特集/連載 Part ❾『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “始まりはボランティア”

法人本部 2019/02/08

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

始まりはボランティア

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
地域活動支援センターなびぃ 職員 工藤 由美子
(精神保健福祉士)

出会い

あれは1990年ごろ、20年近く勤めた教師の仕事を辞め、立川に引っ越してきた私は、主婦の仕事と週2日ほどのアルバイトではなんとなく物足りなくなり、何かボランティアでもしてみようかと、立川市役所の一角にあった(当時)社会福祉協議会の事務所に行ってみました。そこで、担当の職員さんから、家から徒歩10分ぐらいで行ける棕櫚亭Ⅱ(だいに)を紹介していただきました。

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その頃、Ⅱは開所して間もない時で、高松町のマンションを借りて、所長の寺田さんと若い男性スタッフの天野豊さん(いずれも当時)がいました。個性豊かな利用者の皆さんが代わる代わるやってきて、奥の一室は「タバコ部屋」と呼ばれ、いつも紫煙がもうもうだったことを覚えています。

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 地域活動支援センターなびぃ 工藤 由美子

地域活動支援センターなびぃ | 工藤 由美子

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私は、毎週金曜日の午前中に伺って、利用者さんと昼食作りをさせてもらいました。一緒に買い物に行ったり調理をしたり、さりげないおしゃべりをしたり。出来上がった昼食を一緒に頂いて、だんだん名前も憶えて、自然にみなさんと打ち解けていったような気がします。当時の私は、精神の病いのことはほとんど知識がなかったので、利用者さん一人一人の事情や大変さには思い至らず、少しでも役に立ってもらえれば嬉しいなぁぐらいの気持ちだったと思います。さらに、年1回の旅行に誘ってもらったり、忘年会にお邪魔したり、皆さんから思いがけない贈り物をいただいて、胸が熱くなったことなど、いまも忘れられません。

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また、その頃、多摩総合精神保健福祉センター主催のボランティア向けの講座があり、そこに参加することで、ほんの少しずつですが、精神の病気のことや作業所のことを知っていきました。その中で印象に残っているのは、国分寺の「はらからの家」の福祉ホームを見学したことです。その後の火災によって全焼してしまいましたが、1970年代、私が上京して初めて入居したアパートと同じく、真ん中に廊下のある古い木造の建物でした。古さのためだけではない、何とも言えない寂寥(せきりょう)感があったのは、なぜだったのでしょう。

棕櫚亭の食という文化

その後、立川に棕櫚亭Ⅲ(だいさん)トゥリニテをオープンするに当たり、調理担当として手伝ってくれないかということで、他のボランティアの方々(4・5人ぐらい)とも会い、なんだかんだと相談の結果、カレーの店にすることになりました。中心になってくれる他のボランティアさんがいたので、私は、水曜日だけ通うことになり2人のボランティアで、店の開店から閉店まで切り盛りしました。
しかし、カレーだけではお客さんが増えない状況が続き、日替わりランチもメニューに入れることになりました。水曜日の担当として、毎週無い知恵を絞って、お客さんの喜んでくれそうなメニューを考えました。大変だったけれど、お客さんが来て完売するとなんとも嬉しかったこと。(初めは、一日十食でしたが)そして今思えば、ボランティアのやりたいようにすべてをまかせ、クレームもつけなかった職員の大らかさというか、懐の深さには敬服するばかりです。
その頃の棕櫚亭は、外の手コンサートや立川競輪場を会場にしての家具祭りなどの大きなイベントが毎年のように行ない、お弁当を作ったり、ビラ配りしたり、豚汁を作ったりとなんだか学園祭のような乗りで参加していました。

スタッフとして働くことになる

そんなこんなで数年ボランティアとして棕櫚亭にかかわった私は、1996年より非常勤スタッフとして棕櫚亭Ⅲに勤務することになりました。当時の施設長だった添田さんが、「精神保健福祉法」や「障害者手帳」の資料を出して、利用者のみなさんと勉強会のようなこともした覚えがあります。
翌年、ピアスの設立とともに転任し、厨房を中心に6年間過ごしました。その中で、私自身の意識も、ボランティアのおばさんとしてではなく、他のスタッフと同じように、支援の専門職としての力を少しでもつけていかなければと変化していきました。折しも「精神保健福祉士」資格が国家資格となり、試験に挑戦しました。50代の私にとっては、なかなか厳しいものでしたが、これまで福祉についての勉強を系統だってしたことのない私にとって、福祉全体のことが見渡せる、とてもよい機会だったと思います。

