭ピア事務局)という当事者の活動をはじめました。構成メンバーは主にオープナーの方が多いです。そこで話された事柄は秘密保持で他では話していけないというルールがあります。私はここで発言することで自分の不安感とか恐れる気持ちを解消しています。これはおそらく障害者というレッテルを「はがそうはがそう」という努力にも似ています。障害者だからこう見られているのではないかということを語りながら、うなずいているメンバーさんをみて安心します。他の方はどうかわかりませんが私の場合はこの茶話会に参加することで、また一週間がんばろうという気持ちになれます。

ここは障害当事者が集まっているという意味ではボーダーレスです。

こういうふうに考えると、境界とは社会の側からは都合よく考えられた言葉で、自分の気持ちのなかでそれを取り除けばとも思います。
荒木さんが「往復書簡の初め」で書いていたとおり、「障害者がリハビリして社会にでていけば私たちの仕事はなくなる」という考えもあったということでした。
でも現実に仕事をしていると、それも不可能だし、専門性の高いワーカーも必要です。その点では荒木さんと意見が一致しています。精神の福祉の分野では障害のない職員がメジャーで当事者スタッフはまだまだ少数です。いくら当事者に追い風が吹いているからといって力の差はあります。今年の5月で雇用されて5年たちますが、当事者性を追い求めて、特色のあるメンバーさんとの関わりを持とうという姿勢はかわりません。職場の上司にはピアスタッフだからできる仕事をしてほしいと言われています。でも私は雇っていただいたからには、なんでもやるつもりでいます。そこから多様性が許されている「棕櫚亭の精神障害にある方の幸せ実現」にすこしでもお役に立てればという思いがあります。
もちろん卓球も一生懸命やります(笑)

荒木さんの手紙で効率性を追い求める社会というのが、それだけではなく無駄もあってもいいと書かれているのを読んで、人間の幸せって無駄にあるものかと思いをよせました。
効率性を求める現代社会も福祉の分野ともうっすらボーダーが引けるのかもしれません。
そんな思いをもったのも、長い間企業にいたという経験があるからかもしれません。

でもそこに境界を引くつもりは今はありません。

最後に

半年の間ホームページにアクセスして読んでいただいた皆様にも感謝しています。
拙い文章で気持ちが伝わったかわかりませんが、境界線を探った結果を自分なりに書かせていただき最後にしたいと思います。

草々

櫻井 博

※いつも「往復書簡」読んでいただきありがとうございます。

手紙でのやり取りは、この号で終了となります。半年にわたりありがとうございました。3週間後の5月30日にスピンオフで「対談編」を上梓して「往復書簡」は完全終了になります。

この5月という時期があまりに忙しすぎて二人で話す時間がないのです。しばしお待ち下さい。本当にごめんなさい。

櫻井 博 & 荒木 浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

  • 《最終回》 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
    Part ⑯ “半年の往復書簡を振り返って 対談編”
    👉
    2018年5月23日(水)公開予定

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑭ “目にはみえない境界線を越えて幸せを考える -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/04/25

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

 

往復書簡を読んで下さる皆様へ

半年という短い期間でしたが、次号が櫻井さん最後のお手紙、締めくくりは、書簡を終えての二人の対談でフィナーレとなります。従いましてこの回が私にとっての最後の手紙となります。このような場で書くことの重責から解放されホッとしているのが率直な感想です。一方、これまで文章を書きながら、いろいろな方の顔を思い出しながら、私なりに伝えたいメッセージや問いかけを綴る喜びがあったのも事実です。本当にお付き合いいただきありがとうございました。

このミニマラソンも最後の競技場に入ってきました。残りわずか、息も切れ切れですが、完走したいと思います。

目にはみえない境界線を越えて幸せを考える

前略
櫻井 博 さま

本当に気持ちの良い暖かな季節になりました。

ただこの春という時期は、一面穏やかな顔を見せながらも、特有の突風で、歩く道を遮るような意地悪をしてきます。暖かさにつられて洗濯物を外に思い切って出すのですが、帰ってきたらベランダにそれらが飛び散って、泣く泣く洗濯をもう一度しなければいけなくなるという経験はこの季節に多いような気がします。

 もう半年もたつのですね。そもそも、この往復書簡の始まりは、櫻井さんと私の原体験の一部をさらけ出してそれを切り口にしながら「当事者職員と(健常者)職員の境界線を探る」という大命題を掲げたことでした。この問いに対して私なりの「答えはでたか?」というと、潔く「No」と、うな垂れるしかありません。すみません、櫻井さん、私の力不足でした。

そもそも、対外的には法人事務長という肩書通りに顔半分事務職の私が「職員のありよう」を語るということには無理があったのかもしれません。他にも優秀な人材がいるにも関わらず(笑) ただもう一息頑張りたいと思います。

 

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

 

ソーシャルワーカー(福祉職員)のありよう

私の苦手なことはたくさんあるのですが、人に物事を伝えるということがその一つです。具体的に言うと、職員の教育がとても苦手です。敢えてかっこよく言えば職人気質の職員などと言い訳できますが、今時は全く流行りません。勿論、手をこまねいていても仕方ないので、少しでもそれらしいことを語れるように、時々は学生向けのやさしい本を読むようにしています。ずいぶん緩く書いているなぁと思うものもありますが、その言葉の平易さが人に伝える上では非常に参考になることがあります。

そのように読み漁った本の一冊に(恐らくはやはり学生向けに)「福祉職員のありよう」について書いてあったものを見つけました。この本がとりわけ素晴らしいということでもなく、おそらくは他の本にも同じような意味を綴った文章はあると思います。しかし私たちが書簡を始めるにあたって掲げた「当事者職員と(健常者)職員の境界線を探る」ヒントになるかと思い、少し長いのですが、転載してみました。読んでみてください。文中には「ソーシャルワーカー」と書いてありますが、「福祉職員」と読み替えてよいのではないでしょうか。

