特集/連載 Part ⑫『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “未来へのヒント”

法人本部 2019/04/26

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

未来へのヒント

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
常務理事 高橋 しのぶ
(精神保健福祉士)

作業所の原風景

「作業所のある風景」というと、一番目に浮かぶのは棕櫚亭Ⅰ(だいいち)の台所です。私が20代の時に過ごしていたのですから、古い一軒家の頃です。台所の隅にL字型に二つベンチが置いてあり、灰皿を挟んで丸椅子が置いてありました…… そう、灰皿が作業所の一番いいところにあった時代です。昼食作りの合間や昼休み、夕方によくお茶飲みながらみんなでおしゃべりしていました。台所はⅠの中心地と言ってもよく、時として大勢でにぎわう空間であり、そして時には一対一で静かに語り合う穏やかな場でした。

思えば、私が初めて棕櫚亭を訪れたのもⅠでした。その時はまだ学生で、市内の公民館にある喫茶運営に関わっていました。そこで作っているクッキーを保存する瓶を探していたら、「リサイクルショップに見に行ってみたら?」と教えてもらったのです。そのころのⅠには、通り沿いに棕櫚の木がまだ何本も生えていて、まるで映画に出てきそうな一軒家でした。土間のようなところにリサイクルショップ「ぱるむ」があり、共同作業所という言葉すら知らなかった私は、「国立にこういうところがあったんだ!」という驚きとともに、「この小さなコーナーに大きな瓶なんてあるのだろうか?」と思ったのですが、ありました(友人の情報は正しかった)。それにもまして驚いたのは、応対をしてくれた女性が、私が喫茶の当番日にコーヒーを飲みに来てくれたグループのお一人だったことです。その時は、まさか1年後に自分がぱるむの業務で市内を走り回ることになるとは思いませんでした。

生活者になる

大学卒業後、喫茶店運営に夢中なままの私は、アルバイトをしながら別の大学の通信課程になんとなく在籍し、これまたなんとなく友人(山地さんです)に誘われて棕櫚亭のアルバイトを始めました。私が入った時には作業所は三つになっていて、各作業所についていた「明るく元気に美しく」「食えて稼げてくつろげて」「寛いで寛いで寛いだら」というキャッチフレーズをもとに、創設者である4人の職員たちが得意分野を生かして、棕櫚亭や精神障害者を取り巻く歴史、補助金のこと、病気のことについて研修してくれました。

メンバーと一緒に作業をし、専門家ではなく共に地域で暮らす生活者として関わることを棕櫚亭は何より大切にしていました。一方、公民館で社会教育と出会い、様々なところへ研修で連れて行ってもらっていた私は、他の同年代の人よりも社会を知っていると思っていたかもしれません。なんと世間知らずだったことか…… ほどなく自分がそもそも生活者になっていないことに気づきました。だって、自分の生活の土台となることは家族にやってもらっていたのですもの。

昼食作り、公園清掃、雑巾作り、毎日先輩メンバーに教えてもらいました。私は食材の値段もあまり知らなかったので、みんなで出し合った予算で人数分の材料をやりくりすることや料理の仕方から始まって、精神病院のことや薬、生活保護制度のこと等、ほとんどが新しい世界でした。「お母さんに習わなかったの?」「やったことないの?」等々、特に昼食作りでは先輩主婦メンバーが驚きながらもやさしく教えてくれ、料理が上達していく事に喜びを感じていました。

「楽しくて、お互いのため」に棕櫚亭と地域は結びついていた

棕櫚亭は私が入ってほどなく、法人化に向けて動き出しました。社会福祉法人になることがどういうことかを深くわからないまま、私は三回目となるコンサートの担当になりました。

「自分たちが楽しくて、棕櫚亭のためになる」をモットーに集合した運営協力グループ「外野手(そとのて)」と、これまでの2倍近い1,500席余りのホールを使っての“憂歌団”コンサート。法人化のための資金作りも掲げつつ、1年間かけて準備しました。夜の実行委員会では誰を呼ぶのか、どうチケットを売るのかなどを侃々諤々(かんかんがくがく)議論し、終わったあとの飲み会から合流する人達もいて、外野手メンバーの家族が経営していた居酒屋の2階では、これまで出会わなかった地域の人たちとの時間があっという間に過ぎました。そして迎えたコンサート当日、会場の一番後ろから“憂歌団”のメンバーが登場してくるのを見た時には、もう感無量で涙がこぼれました。