作業所の危機

その後自立支援法が成立し、棕櫚亭もその対応にあわただしい時を迎えます。私自身は病気で1年間休職しましたが、2008年の棕櫚亭Ⅰの谷保への引っ越しにかかわりました。
それに先立つ、引っ越し前の夏のある日の光景は、忘れることができません。それは、棕櫚亭Ⅰが、「地域活動支援センター」への移行を申請するに当たり、国立市の中には「棕櫚亭には、すでになびぃが地域活動支援センターとして存在するのだから、棕櫚亭Ⅰはなびぃと一緒にすればいい」という意見がある。Ⅰを独立したものにするには、利用者の思いを直接市長に訴えたほうがいいという市の担当者の計らいで、当時の国立市長と棕櫚亭側からは小林(現理事長)、工藤の両名と、利用者数名で懇談しました。市長の心を動かしたのは、職員の説明より、「安心していられる」「行く場所があって、みんなと会えるのが嬉しい」「生活にリズムができた」「料理ができるようになった」等等…… 自分の言葉で切実にあるいは淡々と語る利用者の姿だったと思います。
其のおかげもあって、翌年棕櫚亭Ⅰは「地域活動支援センターⅡ型」、なびぃは「地域活動支援センターⅠ型」と国立市から認められ、現在に至っています。この利用者の力は、引っ越し作業でも発揮され、寒くなり始めた12月、無事新しくなった現在の谷保の場所へ移ることができました。

30年近い関わりの中で今思う事

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 地域活動支援センターなびぃ 工藤 由美子
それから10年近く、たよりない施設長だった私は、いつもいつも利用者のみんなに助けられてきたような気がします。様々な問題や課題はいつもありましたが、其の都度、利用者に問いかけ、相談し歩んできました。ぶつかることはあっても、お互いの信頼さえあればなんとかなる。棕櫚亭Ⅰで力をつけた利用者・職員が、次に来た利用者のために、あるいは新しい職場でその力を発揮し伝えていけたら、こんな素晴らしいことはありません。

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そして私事になりますが、常勤職員としての定年を迎え、昨年の4月より週2日なびぃで非常勤職員として勤務しています。私でいいのかなと思いつつ、60代・70代の利用者も増えている今、行く場所・自分を必要としてくれる場所があることは、障害の有無に関わらず、とても大切なことだと痛感しています。高齢化が増々進む中、作業所の良さをもう一度生かしていくことは、棕櫚亭にとって外せない柱だとおもうのですが。

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最後に、ボランティアから出発した私が、なぜこんなに長く棕櫚亭にかかわることになったか。
それは、「私が私でいられる場所だったから」

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

「私が私でいられる場所だったから」という言葉は棕櫚亭に関わる多くの人が共通に持つ思いだと感じます。
「はらからの家」は私にとっても懐かしい思い出があります。病院から退院した当時、「はらからの家」の前にドラム缶で家庭用油から石鹸などを作っていました。「はらからの家」の伊澤さんが大学出たばっかりの頃だったので、何十年前か推し量ってしるべしです。
工藤さんの文中にある2008年の引っ越しと市長への請願も経験しました。まさにその頃は棕櫚亭Ⅰのメンバーとしてライブで工藤さんと過ごしました。
工藤さんが現在なびぃで多くの電話相談者の声を聴いて的確なアドバイスができることも棕櫚亭で培った人間力のようにも感じられます。
「私が私でいられる場所」は工藤さん自身が築きあげたものですが、翻って考えるとメンバーさんにとってそこは心地よい場所なのです。

あたたかい日のあたるその場所は次世代に確実に受け継がれていると思います。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❸『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “そこにあるすべてをメンバーとともに”

法人本部 2018/09/28

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

そこにあるすべてをメンバーとともに

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
地域活動支援センターなびぃ 施設長 伊藤 祐子

〈棕櫚亭〉との出会いの風景。

季節は秋。昭和記念公園の原っぱは、よく晴れて風が吹いています。当時、地域福祉の仕事をしていたわたしは、そこで開催されているイベントの担当者としてテントを見回りながら、ゴミを拾い発電機を点検し団体に声をかけるなどの、雑多な仕事に追われていました。
その一角に棕櫚亭がテントを出していました。他よりずいぶんのんびり準備していて、開店が遅くなった団体です。売り物はポップコーンとビールだったと思います。開店してからは順調にお客さんが訪れているようで、手作りの看板の下から頭にバンダナを巻いた何人もが顔を出し、テントを訪れるお客さんにガヤガヤと対応しています。テントの脇で看板を手にした人の「ポップコーンいかがですかぁ」の声がのどかに響いています。
そのテントの後ろ側にまわったときです。あたたかい日が射す草の上に大きなブルーシートが敷かれ、そこにいろんな人たちが腰をおろしています。紙コップを片手に輪になってのんびりおしゃべりする人たち、かたやぼんやり黙って静かな人たち、横になって目を閉じている人、そして中にはギターを弾いて歌っている人までいます。おもいおもいに過ごす人たちと、せつないような楽しいような聞いたことのないメロディーが漂うその光景が、なんともふわふわと非日常で、でもどこか日常の延長のような感じもあり、そしてどんな人もそこにいられる「懐の深さ」のようなものを感じたその不思議な眺めを、20年経った今も思い出すことができます。