恐らく、限りなく理解し、その人に近づこうとすることはできても、本当にその人やその人の人生を理解することなどできません。その人だって自分のことなど本当は分かっていないのに、他人である私にその人のことを理解などできません。(中略)
ソーシャルワーカーの営みは、どれだけ限りなくその人に近づけ得るかにあると思います。限りなさの程度というか限界は、ソーシャルワーカーがどれだけその人の人生を追体験できるか、どれだけ豊かに想像できるかにあると思います。出会った人から直接的に学びとると同時に人類が歴史的に蓄積してきた文学、音楽、芸術、哲学等々、人間を理解するための様々な遺産からどれだけ学びとっているかにも、かかっていると思うのです(以下略)

『ソーシャルワーカーという仕事』 宮本節子 著(ちくまフリマー新書)より抜粋

障害者・健常者以前に私達はソーシャルワーカー(福祉職員)である

上の文章から読み取れることは、3点あると思います。

①どんな人であろうとも、他者の人生の理解は難しい

②しかしソーシャルワーカーは、支援する人の人生を追体験し、豊かに想像することで近づくことが大切

③そのためにもソーシャルワーカーは、直接支援のみならず、歴史的な蓄積からも学ぶべきである

 健常者であれ、当事者であれ私たちは「福祉職員」だから、やるべき仕事は同じです。但し、精神的な病気を体験したという点、つまり追体験という意味では、当事者スタッフの方がメンバーさんの近くにいることは間違いないでしょう。しかし、それでも他者の人生の理解の深い部分は、当事者であろうと「他人である」以上、理解することは難しいのだと上の文章では書かれています。わたしもその意見には同意します。

その意味では櫻井さんが今も自分の経験に胡坐(あぐら)をかかず、いろんなことに挑戦しながら視野を広げていく姿勢は素晴らしいと思うのです。つまりは「健常者スタッフ」であろうと「障がい当事者スタッフ」であろうとこの仕事を選んだからには、経験ということにとどまらず、想像力を深め、文化的な角度からも見聞を広げる努力を続けなければいけないということなのでしょう。

繰り返しになりますが、今回の櫻井さんとの往復書簡では、「当事者職員と(健常者)職員の境界線を探る」という命題を立てながらも力及ばずついに境界線を見つけることはできませんでした。健常者であれ当事者であれ職員の間に引くような線、つまり「境界線なんてものはそもそもない」のかもしれませんね。櫻井さん、それを現段階での私の結論とさせていただくことを許していただけますか。

そして本当の締めくくりになりますが、次のことにふれさせていただき、筆をおきたいと思います。

幸せな社会を、そして棕櫚亭を、どのようにデザインしていくかこれからも皆で考えていきたい

私たちは、ロボット演劇の研究を通じて、人間を人間たらしめているものは何かを追求してきた。(中略)そこでわかってきたことは、どうも私たちがロボットなりアンドロイドなりを「人間らしい」と感じるのは、その動きの中に無駄な要素、工学者が言うところの「ノイズ」が、的確に入っているときだという点だ。(以下略)

『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』 平田オリザ 著(講談社現代新書)より抜粋

現代社会の中で、高い価値とされるものの一つに「効率(性)」というものがあるような気がします。「効率的に税金を使う」とか「効率的に働く」という言葉は、マイナスのイメージがわきにくいですね。そしてこの「効率」という言葉は福祉分野にも根付きつつあります。例えばそれは株式会社など営利企業の福祉事業参入ということです。少ない資金で「効率的」に利益を上げようとする営利企業の活動理念と、限りある税金を福祉に「効率的」に使う行政改革の流れとが結びついているのが現代の福祉の特徴の一つだと考えています。

その一方で、社会福祉論などの学問では、福祉社会とは「人間らしい」生活を営める社会であると教えられます。そして先ほど書いた通り、劇作家の平田オリザさんは、「人間らしさ」について「無駄である」という要素で語っています。これは大変興味深く、私は思わずうなずいてしまいました。私自身が無駄に気楽に生きているからそう思うのでしょうか?

営利企業の福祉事業参入など福祉の「効率化」が進む中、福祉学部の教室では「福祉社会とは『人間らしい(無駄ともいえる)』生活だ」と教授に教えられる状況には想像するだけで目が回ってしまいそうです。

あくまで誤解の無いように書いておきますと、私は決して「効率的な社会」や「株式会社」が悪いと言っているのではありません。努力をして、障がい者雇用で就職し、幸せを得た障がい当事者の方を沢山見ています。彼らを受け入れてくれているのはそのような社会であり、会社であることは間違いありませんし、皆さんのその笑顔に嘘はありません。ただ私がここで言いたいことは、社会の仕組みが一層効率的になりすぎた先に、私たちの幸せはあるのかという不安です。どのような社会が望ましくて、どのようなさじ加減でデザインしていくか、つまり「幸せな社会」を選び作っていくのは私たちの権利であり、大げさに言うならば、使命だと考えています。

そして同時に棕櫚亭の職員である以上、精神障がい者の方の「幸せ」実現、つまりは法人理念実現に向けて、社会の中ではほんの微力でも力を尽くさなくてはいけないのです。

さて、櫻井さんには、最後に職員として「棕櫚亭の目指す精神障がい者の幸せ実現」の何を担っていただけるのか、何を担いたいのか語っていただけますか?最後の無茶ぶりです。

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

  • 《最終回》 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
    Part ⑯ “半年の往復書簡を振り返って 対談編”
    👉
    2018年5月23日(水)公開予定

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑬ “ボーダーレス社会の苦悩-櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/04/11