とはいえ、ただ一生懸命なだけでしなやかさのなかった私は、周りの方たちにたくさんの迷惑をかけました。結果として目標としていた資金が作れたかどうかは覚えていないのですが(笑)、私にとってこの外野手コンサートから得た経験は格別なものです。

コンサートの棕櫚亭らしかったところは、福祉を前面に出さず、そのアーティストを聞きたいお客さんに来てもらって、さりげなく棕櫚亭のことを知ってもらう、そのようなスタンスであったことだと思います。それは、Ⅰのキャッチフレーズである「明るく 元気に 美しく」にも正に表現されています。「福祉っぽくなく」とも言っていましたが、「作業所を地域の中の特殊な場所にしない」という設立からのモットーが随所に表れていました。

憂歌団(木村さん)とコンサート打ち上げで

憂歌団(木村さん)とコンサート打ち上げで

地域という視点では、楽しそうな事や興味深いテーマに出会ったら身内だけで行わない、地域に広げるというのも棕櫚亭が大事にしていることです。現在のこども食堂や学習支援への夕食配達という、地域貢献活動から繋がった地域の方たちとの協同も、「食」だけにとどまらず、一緒に研修を開催したりするようになってきています。ここにも棕櫚亭を開いた場所にしよう、楽しいことは自分たちだけで独り占めしないという作業所文化が継承されています。

作業所を再度考える

 今後、障害者自立支援法という新しい枠組みの中で、作業所がそのままの形で存続していくことはいよいよ難しくなってきました。この法律がどうかということは別として、これまでの作業所活動のよかった部分、反省すべき部分、両方を振り返るときが来ていると思います。それを踏まえ、今後どのような活動をしていくとしても、これまで大事にしてきた「安心してチャレンジできる」「仲間に出会える」「自信の回復につながる」そして何よりも「元気になる」場所であることを目指してきたいと考えています。

2006.9 はれのちくもり ピアス物語 「作業所の今、そして今後」 より抜粋

これは、棕櫚亭が2006年に出版した『はれのちくもり ピアス物語』に、私が寄せた文章の最後の部分です。この頃作業所はピアス設立後の機能の再構築というテーマに加え、2000年前後から始まった社会福祉の基礎構造改革により、「支援」や「サービス」という言葉が各現場に入ってきていました。また、出版と同年に施行された障害者自立支援法により、現在の施設は5年以内に法に定められたいずれかの事業体に移行しなければいけないことも決まっていました。この大きく精神保健福祉の流れが変わり始めた頃、作業所はその機能の必要性と重要性を確信する一方で、先行きが見えない不安に包まれていたように思います。実際、この頃私がいた立川では、作業所連絡会の話し合いを何回も行って、作業所機能の存続(地域活動支援センター)を行政に求めていました。

時は流れ、自立支援法が総合支援法に変わった現在、東京に200か所以上あった作業所は法律上消滅しています。その多くは個別給付と呼ばれる就労継続支援事業B型に移行しましたが、平均工賃によって収入がかわる報酬の仕組みに存続の危機を感じているところも多いと聞きます。さらに規制緩和という名の下に競争原理が導入され、事業所の役割はますます細分化され隙間を埋めづらくなりました。社会自体も、少子化や高齢化、そして災害が繰り返される中、家族は分断され、その影響は高齢者や障がい者、ひとり親、こどもなど弱い方弱い方へと拡がっています。

そのような中で、共同作業所のような機能を補助金や委託費で展開していくことは、もう現実的ではないかもしれません。しかし、時に混とんとしつつも、作業所には社会を知る上でのすべてがあったことは、私たちに未来へのヒントをくれているような気がします。