時は平成17年。障害者自立支援法前夜。

それから数年後、縁あってわたしは多摩棕櫚亭協会に入職し、平成17年に〈棕櫚亭Ⅱ・だいに〉に配属されます。当時「小規模通所授産」と呼んでいたこの事業は、その翌年の平成18年に施行された障害者自立支援法によって行き先の選択を強いられることになるのですが、時はまさにその直前。今回総括する〈共同作業所〉としては最終章の場面ですので、わたしはそれを体感できた最後の世代ということになります。今この文章を読んでくださっている方に、その空気が少しでも伝わればいいなと思いながら書いています。

Ⅱは、立川駅南口の雑多な喧騒を通り過ぎた住宅街にあらわれる、ちょっと古ぼけた紺色のアパートの1階にありました。「懐が深い」というイメージを抱いて棕櫚亭にやってきたわたしですが、実際に中に入ってみると、拠り所である信条とやり方が確かであることが「懐が深い」場を維持しているのだということがわかりました。そこには、「作業所で行うすべてのことをメンバーと共有する」という信条がありました。

作業所のすべてをメンバーとともに。

ある夏の日。車を停めて小さなアパートの前に降り立つと、先月も草むしりをしたはずなのに雑草が元気よく青々と茂っています。誰かが「あー、これは草むしりしないとダメだねー」とつぶやき、「草取りやりたい人ー?」とそれぞれの希望を聞いて分担を決めるうちあわせが始まりました。場所は、立川駅から車で5分ほど走った、細い路地に建つ古いアパートです。黒いエプロンの背中の紐をお互いに結び合って支度を整えた8人は、それぞれの道具を手に、仕事にとりかかります。草取りチームは片手に小さな鎌、片手にコンビニ袋を持ち、アパート周りの隙間にしゃがみ込みます。後ろの手すりでは、拭きチームが雑巾がけを始めています。階段では、ほうきチームが、ガシャンガシャンとちりとりを使って掃き掃除を始めています。「休憩は11:15ごろにねー」「お茶持ってきたー?」という声が聞こえています。

参加が少ないプログラムのかわりに、大いにやっていこうということになった作業は、地元の不動産屋さんからもらったアパート清掃の仕事でした。あちこちに傷のある8人乗りのステップワゴンに乗りこみ(ええ、その傷のうちいくつかはわたしにも身に覚えがあります…)、小さなアパートをみんなで取り囲み、せっせと掃除しました。そこにまつわるすべての事をメンバー・職員みんなで手分けしました。作業はもちろん、道具の準備から後片付け、日誌を書き、請け負っているすべてのアパートに毎月行けるようにミーティングで予定を組み、月末には請求書を作って不動産屋さんに届け、ほうきが壊れればみんなでホームセンターへ買い出しに。雨が続くと予定が進まないと焦り、落ち葉の多い季節はげっそりし、感謝の言葉をもらえばみんなで喜び、苦情がくればみんなでしょんぼりしながら改善策を考えました。暑い日も寒い日も、体調が悪い人は悪い人なりに、元気な人は元気な人なりに。
他の場面でも同様でした。そこにまつわるすべてのことをメンバーから奪わない、というのがここの流儀でした。いいことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも。

シンプルに。すべてをメンバーと。

みんなが自分のこととして考え行動できるように、物事はシンプルでした。例えば、みんなで使う道具や文房具、食器など、Ⅱにあるいろんな物は、どこに何があるかみんなでわかるようにしていて、使いたいと思うときに誰でも使えるようになっていました。「物がどこにあるかわからないと、知らない人の家に来たような気持ちになるもんね」、と誰かが言いました。しくみ、活動内容、時間の流れについても、一人一人が「主」であるように「お客さん」になってしまわないように、シンプルに見えやすくのが、ここのやり方でした。