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

ボーダーレス社会の苦悩

前略
荒木 浩 さま

春がやってきて桜がさいています。また気持ちのいい季節がやってきました。
私はこの心躍る春が大好きです。
この手紙が公開される頃はすっかり桜も落ちてしまっていると思いますが。
実は去年の夏ごろ富士山に登ってみたいと、考えていました。初めての登頂なので一緒に荒木さんを誘ってと思っていました(笑)。荒木さんは5回も登っていたのですね。凄いですね。
私は登山用具が予算ではそろわないことを言い訳に登頂はあきらめていました。
回りのスタッフも勧めませんでしたので。
私を含め当事者は体力があまりないので、一人で歩き通しはきついし、練習も必要かと思います。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

自分探し

そうそう私の大学生の頃、卒業しても「自分探し」といって就職せず、世界を旅する人にこの言葉は都合のいいように利用された感がありました。
最近では、あまり「自分探し」は積極的意味では使われていないように思えます。
ある評論家は「自分探し」は他者と出会わなくては自分もわからない。という相対的に自分を観てみるということも言っています。
荒木さんの手紙を読むと意味がすこし違うような気がしました。
人間だれしもが悩むもので、自分の感じ方、好き嫌いを掘り下げることと。
この意味での「自分さがし」は大切な気持ちだと思いました。自分探しはしなかったですが、働いて辞めてまたアルバイトなどの生活は、他人から見れば自分探しをしているのだなと見方もあったかもしれません。
急性期が終わり自宅にもどった時、昼間、「眠たくて眠たくてしょうがない」時がありました。家ではしょっちゅうごろごろしていました。この時、家で「自分探し」をしているとは到底思えませんでした。

棕櫚亭のボーダーラインとしての機能

以前に棕櫚亭との出会いについて書きましたが、棕櫚亭がなかった時は自分と病院そしてその後ろの社会との境目はなかったような気がします。棕櫚亭をボーダーラインと考えたのは、そこに線をひいてくれるラインとしての役割があるような気がしたからです。
そのラインは自由に動き移動してくれます。社会をそして自分を観るとき、ラインを上下して、自分と社会を俯瞰的(ふかんてき)にみることができます。棕櫚亭はもちろん社会的集団ですが、そこに属することで社会や自分を再考できます。
その意味で私も自分探しの途上かもしれません。

何をもって幸せというのだろう?

荒木さんが死にゆく最後の瞬間幸せと思うことを目標に生きている、という荘厳なテーマをもって暮らしているのを知って感銘を受けました。
私は死ぬ瞬間笑って死にたいと思っています。
そろそろ交わしてきた手紙も佳境にはいろうとしていますが、荒木さんは好きか嫌いかその際で悩み進み動くことが大事と言っています。このあたりにボーダーラインの秘密が隠されていると、思いました。

ボーダーラインの本質

今仕事をしている上司に「物事を決めがちな傾向にある。」と言われたことがあります。先の書簡で荒木さんは好きか嫌いかにもラインをひけない。ひこうとしない。
それに関して私はそのラインにこだわりどっちかの側にいようとする。
性格的にラインを引くことをしてしまいますが、実は世の中のことはラインが引けないことのほうが多いことを荒木さんは言っているような気持ちがしました。
「自分探し」についても、時間が無駄かそうではないかではなく、そこで悩むことに意義があると言っています。私はこのことからボーダーラインはそこにありきではなく、うっすらとあるような感じかなと思います。病気になってしまうのはラインを濃く引きすぎた為、中間あたりにいられなくなってしまうからではないかと思いました。
そしてこの状態はストレスだなと感じました。
でもボーダーラインが引けない世界に生きている人にとってはより苦悩もあることも知ってほしいです。そのあいまいな世界で生き方を見失ったり、回りから拒否されたこと、妄想の世界に入ってしまう人もいるかもしれません。
ある人の人生が人類の歴史からみれば、点かもしれません。人生は短いことを考えると密度の濃い時間を送りたいと思います。「ぎゅーっ」と凝縮された時を過ごす。それは私の望むところです。

荒木さんが言われる一度しかない人生だから、いろいろな人生であっていいし、自分が選んだことを大切にしていきたいと思いました。時間を考える時人生はつねに動いているし、荒木さんの書簡での「ムーブ」(動く)ことは大切なことなのですね。

当事者スタッフと健康なスタッフのボーダー、当事者と健常者のボーダー、病気の人そうでない人。それらを探りながら、次回の返信を待ちたいと思います。

草々

櫻井 博

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

  • 《最終回》 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
    Part ⑯ “半年の往復書簡を振り返って 対談編”
    👉
    2018年5月23日(水)公開予定

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

地域貢献 「おいしい時間」への夕食配達 ~ 「おいしい時間」の可能性を実感! ~

ピアス 2018/04/05

 

棕櫚亭が始まって以来大事にしてきた「食」、今でも棕櫚亭Ⅰの昼食つくりやピアスの弁当配達部門、そして国立市の高齢者配食事業への夕食配達へと引き継がれています。そして、その「食」を通じた新たな地域貢献を始めてからもうすぐ2年が経とうとしています。

市内の児童民生委員さん達の思いから始まった「おいしい時間」という名の食堂への夕食配達は、3月で18回目を数えました。食数も20から40食に増え、第1水曜日の夕方にお届けしています。毎回実施後に振り返りをし、次回に生かすという丁寧なやり方を続け、今ではピアスの利用者が準備のお手伝いにも行かせていただくようになっています。

昨日食事をしている時間帯にお邪魔して驚いたのが、私達が小さい頃に(昭和です)まだ近所のあちこちにあった風景が再現されていたことです。どこまでが家族か分からないくらい色々な人々が交りながら食事をし、おしゃべりしながら手を振って別れていく・・・福祉の中でも高齢者、こども、障害者等、連携や枠を超えた仕組みつくりが模索されていますが、それを実践している一つが「おいしい時間」ではないかと感じました。そのような実践の一部を担わせてもらっていることに嬉しさを感じ、地域の課題解決の光を見たような気がしました。