生身の人間同士が時にぶつかり合いながらともに過ごすことによって相互理解が生まれる場所であった、その相互理解から生み出される「居場所」という宝物だったと思います。

最後に…… 棕櫚亭Ⅰの台所

  大した事務仕事もなかった入りたての頃、よく夕方にⅠの台所のベンチでメンバーとおしゃべりしていました。ある時、当時私の母と同じ年くらいのメンバーと二人になった時間帯がありました。なんてことない話から、その方は自分のお母様の話をし始めました。その方の若い頃に、お母様が自分の目の前で服毒死されたのだそうです。私は絶句してしまい、何を返したか覚えていません。その方はまるでその時に戻ったかのように、お母様がこころの病で苦しんでいたこと、目の前で薬を飲んで苦しむ姿をどうしようもできなかったことなどを涙ながらに語り、最後に「こんな話をしてごめんなさいね」と涙を拭っていました。私は、それまでその方の何を見ていたのだろうと思いました。作業所でのやりとりだけで、その方に対する印象を勝手に決めつけていた自分をとても恥ずかしく思いました。

この人に話して良かったと思ってもらえるような人になりたい、少なくとも話したことを後悔するような職員にはならないように力をつけようと強く思いました。それが私の人と関わる仕事を続けていく上での原点の一つです。常に自分の姿勢やありようを変えてくれる、それを体感させてくれる時間でした。

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

ある風景も最終回を迎え、高橋さんの台所からの報告は本当に情景が目に浮かぶようです。「生活者になる」のくだりは、そうそうあるあると思わず声をだして読んでいました。私も十代の頃から病気になった為、生活のほとんどを親がやってくれ食材の値段に目がいくようになったのも恥ずかしい話ここ数年のことです。でもそんな「野菜の値段が高くなったですね。」という話題から人は心を開き様々な話題に及ぶのも、長く病気になっていると気づきません。社会に繋がるというのは生活を自分で組み立てる楽しさを経験していく、そんなことを高橋さんの文章は言っているような気がしました。憂歌団の話も楽しいお話です。障害者自立支援法、総合支援法のなかを棕櫚亭がどう泳いでいくか、そんなことを考えながらも大切なことを伝えています。「この人に話してよかったと思えるような人になりたい、少なくても話したことを後悔するような職員にならないように力をつけよう」と。

この原点こそが大切なことだと思いました。

ある風景も今回で最終回です。次回は対談編になります。お楽しみに!

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❿『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “贅沢な時間をすごせた時代 切り取ることができない大切な時間”

法人本部 2019/03/08

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

贅沢な時間をすごせた時代 切り取ることができない大切な時間

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
障害者就業・生活支援センター オープナー 主任 川田 俊也
(精神保健福祉士)

 「どうして精神分野で働くことになったのか」今振り返る

思えば、物心ついた頃から僕の周りには障がいのある方がいて、彼らが地域で暮らしていることが当たり前の生活で育ってきたように思います。聴覚障害者の親戚、脳性まひがある幼馴染、そして同じマンションには気分障害の方がいて、彼らとの関わりの中で、戸惑い、何か自分にできる事はないか? どうしたら彼らの手助けができるのだろうか? などと子供時代を過ごしているうちに、気がつけば大学では心理学を専攻していました。
授業を受け、やがて教授の助手としてカウンセリングに同席し始めると、訪れる人達をみて更にいろんな思いに駆られるようになりました。
例えば、カウンセリングの間、顔色を変えず全く笑顔を見せないAさんは、どのような気持ちで座っているのか考え、気がつくとAさんをじっと見つめている自分に、はっと気がつくのでした。このようなことを繰り返すうちに、まぁ何はともあれ「Aさんの笑ったところをみてみたい! 笑わせたい! なんとかしたい!」と感情がわいてきたのを今でも思い出します。
「もう少し踏み込んで彼らに関わっていきたい」 そんな自分の心境の変化が芽生えるのも時間の問題で「もっと精神障がいのある方とかかわりあえる仕事につきたい」と考えて精神保健福祉士の門を叩きました。今ここにいるのは、このような経緯なのです。

私自身何でも全力投球して目の前のことに没頭してしまう性格でした。いまでこそ主任という立場になり、何か起こってもそれなりに落ち着いて対処することが普通になってきましたが、昔は体育会系ののりでとにかく動いてしまうことが多かったように思います。そんな私がどちらかというと文化系の臭いを纏う(まとう)棕櫚亭と出会ったのは、学生時代に実習したことに始まります。ともかく一生懸命やっている姿が評価されたのか(笑)縁あってその後棕櫚亭で働くことになりました。最初は週一回のスポーツプログラムを担当する非常勤職員として勤務がはじまりました。アルバイトでスポーツインストラクターをしていたのもよかったのかもれません。