それぞれの抱えている課題でうまくいかないこともいろいろありました。それもなるべくメンバー同士でお互い考えることを励ましました。体調が悪いメンバーが来所できなくなったときには、メンバーと一緒に自宅に顔を見に行ったこともありました。ソファや部屋の隅で、いろいろな人が個人的な状況を話したり相手の話を聞いたりしていました。わたしも、自分の生活状況や悩みをずいぶん聞いてもらいました。個人情報という言葉が頻回に聞かれる今となっては、懐かしい光景です。

メンバーと職員の関係性もどこか「お互いさま」というムードがありました。若く、未熟な職員は特に「メンバーに育ててもらう」ことが当たり前でした。わたしにできることといえば、安定して出勤しているということくらいだったでしょうか。人生経験も、言葉の含蓄も、まとっている文化も、メンバーの方が一枚も二枚も上でした。未熟なわたしがときに偉そうなことを言っても、うんうんと聞いてくれた年上のメンバーたちの顔がたくさん思い浮かびます。「懐が深い」とわたしが感じた棕櫚亭の魅力は、まさに、歴代のメンバーたちが造ってきたものだったんだということが、今はわかります。

挿画 バベットしもじょう ある風景 ~共同作業所 棕櫚亭を、私たちが総括する。|社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会

共同作業所の風景 画-バベットしもじょう

それぞれの船出 ~変化の波にのって。

明るく元気に美しく。創設者たちが謳ったキーワードどおり、通所メンバーも増え、活発に活動していたⅡにも、変化の波がひたひたと迫ってきていました。懐深く、いろいろな人のいろいろな活動や在りようを受け入れてきたⅡが、法の枠組みの中で何を選択していくのか。悩みに悩んで出した結論は、事業の終了でした。これは、メンバー一人一人の進路について考え、当時の社会資源、法人全体の方針を考えた上で出した苦渋の決断でしたが、棕櫚亭が大切にしてきた「変化をおそれない」という文化にも当てはまることだったと思います。Ⅱらしく、それぞれの在りたいことやりたいことに向き合っていこうという方針が決まり、ちょうどこの頃、お腹に第一子を授かったわたしは、これから変化していくⅡと同じ状況であることに感慨を覚えながら、次の地点への着地まで見守っていく作業が始まりました。

それぞれの進路について考え、決断していく作業はたいへんなものでした。自分がこれから何をしたいか考えて結論を出し、新しい場でチャレンジするということには、いくつものハードルがありましたが、変化へのストレスと不安と闘いながら、それぞれのメンバーがぞれぞれのペースでそれを超えていきました。だんだん暑くなっていく季節でした。いろいろな社会資源を一緒に見学にまわりながら、ご本人にとって何回目かの人生の岐路に立ち会っているんだと、じりじりと照る陽射しを受けながらわたしは実感していました。汗をだらだら流しながら一緒に歩く妊婦の存在は、みんなにとってプレッシャーだったとは思いますが…。

結果的に、わたしが組ませてもらったメンバーはみんな、次のステップを決めて船出しました。それができたということは、やはり、その人自身に力があったんだと思います。そしてさらに言えば、このⅡですべてを分かち合い、ここで起こる物事を「自分のこと」として受け止め行動してきたことが、この決断につながった、ということもあるのかもしれません。悩んで揺れながら、次の一歩を自分の力で決めていく姿を、横でしっかり見させてもらったわたしは、最後まで本当にメンバーに育ててもらいました。
その後まもなくみんなに見送られて産休に入ったわたしは無事出産し、わたし自身の作業所歴はここで幕を閉じます。

育休後復帰したわたしは、今は「なびぃ」に勤務し、メンバーのみんなと向き合う日々は続いています。あのころⅡメンバーに教わったギターを、ときおり「なびぃ」メンバーとたどたどしくつま弾くとき、Ⅱの風景と手触りがわたしの中にふいに色濃く立ち上がります。その文化をきちんと次世代に伝えるという恩返しができたら…、その時こそ本当に「お互いさま」と言えるのかもしれません。車の運転の上達はもうあきらめたけど、あの頃を思い出しながら、もう少しギターの練習がんばってみようかな。

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

伊藤さんの「ある風景」を読みながら、一つのシーンが浮かびました。ゆったりとした時がながれるなかで、メンバーも職員も分け隔てなく笑いあって過ごしている風景です。
その風景が市民祭の場であったり、アパートの掃除であったりです。そこでかわされる言葉の優しさが、メンバーさんの懐の深さが、伊藤さんに大きく影響を与えたとの思いがあります。メンバーさん皆が作業所のどこになにがあるのかを知っている。皆が主役という考え方は大切にしたいと思います。皆それぞれの道に踏み出し船出していった。その後のメンバーさんに会ってみたくなりました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会
挿画: バベットしもじょう

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