常務理事 高橋 しのぶ

 

ピアスのお弁当のおかずとご飯をお届けしている「おいしい時間」にお邪魔してきました!場所の名前は「ひらや照らす」とってもステキな古民家です。
子どもたち、親子連れが多く、和気あいあいとお話しながら美味しそうに食べていらっしゃいました。いっぱい人が入っていると感じましたが、今日は少ない方だとおっしゃっていました。入り口では、お母さんが食べているからとスタッフの民生委員さんが赤ちゃんを抱っこしています。かわいいトレイにピアスの食材が美味しそうに盛り付けられていました。帰り際にも帰ることを惜しむように、楽しそうにお母さんとスタッフの方がお話をされていたり、「また来月〜♫」と笑顔で手を振り合っている姿がとても印象的でした。スタッフの方とタッチしたり、じゃれ合ったりする子どもの笑顔がまぶしかったです。

食を通じてたくさんの方のふれあいの場になっていることを感じ、この場に関われていることがとても嬉しさとともに誇らしく、ピアスの利用者さん、スタッフにも知らせたいと思いました。これからも、この関わりを大事にしていきたいです。
今回は長い立ち話になってしまいましたが、今度はぜひ自分も食べながらお話の輪に入っていきたいと思いました。

ピアス 増田静枝

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『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑫ “誰にとっても、選んできた「人生に間違いはない」 -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/03/28

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

誰にとっても、選んできた「人生に間違いはない」

前略
櫻井 博 さま

寒い冬もいつの間にやら消え去り、冬には気にも留めなかった木々に赤やピンクが色づいているのをみて、気持ちまで暖かくなるのを感じます。

さて、この往復書簡も秋に始まり半年がたとうとしています。少し大げさに書かせていただくと、文章を書くということは身を削り取るようなものだとつくづく感じさせられたものです。自身の内面を描く行為は、例えるならば、鉛筆の黒い芯の部分を削っているようなものだという感覚です。私の場合、太い芯があるわけではないので、ゆっくり、そろそろと削らないとポキッと折れてしまうのではないかと思います。まあそういう意味ではこの半年の間にただでさえ細い芯を結構を削ってしまったので、近々この書簡の幕引きを考えたいと思っています。芯の太い櫻井さんには、誘っておいて申し訳ないのですが。

さて、櫻井さんの前回のお手紙の最後に「荒木さんは幸せですか?」という世にも恐ろしい質問をいただきました。櫻井さんにはどのように映りますか? 想像ですが、多分私のまわりの方には「荒木さんは幸せだよね」と言ってくれると思います、何となくですが。少し楽観的すぎますか?

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

 

 本心はどこにある?

話は少し脇道に入りますが、私は「富士山」が大好きです。告白すると5回ほど登頂しています。でも富士登山が楽しいと感じたことはこれまであまりありません。7合目あたりからの急登にしても辛いという思いこそすれ、山頂での眺めが「こんなにも素晴らしい」なんて感じたことは正直ありません。いわんや登り切ったという達成感なんて沸いたことがほとんどありません。山頂からの景色に関していうと、ガスっている(くもっている)ことなど2度ほど経験していますし、「ああそうですか、こんな風景なんですね」という程度です。「これぐらいの風景ならほかにもあるよ」とも思います。櫻井さんはこんな言葉聞いたことがありますか?「富士山に2度のぼるバカ」。これは「『一度は経験』と登るのはいいけど、あんなつまらない場所に辛い思いをして二度も行くのは馬鹿だよ」ということらしいです。言いえて妙だと私は思います。

それでは「いったい富士山の何が好きなの?」と問われると、即答で「富士山のある風景が大好きです」と答えます。「私は日本人だ」という意識の欠如は、オリンピックやWBCといったイベントに全く興味がないことからも明らかなのです。

しかし富士山のあの端正な山容を望むどんな景色も素晴らしいと感じます。なけなしのお小遣いで一眼レフのカメラを購入した動機の一つにもなっているほどです。

繰り返しになりますが、登る富士山は好きではないけれども、観る富士山は大好きなのです。

と、ここまで書いたときに私を知る人からは「『辛いし、景色も良くないし、臭いし』なんてこと言っても、5回も登っているのだから登るのも好きなんでしょ」と突っ込まれます。このようなツッコミを受けて思考停止する私は、実は「富士山に登るのも好き」なのかもしれません。案外、他者の目でみて感じた「あなたって実はこうだよね」と言われてしまう評価の方がその人の本心や本質(あるいはその一部)を正確に言い当てているのかもしれませんね。

 主観と客観の際で自分を探す

そういう意味では、食べ物の嗜好などは別にして、「好き」と「嫌い」などという感情は案外表裏一体なのかもしれません。前回の手紙で櫻井さんから「荒木さんは幸福ですか?」という問いかけをしていただいたわけですが、その答えは「私はなかなか実感しにくいのだけれども、(他者からそう見えている以上)実は今、幸せといえる」のかもしれませんね。

但しこの回答では、櫻井さんの問いを少しはぐらかせたようなところもあるかもしれないので、真面目に補足しておくと、「死を迎えた瞬間に『私の人生は幸せだった』と感じること」が私の生きる上での一つの目標なのですよ。言うは易しですが…

このように自分の事ながら、正解を持ち合わせていないことや明確に理解していないことは往々にしてあると思います。例えば何かに対して「いったい私は好きなのか?嫌いなのか?」という迷いに始まり、「一体自分は何を考えているのだろう」、そして「私はどのように生きていけばよいのだろう」ということにまで思いを巡らすことを「自分探し」というようですが、これはある時期、濃厚に必要だと感じています。せっかくこの世に生を受け、たった一度の人生を通じて「自分」のことを深く理解したいと思う気持ちは誰もがあるべきだと思います。勿論、障がいの有無に関わらずです。