メンバーさん達からしてみれば、「こういう職員って嫌だよなぁ」と今なら思っただろうし、「よく棕櫚亭は採用してくれたよなぁ」 と思うときがあります。
そのころ思っていたことは「精神障害者をなんとか普通の生活ができるようにしたい」、「健康にさせたい」という気持ちが強く、思いだすと「思いあがった新人」という感じがして今顔が赤らむ思いがします。もし、自分と同じような新人がきたら「頭でっかちになるな!」と言うと思います、間違いなく(笑)。

自分は精神疾患に対して偏見みたいなものはないと考えていました。しかし、地域で生活している人というよりも、「病者」と感じ接していることがあったことを考えると「偏見がなかった」といえるかは、今となってははなはだ疑問に思うところです。勿論、今はそんな考えが間違っていることは重々わかっています。

この仕事を続ける上で、切り取ることができない大切な時間

連載されている「ある風景」の執筆依頼があって、構想を練っている時に自分には「ある風景」をひとつには絞れないと思いました。考えれば考えるほど、「この日、この場所、この場面」ひとつひとつをとってみても、真剣勝負で濃密な時間を過ごしていました。

ベランダの喫煙所で「おい! 川田! お前は間違ってる」とタバコを吸いながら本気で叱ってくれたUさん、夕方、お茶をしながら「息子のように育てたいのよ」と話してくれたKさん、ソファで相談にのってもらいながら「大丈夫!なんとかなる」と励ましてくれたKさん、市民祭や一泊旅行の実行委員を担当したとき、「一緒にやれてよかった!」と話してくれたYちゃん、送別会を開いてくれたとき、ハグをしてくれたSさん…… 数え上げれば切がないほどのメンバーさん達の顔が浮かびます。

言えることは、僕を育ててくれたのはメンバーさん達の率直な話だということです。もちろん先輩同僚職員のアドバイス等もたくさん受け、感じるところや考えさせられることもたくさんありました。それでもやはり大きいのは、メンバーさんの日々のかかわりでの率直な意見や表情、空気感など関わりの中から得たものです。ちょっと今では考えられないかもしれませんが、毎月あるグループミーティングで、私自身の1ヶ月間の振り返りを「じっくり、たっぷり」してもらっていたことを思い出します(これってものすごい贅沢な時間(笑))。

当時の僕もなかなか頑固で、言われることも多かったのですが、メンバーさん達に対しての感情やああしたい、こうしたい20190308121114ということを率直にぶつけていました。「そこまで言うのか?」というのもあったかもしれません。メンバーさん達からは「いやいや違うだろう!」という押しかえしもたくさんありました。結果的に僕が間違った態度も多く、素直に「ごめんなさい」と謝ることもたくさんありました。この年になっても人に謝るということができることは大切な財産だと思います。

とことん悩む時間をもらい…なんていうと少し格好をつけていて、実際は、そのままこの分野で働くことに自信を失うこともしばしばありました。少し前言を撤回するようですが、「口で言うほど素直なやりとりというのは簡単じゃない」という気持ちも半分はあります。

それでも、社会人ほやほやの僕に対して、社会経験豊富で自分自身と向き合ってきたメンバーさん達だったから、受けて止めてくれていたのかと改めて思えます。

本当に自由に過ごさせてもらっていましたし、この貴重な時間は私のキャリアにとって切り取ることができない貴重な時間だったと思います。

メンバーさんから育てられ、自分の気持ちが変化する

私もなんだかんだで中堅職員として、職員にいろんなことを伝えなければいけない立場になってきました。そんな私が苦手なことの一つは職員を育てることだという自覚があります。だから、すこしこの場で語りたいと思います。私の場合、一つのエピソードが自分を変えたというものはありません。メンバーさんとの日常的な関わりであるユニット活動やお茶を一緒に飲むこと、一泊旅行、スポーツプログラムなどの活動を通して、本当に徐々に考えや気持ちや姿勢が変わったという感じがします。「心境の変化」とは私の場合そのようなものです。
繰り返しになりますが、入職した頃、メンバーさんの「できないところをどうしようか」と思っていました。そしてそれが、自分の仕事だと思っていました。