 でも、一度きりの人生だから走り出してみる

とはいえ、少しだけ年齢を重ねた今、私から言えることは「自分探し」は頭の片隅に置きながら、ともかくも考えたことを身体化することも大切なことなのではないかと思います。先ほどの話で言うと「好き」か「嫌いか」というような解かりやすい感情でさえも、深く考えれば考えるほど曖昧になっていきますし、そこには絶対というものはないと考えるからです。今勤務しているピアスでは、メンバーさん(利用者)が就職準備訓練のなかで自己と向き合い、理解し、葛藤しながら行きつ戻りつ受け入れようとする姿勢、歯を食いしばって通ってくる姿勢には感銘を受けることしばしばです。

私も頭でっかちになってしまうところがありますが、「ムーブ!(動こう!)、ムーブ!」と自分を鼓舞して、迷いを片隅において動き始めるようにしています。外国映画の観すぎでしょうか(笑)

こんなことを書いていると、「今年も富士山に行きたいなぁ」なんて考え始めました。6度登る馬鹿も突き抜けていて面白いかもしれません、一度きりの人生ですからね。

そう「一度きりの人生だから…」という言葉は、私の中では字づらだけではない重みのあるものになっています。櫻井さんにとってもそうだと思いますが、いかがでしょうか?

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

  • 《最終回》 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
    Part ⑯ “半年の往復書簡を振り返って 対談編”
    👉
    2018年5月23日(水)公開予定

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑪ “就労 クローズ就労での経験 オープン就労がなかった時代 -櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/03/14

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

就労 クローズ就労での経験 オープン就労がなかった時代

前略
荒木 浩 さま

今から20~30年前は、病気のことは話さないで就労するのが当たり前でオープン(自分の障害を話して就労する)クローズ(自分の障害のことを話さず人事面接を受け就労する)という考え方もはっきりなかった時代がありました。今ほど病気の理解もすすんでいない時代でした。

就職の面接に行っても「性格はちょっと内向的で、人間関係とか気にするタイプ」とか自分を表現して乗り切っていました。

企業のほうにも働く側にもある意味、病気が一過性と考えられていた時代でもありました。

いまでは考えられないことですが、学生時代の就活は病院から外出届をだして、面接に行き病院に帰ってくることもありました。病院からスーツで会社面接に行って病院に帰ってくると、「よ、会社員」などと患者さんにからかわれることもありました。

 

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

病気になったから幸せになれた

病気をしたから得た人間関係、そして自分の悪い性格もすこしは丸くなったかと思いがあります。

病気と真剣に向き合えた棕櫚亭のメンバーとしてこの施設に参加していた何年間で考え方も価値観も変わりました。

ちいさな幸せで十分満足でき、それを他の人と分かちあえる。これはおそらく病気にならなければ体験できなかったと思います。

受験期の自分の価値観は社会的名誉とかお金持ちになりたいとか、そんな考えにあふれていた感じでした。その一方でそうじゃない、もっと違う何かがあると感じていたこともありました。その何かが病気になってわかったような気がします。お金には変えられないもの、それも病気を通じて知りあった仲間が教えてくれたようです。

それも棕櫚亭という施設に出会えたからです。病気になって幸せになれたと考えられたのも多くの同じ病気をもって生活する仲間を知ったからです。

それまでの過程をすこし話したいと思います。

辛いを乗り越えた先

荒木さんが手紙で言われた「生き抜く」というのも、私も病院の中で痛感していました。

先に就労のことを書きましたが、クローズで就職している意識はあまりありませんでしたが、(あまり病識がなかった)患者さんがいなくなっていく(ほとんどが自死)時、死ぬのもいやだが、生き続けることももっと大変でした。病院で死ぬと思っていた19歳の自分は30代にはいなくなっていました。荒木さんが辛いことを乗り越えて成長していったのと同じように辛いことは私も多かったです。

 

問題は仕事ができない

就職の面接に受かっても、現場は細かい指示もあったり、基礎的なパソコンの知識、体力を求められたりして、よく怒られていました。

例えば今日残業になりそうな時、上司と一緒に夜の9時まで仕事をして、翌日は全員が8時出勤とかもありました。自分が精神的な病をよく知らなかったぶん、休みたくても自分の状態を説明できないことが多かったです。「なんでスピードが遅いのか」という指摘が多く悩んで愚痴を言っていることもありました。病院から企業訪問していたので、昼間も眠くてしょうがなかったです。今なら病気を休息期、回復期とか考えられますが、その当時は人並みに仕事をして、現場で鍛えられた感じでした。上司の命令は絶対で、もしかしたら今で言うブラック企業だったかもしれません。仕事をして給料はもらっていたので生活にはあまり困らなかったですが、その分お酒や食事にお金を使っていました。

お酒は仕事が終わると3日に1回ぐらいは同僚、上司と飲みに行っていましたし、夕食は外食でした。

将来への望みもなく、毎日くる日もくる日も過ごしていました。

一人暮らしでしたので、気楽でしたが、今人に支えられているなかで感じられる幸せ感はなかったです。

会社を休みたくても、休めず、「とにかく出社してこい」と言われ、働き続けたという感じがします。

仕事を通じて、皆会社では仮面をかぶって演じていて、会社という舞台で踊っているような感じでした。仕事上、注意され叱責されるのも、長時間働くのも、今でいう「仕事だから」という意識が会社側には強かったです。

自分も生活の為に働いているというわりきりがありました。

「石の上にも3年」というように、長くいれば仕事に慣れてはきましたが、自分の望むような仕事はできなかったし、常に回りを気にしていました。お金は稼いでも幸せはお金を使った時だけでした。

10代で病気になり、気は弱くなっていた自分が社会参加している意識はあまりなかったです。

 

幸せ感再び

そんな中、棕櫚亭との出会いは鮮烈でした。

サラリーマンとして会社に行った帰りにふと目にした棕櫚亭という文字に触れ(その頃の棕櫚亭第一作業所)、施設長に話しを聞いてもらったのが始まりでした。施設長は自分のいうことを否定せず、黙って聞いてくれました。

後に会社を退職し、棕櫚亭に通い始めます。そこに通うことで

よく人が言う「人間関係で鎧も刀で武装しなくていい関係」に気が付き自分もその中で過ごせる幸せを感じられるようになりました。

人間関係の距離の取り方というのも、あまり実感としてもっていませんでした。

棕櫚亭での勉強会で、講師の立川社協で働いている比留間さんが、「人間関係の距離の取り方は、縮めすぎて痛い目にあったことがない人でなければ、わかりません。その経験があってはじめて距離の取り方を知る」と、言われたのが印象に残っています。人間関係で悩んでいたのは距離が近すぎてどろどろになっていたんだと、過去の記憶が思いだされました。

性格を変え、会社を変え、幸せ感を感じるまで、ずいぶん回り道をしましたが、悔いてはいないです。それがあったから今幸せと思えるからです。

荒木さんは幸せってどんな時に感じますか?

 

草々

櫻井 博

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

  • 《最終回》 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
    Part ⑯ “半年の往復書簡を振り返って 対談編”
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    2018年5月23日(水)公開予定

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ❿ “生き抜いてこそ~「辛さ」と「幸せ」の境界 -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/02/28

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

生き抜いてこそ~「辛さ」と「幸せ」の境界

前略
櫻井 博 さま

風が吹くと身がすくむほど寒いと感じます。それでも気のせいか昼の日差しはほの暖かくなってきているので、わずかながら東京は春に向かっているのだなぁと思う今日この頃です。ただ全国的に今年は厳しい冬のようで、特に福井県などは今もヒドイ積雪状態で農作物などがかなりの打撃を受けているとの報道があります。「寒い冬でも、いつかやがて春に向かう」という「自然の摂理」を私は東京にいて体感していますが、一方で福井県の話を例にとるまでもなく「自然の驚異」を意識することが多くなってきました。

「自然の驚異」といえば、それをテーマとしてとり扱った「ジオ・ストーム」という映画を最近観ました。ザ・ハリウッドという作品なので好き嫌いはあるかと思いますが、「アルマゲドン」なんかが類似作品だと思います。この作品は、近未来世界の設定で、人類が国を超えて力を合わせ地球に起こる異常気象のコントロールに乗りだしたことから話は始まります。宇宙ステーションでその後の気象をうまくコントロールしていましたが、やがてウイルスでステーションが故障し、再び各地で大寒波・熱波・竜巻などの大きな問題が起こってしまいます。主人公がこの大問題の解決に乗り出す話なのですが、サスペンス的な要素もあり、すごく面白くて3回も映画館で観てしまいました。天候をコントロールする未来を想像すると、人類が神の領域に入っているような気がしますね。話の落ちにはやや不満が残りましたが、気象問題に関わらず、いくつかの意味深い問題提起をしている良作だと思いましたので、機会があれば櫻井さんにもぜひ観てほしいです。

あぁ、すみません、話が横道にそれてしまいましたが、まずはお礼を言わねばいけませんね。病気と青春時代を絡めて書いていただいた、櫻井さんの前回の手紙を読ませていただきました。受験を控えた前日に統合失調症を発症してしまったのは、高校時代のすごし方にあったのではないか?しかし、今この歳になって振り返ってみると、病気に罹ったのは「不幸でもあり幸せでもある」と締めている。ただでさえ生き辛い今の格差社会の中で、なんとも櫻井さんは「幸福感を得ていらっしゃる」とのこと。

 

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

 

多くの別れと自身の揺らぎ

「病気になったことが、幸福につながっている」という逆説的なこの一文は、スルーできないところですよね。櫻井さんの辛い10代後半が幸せの50歳につながっているのは、間の30年以上が激動の転換期だったということでしょうか?確かに、私も48歳になったということは、人生の半分以上を東京の地で生活し、仕事に費やしてきたということです。いろんな経験などがあったにも関わらず、それでも人生観や価値観においては10代の呪縛がなかなか解けないでいるのが正直なところです。これは何度かこの手紙のやり取りでも触れたとおりです。それだけに青春期の過ごし方が、その後の自分を大きく左右することは、個人的な考えとして間違いがないと思います。

ただ一方、ある程度自分自身の人生観、価値観、自我が重要な青春期に固まったとしても、私のような対人援助職を続けているとそこが揺るがされてしまうことがあります(いや、この仕事に限らないのかもしれませんが)。得てして、このことは頭を抱え込むような大きな悩みにもなりますが、上手く乗り越えると自己の再構築にも繋がります。言葉でさらっと語れるほどに楽なプロセスではないのですが、客観的に語るとしたら、20代・30代のこの時期に仕事を通じて精神的な辛さに直面することで自分をみつめ直し、そしてそこを乗り越えていくことで他者を知る(理解する)というようなイメージです。この時期は大切だったと今なら思えます。揺るぎは大小さまざまな場面やきっかけで生まれるのですが、私が何よりも辛いものを挙げるとしたら、メンバー(利用者)の死や彼らとの別れに直面したときでしょうか。事故など思いもよらない突然の「不自然な」お別れは本当に辛いものです。

 

連絡が取れず、自宅をお伺いすると食べ物を詰まらせて亡くなっていた方。この方は病院から退院するときに親御さんと話し合いをして一人暮らしを勧めました。私が20代の若造の頃のことです。ご両親も他界されていて、身内とも連絡が取れずひっそりと関係者数名で火葬されました。

 

別の40代の方は母親と二人暮らしでしたが、母親が突然病死され、親類に引き取られるように東北のとある町へと旅立っていきました。何とか東京で生活できないものかとぎりぎりまで思案したものの上手くいきませんでした。10数年後、東日本大震災でかの町は津波に飲み込まれ壊滅しました。

e.t.c…..