しかし、メンバーさんと同じ時間を過ごし、共に笑い、メンバーさん同士が助け合っていたり、褒め合い、一生に悩んで

「最近夜、眠りにくいんだよ」と話し始めた時、他のメンバーさんが相槌を打ちながら「先生に相談してみたら」と、アドバイスする

20190308121025時には泣いて。そんな日常風景が流れていき、この作業所一部に溶け込んだ時に、メンバーさんの「いいとこ探し」をしている自分がいることに気がついていました。棕櫚亭Ⅰ(だいいち)の「ワンピース」になったみたいな感じです。

ようやくその頃の自分が「朝からちゃんと起きないからだよ」と笑いながら自然に応じている姿は、他の人からも違うように見えていたのではないかと思います。

「自分のアイデンティティが崩れ」なんて言うとかっこいいのですが、逃げ出したくなるようなしんどい気持ちと向き合い、理由を自問する。これを繰り返すことで自分自身を見つめなおす…そんなことがあったことをこの文章を書きながら、昨日のように思い出してきました。
私が私の専門家であるように、精神疾患の専門家というのは実はメンバーさん本人自身であり、教科書の知識は所詮、机上の知識であり、現実はメンバーさんから学ぶことが大切なことだと思いました。こんなことを後輩には伝えたいと思っています。

当時の棕櫚亭Ⅰに勤務できたことは私の財産であり、そのことには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

終わりに

仕事を始めて時間がすこしたち、自分がメンバーさんと共に生活をしていくにつれ、仕事をしているというか、自分も成長させてもらっているので、これでお給料を頂いていいのかなぁと思うことがありました(笑)
当時、作業所でメンバーさんにこんな質問をしました。「職員の役割ってなんでしょうか?」と。

メンバーさんは「一緒に悩んでくれて、側にいてくれて、何かあったら話せる相手」と答えてくれました。この言葉は今でも心に刻んでいます。
私の仕事のスタンスは「まず本人に教えてもらう」そして「黒子になろう」ということです。
これからも学ぶ・教わる姿勢は忘れないような関わり方を大切にしていきたいと思います。
たまに、先回りしてしまうことは自分の個性として受け入れてもらう他ないですが(苦笑)

この仕事に対する姿勢というものは就労系のオープナー勤務になった今も胸に刻みながら、職場と職場、そしてオープナーを汗をかきかき駆け回っています。

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

川田さんが実習生で来て、非常勤として働き始めた頃からを知っているので、成長したなあ、Kさんが言うように育ったなあという感じをもちました。
川田さんが入職した頃とてもハンサムで(今もか(笑)) スマートで都会的センスにあふれ、かっこいいなとメンバー皆で話していたのが昨日のように思い出されます。
障害者自立支援法ができ、いろいろメンバーの活動が制限されていった頃、当時あった車の棕櫚亭号を運転し、いろいろな所にメンバーを連れて行ってくれました。
今で言う地活のⅡ型で(その当時は作業所)生活全般にわたって川田さんには相談を引き受けていただきました。その頃のメンバーは40代、50代の重鎮もいて正直仕事しづらかったかとも思います。もともと誠実で素直な性格だったので、この並み居る重鎮に言われたことを自分で消化し自分の仕事に生かしていったことかと思います。
今や棕櫚亭になくてはならない人になった川田さんの考えが後の方に継承されればと思います。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❻『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “Keywordは、「就労」「ピア」「生活」「食事」…かな。”

法人本部 2018/12/07

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

Keywordは、「就労」「ピア」「生活」「食事」…かな。

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
障害者就業・生活支援センター オープナー 森園 寿世
(精神保健福祉士)

違和感 ~ 精神科病院での実習

私は福祉の仕事に就くために、福祉系の学校に進学し、そこで実習先に精神病院を選んだことから、今の仕事とつながっていくことになりました。

その精神科病院での実習は女性の半開放病棟で行なうことになりました。
学生実習なので、当然夕方には終了するのですが、半開放病棟を出て、事故も無く終えたことにホッとした瞬間、背後でガチャンと重い扉と鍵のしまる音にドキッとしたことは今でも鮮明に覚えています。