生き抜いてこその幸せ感

いったい彼らは幸せだったのか?自分の支援は間違っていなかったのか?彼らのことを思い出すにつけ、いろんな感情で頭の中がかき乱されます。こんな時思い起こすのは、かつて前理事長が就職したメンバーに向かって「生き抜くのよ」と笑いながら送り出していたことです。戦後の高度成長期に生まれた私にはあまりにも過激に聞こえましたが、今となっては彼女の言わんとすることはわかります。

「人が生れるということを選べないように、死ぬということも選べない。だから何としても生きていくしかない」というのが、この仕事に就いて行き当った、現時点での生死に関する私の結論です。「どんなに良い支援をしていても、その方が不本意に死んでしまったり、又は死に近づけさせたりしてはいけない」という支援の根幹の考えは、多くの別れの中で体感し確立したと言えますし、私の頭の片隅には必ずあります。実は冒頭で触れた「気象コントロール」も人為の入り込む余地のない「不自然な」振る舞いだと考えています。人それぞれで良いとは思いますが、「不自然であること」の尺度はもっておいた方が良いのではないかと思います。今の私の危機感は、社会が全体主義に飲み込まれるなかで「不自然であること」に対する私達のアンテナの感度が悪くなっていることなのです。

すみません。話が飛躍しましたね。話を戻して、少なくとも「生死に関する」このような考えは若い頃には希薄だったように思います。決して軽んじていたわけではないのですが、どこかで「人生は太く短く」みたいに考えているところがありました。しかし年月の積み重ねの中で考え方が真逆に変化したようです。桜井さんは辛くも、生き抜いてきたからこそ幸せにつながったのではないかと思います。

 

つらつらと手紙が長くなって申し訳ありません。櫻井さんは、青春期以降いろんな体験と長い時間を経て幸せを感じるまでになったと書かれていましたが、どのようなエピソードの中で変化していったのでしょうか?お話していただけますか?

それにしても「辛い」と「幸せ」というのは、漢字が似ていて紙一重なのが良くわかりますね。

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

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『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ❾ “思春期を振り返る -櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/02/14

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

思春期を振り返る

偏差値教育におけるゆがみ

前略
荒木 浩 さま

前回、自我と他我に関して触れました。私は自我と他我の考え方をここで話そうと思いはありません。
ただ自分が物心ついた頃、集団にはいるのが怖かったことで、避けて逃げていたことがありました。そのことで社会性みたいなものの形成が遅れ、自分を追い込み、その結果病気になったのかもしれないとの思いがあります。自分の殻に閉じこもり、気の合う人と話し遊び群れるという考え方です。
その当時(1980年代)も大学生が大人の社会性についていけず、悩みひきこもる人もいました。私の場合
「自分が大人の社会になじめない」そのような苦手意識はありました。今考えると「なんでだろう」と、疑問に思います。自分が社会を見ようとしないで、見ないですぎた分、あとにつけはまわってきました。
荒木さんは自我と他我についてエピソードは忘れたと言っていますが、わかった時があったのですね。自分と他人を違うとういう認識が確固としてあったということですね。
その認識も荒木さんが社会になじんでいたからだと思います。

荒木さんに前回、自我と他我について説明していただいたことありがたく思っています。前回は性格と病気に関して私なりの考えを書きましたが、「アイデンティティの確立は今受けしない」と、荒木さんは書かれていて、その根拠がインターネットの出現だと言われると「なるほどなあ」と、納得するも、隔世の感に似たものがあります。

私の高校生活はサッカー部の練習に多くの時間を割いたと思います。進学校な為か部活は盛んではありませんでした。一回目の書簡で荒木さんが触れた、偏差値も私の年代(1970年代後半)も重要視されていました。私が現役で大学を受けた年が共通一次試験元年でした。私はクラブ活動に身を入れるいっぽうで、なにか自分の確立した考えを確立したいと思いました。勉強はできるほうではなかったですが、そのころ読んだ、前回お話しした、坂口安吾の「堕落論」にひかれ、勉強からドロップアウトしました。自宅学習が必要な理数系はほとんど勉強しなかったです。

大学進学があたりまえの高校で、すこしでも偏差値のいい大学を目指す校風には当時馴染めなかったです。
大学浪人時代、「偏差値を上げるのは皆ができない問題に正解することだ。」と思い、そのへんの技術的なことに一生懸命になったことは、ゆがんでいるとおもいました。基本的なものを飛び越した感じはありました。(基本的な知識はおざなりにし、応用的知識の習得訓練)

浪人時代の一年(多分一生で一番勉強した一年)は自分にとっても、精神的にも肉体的にも追い込まれた一年ではなかったかと思います

自然気胸を発症したのもこの一年の冬でした。そして受験を控えた当日、統合失調症にかかりました。
このおいこまれた経験は、自分の性格ではなく、自分がつくりだした世界にも起因するのではないかと思うこともあります。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

小さいころ病気の兆候はあったか?