また、病棟では、看護婦長が入院患者さんたちを対象に料理教室を開いていました。
看護婦長は一人で手早く料理を進めて、患者さんたちは手持ちぶさたです。
料理教室なのに、なぜ患者さん達に料理をさせないのかを聞いた時に、「この人たちは普段から『ああしろこうしろ』と言われているので、この時間くらいは、何もしないでいいようにです」と返ってきた答えに、なんか変、それはおかしいという違和感が心に芽生えました。

また、同じ看護婦長から、「この人たちはもう退院できるはずなのに、家族が受け入れを拒否しているから、ここにいるしかない」という事も聞きました。
自分の中のちっちゃな正義感みたいなものがうずいた大きな体験でした。

学生実習では色々な感情に揺り動かされました。そしてこの空間がもたらす違和感のようなものが私の心に、こびり付いたような、そんな感情も生まれました。

棕櫚亭との出会い

卒業後は、精神に携わる仕事に就きたいと精神科病院の就職を希望し、門をたたいたものの、残念ながら機会は得られませんでした。一方地域に目を向けた時、当時はまだ精神衛生法の時代、作業所といわれる施設はほんの一握りでした。

学校を卒業してから更に10年、時代は衛生法から精神保健法に変わっていた頃、棕櫚亭の求人情報と出会いました。応募の電話を入れたところ、「まずは棕櫚亭Ⅰ(国立市・谷保)に来てメンバーと一緒に作業実習をやってみて」と言われ、尋ねたところは、古い一軒家の広い民家でした。

ウエス(雑巾)作りや昼食作りのグループに別れて、にぎやかに作業をしていて、代わる代わるメンバーさんが私に話しかけてきてくれました。主に、年上の穏やかな男性メンバーさんが、この棕櫚亭の説明をしてくれました(後にこのメンバーさんはSSクラブ [生活就労支援部 1] のリーダー役になる方でした)。この日、あんまり職員の方とは話した記憶はありません(笑)。作業所は学生時代に実習をした精神科デイケアの雰囲気より、もっともっとフランクな雰囲気でした。この作業所の中では自分の中に芽生えた違和感が少しずつ払拭されていく感じがしました。

作業実習後の二次面接の日程は、「追って連絡する」と言われていました。ところが、私は自分の履歴書を渡し忘れたまま帰ってきていました。そのうえ、渡し忘れていることさえも忘れていたのです。その後、奇跡的に前理事長の天野さんが、住所も電話番号も判からない私を探しあててくれたのです。そんな間抜けなことをする人間によく働く機会をいただけたと思いましたが、反面「これは天命かもしれない(笑)」というくらいに感動しました。そして、今もこの棕櫚亭で働いています。

※1…SSクラブでは先駆的に「精神障害者の生活と就労を考えるプログラム」を提供していました

「どんな仕事をしたいのか?」自己に向き合う

二次面接を経て無事採用後、「喰えて、稼げて、寛げて」をコンセプトにしていた棕櫚亭Ⅱ(だいに・当時立川にあった作業所)に配属されました。再開発され始めたばかりのファーレ立川の近くにある手狭のアパートの一室。タバコ部屋もあって茶色い壁とタバコの臭いを思い出すと今も鼻がむずかゆくなります。この棕櫚亭Ⅱは開所当初から「働いて稼ぐ」ことを目的にした作業所でした。精神障害者が社会で働くなんて一般には想像できない、この時代に、棕櫚亭ではすでに打ちっぱなしのゴルフ練習場の早朝の集球作業をメンバー数人で取り組むグループ就労が行われていました。

20181205130125ほとんどが私より年上の男性メンバーさん方で、喧嘩もあれば、ちょっと女性が聞き辛い話(今で言うセクハラ 話?)もありました。働くことを目指すといっても、作業が終わるとマージャンを毎日のようにやっていました(近所のおじさんたちの集まるサロン!?)。でも、麻雀牌を捨てながら、誰かが「家族とうまくいっていない、そもそも自分の病気のせいで、家族に大変な思いをさせてしまった、だからいま寂しくても仕方がない」なんて話し出すと、そうだよな…… Aさんは大変だよなぁと相槌を打ちながら聞いてあげています。
当時の作業所には面談室もなく、職員とメンバーとの相談はリビングです。聞くともなく他のメンバーさんも相談話しが耳に入ってきたり……。メンバーにとって、自分の家のように思える場所を、スタッフと一緒に作っていたように思います。