小学生の頃、落ち着かず人にちょっかいをだして、いじめられた経験から発達系の障害もあったのかなと思うこともありましたが、少なくても幻聴、妄想がなかった日々があったのですから、やはり病気になったのは高校生活の過ごし方が大きく影響したのではないかと思います。
やるせない気持ち、不安な気持ちを内包しながら、罹るべくして罹った病気ではなかったかと思うこともあります。

病気になっても幸せ感を得られた

自分の偏差値で、せーいっぱい背伸びして入学した高校で劣等感をもちながら過ごしたことも、自分が歩んできたことには変わりません。今回この往復書簡を書くにあたって思い起こした高校生活も綺麗ごとばかりではなかったかと思います。
ついつい自分の過去は脚色しがちです。
でもこの10代最後の年に病気に罹ったことは、「不幸でもあり幸せでもあるかな」と最近思えるようになりました。そうでなければ、ズーっと偏差値のより高いところを目指し続け、数字でその人の能力をみて、格差社会における、いわゆる上のほうを、偏差値を上げるのと同じように目指す。そんな生き方だとしたら、いまのような幸福感は得られなかったと思うからです。

草々

櫻井 博

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

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家族講座(第2回)のお知らせ

なびぃ 2018/02/03

なびぃでは、毎年ご家族向けの講座を企画しています。

1月にはお金のことについて講座を開催し、ご好評をいただきましたが、今年の第2回は「笑いヨガ」をやります。「笑いヨガ」は誰にでも簡単にできる笑いの健康体操です。

身体に酸素をたっぷり取り込める笑いの体操で、健康効果を実感してみませんか?

日 時  平成30年3月17日(土) 13:30~15:00

場 所  社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 法人本部ビル2階 (アクセス

講 師  岡井 裕美 氏 (日本笑いヨガ協会)

定 員  30名 定員になり次第、締め切りとさせていただきます

参加費  無料

申込み  お電話にてお申込み下さい

なびぃ:042-571-3103 (火曜日~土曜日 10:00~18:00)

長く楽しく生きるために~天野さんの講演を聴いて~

そのほか 2018/02/01

「長く楽しく生きるために」

SPJで先に行われた勉強会(講師は天野さん:H29年11月11日土曜日)の報告をさせていただきます。

当日は天野さんの講演が1時間強で、そのあと休憩をはさんでグループでの話し合いが行われました。今回勉強会の個人が特定されない範囲で概略と感想を載せたいと思います。

勉強時間は2時間30分ぐらいでした。

参加者は16名で3グループに分かれ、天野さんからは講演のレジュメ、年齢の表、睡眠の資料などが配布されました。

話は「20、30、40代」は「50、60、70代」の気持ちはわからない。なぜ精神障害者は寿命が短いのか、参加者に理由を聞き、どんどんホワイトボードに書いていくことから始まりました。薬、自殺、治療拒否、たばこ、肥満、社会活動の狭さ、運動不足、不規則な生活、生きがいを見いだせなくなる、精神科以外の医療施設で差別を受けるなどがあがりました。

天野さんはデーターを示しながら精神障害者の自殺率は約10%、全体の率よりずっと多い、また精神障害者の人の心筋梗塞、脳梗塞にかかる率は普通の人の2~3倍という話がありました。

年齢の表を使って親族等(父、母、同居人)の年齢の比較をしました。自分が今30才で20年後は50才だが父は76才とかが一目瞭然にわかり、天野さんからこれからは自分だけの年齢だけではなく、親との年齢をセットにして考えてみるべきで、その頃には「介護問題」もでてくる。と、結びました。いつまでもお世話になっていられなく、同居していてもごはんを作れるようなスキルを身につけるべきだともおつしゃってました。

元気に生きるための要素

収入と支出としてどういうものがあるか?「支出」つまり「衣・食・住」を「だれが行なっているか」を把握することが大事であり、食事、運動、社会性についてどんなことが大切かについて話しがありました。休憩時間をはさんでこれをグループに分かれて話しました。

食事に関しては親との関係性、特に社会性のところで天野さんのコメントで、会社でのつながりはつくりやすい(ラク・簡単)しかし退職すると、それは途切れることが多いため、その後のことを考えて、別のつながりも考えたほうが良いとの示唆もありました。趣味は体を動かす趣味であれば運動と社会性の両方を養えると指摘もありました。

 講演を聞いての感想(抜粋)

(A氏):講演を聞いて寿命を伸ばすことは健全な生活をすることで、より深く知る努力をしないといけないと、思いました。親の介護も自分の力でできるか不安です。今日の話のなかで「料理を作る」と大きく考えるのではなく、「何か作って、それに『乗せる、加える、足す』という考え方で良いというのは、目からうろこで、これならできそうだと思えるものでした。日曜日などに暇のある時は是非チャレンジしてみたいと思います。私は料理はやってみると楽しいものだと思います。ここにきているような、働いている精神障害者が元気なことが、全体の精神障害者のレベルがあがることにつながる。というまとめで力をもらえました。

(B氏):料理の話を聞いていてお金と時間をどういう配分で、効率よく使うか。料理を今のうちに覚えておかないと、お金と時間の使い方が悪くなり、結局、レトルトなど時間はかからないが比較的高価な食品を買うことになり、食費がかかる、というパターンにおちいりかねないということがわかった。食べ方や食べ物でもよい効果があるというのは、意外だった。早く食べるのが習慣化している場合は気を付けたい。交友関係もどうにかしないと、社会生活がせばまってくると感じた。今日の話しを聞いて月1で、料理の勉強を母親に教わり、あとの自由時間を部屋の片づけに回したいと思っている。天野さんのお話は、前置きで「シビアな話をする」とおっしゃっていたが、すごく的を射ている話だった。これからの自分自身のために、何を今すべきか、立ち止まって考えるべきだと思った。

 

感想はいいことがたくさん書いてあってここに紹介するのは一部なのが残念です。天野さんには、「年度の変わり目に又講演していただける機会があるといいな」と個人的には思っています。

SPJは機会あるごとに天野前理事長に相談させていただいています。

(SPJ事務局:櫻井 博)

※SPJ(棕櫚亭のS、PEERのP、事務局のJの略 棕櫚亭で働いている人の当事者グループ 現在事務局6名で運営)

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