その中で、私もまた彼らとの向き合い方を考え始めるのですが、「職員の役割は何なのか? 」「メンバーと私が違うのは、車の運転をする事と作業所の会計の仕事をする事だけなのか?」……。
なぜ仕事として彼らに関わりたいと思ったのか悩み始めることになりました。

それからまもなく、時代は精神保健福祉法となり、精神障害者保健福祉手帳制度が創設されました。作業所では、メンバーさんを集め、手帳に関する勉強会などが始められました。
そして、棕櫚亭にはSSクラブ(生活就労支援部)が作られました。
SSクラブは、仕事やピアカウンセリング(当事者同士によるカウンセリング)について学んだり、「働くこととは自分達にとってどのような意味があるのか」などのディスカッションしたり、活気のある場でした。
ある時、メンバーさんに限らず、職員も「自分はどんな支援がしたいのか?なぜそう思うのか?」というテーマで一人一人プレゼンをする機会がありました。
その場で、私はうまく話すことができませんでした。改めて自分の考えをきちんと話せない自分にとてつもなく落ち込んだのを覚えています。
むしろ、メンバーさん達の頑張りを見れば見るほど、またもや自分の役割や何をするべきなのか、自分の生き方は何だろう。私は、何をしたいのだろうと。自己と向き合うことが益々多くなりました。よもや30歳を過ぎてこんなに迷うとは思っていませんでした。
また、ある日、先輩職員から「勤務時間でない時間でもメンバーとどう関わっていけるかが大事」というアドバイスをもらいました。とても大切なメッセージをもらったと思っています。

棕櫚亭の作業所を象徴するword

時代は自立支援法、障害者総合福祉法と移り、こなさなければいけない業務量も事務量も増え、メンバーとの関わりの時間もタイトになってきました。例えば私の関わる就労支援では、企業の参入など目まぐるしい動きの中で、福祉がサービス化されていく流れがあります。時代の流れの中でものごとを見失いそうになるときもあったりします。そして、難しくなってきた支援自体に行き詰ることもあります。
その中でも、私を受け入れてくれるメンバーやスタッフの懐の深さに救われながら、仕事を続けられています。私も気がつけば棕櫚亭のキャリアも長いほうの部類に入ってきました。たくさん語りたいことはありますが、紙面の関係もあり書き尽くすことができません。従って私が考える、棕櫚亭を象徴するKeywordをお伝えしたいと思います。このwordは今もこの棕櫚亭に息づいていると思います。

私なりに受け取ったそのwordの意味が、作業所から始まる棕櫚亭の理念につながっているのだと思います。それを紹介して私の文章の締めとさせていただきます。

「就労」とは…自己実現の機会を作ること。
「ピア」「生活」とは…一人にしない。支えあうこと。

メンバー一人ひとりに丁寧に関わっていくことなど創設当初から変わらず、いまも引き継がれている棕櫚亭の大切な骨組みです。

そうそう、それから

「食事」もでした。
当初から、皆でご飯を作って一緒に食べることにこだわって、今でも続けている大切なプログラムです。
同じ釜の飯を食うのも、実は一番大切なことのひとつなのかもしれませんね。

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

森園さんのキーワード4つが息づいている棕櫚亭という法人が法律の改正とともに歩んできた姿が、手に取るようにわかる文章でした。現在法人のベテランに属する森園さんが、履歴書を出し忘れ、そのこと自体忘れたのに、天野理事長はどうやって探しあてたのだろうそんな疑問もわいてきます。昔のメンバーさんが自分の家のように感じて居場所にしていた棕櫚亭も、多くの人が行き交い、自身を社会へ飛び出させていった場所を今、訪れてみれば隔世の感もあるかと思います。でもその時代一緒に生きたスタッフは健在で、あの頃に話の華を咲かせることができるのも棕櫚亭の良さかと思います。あの頃指導していただいたメンバーの皆様も時々遠い日を目を細めながら思いおこしながら、今を生きている。そのようなメンバーさんの集まりが30周年の記念行事であり、再会し、ピアスで語りあった日々であることを考えると、歴史の重さを感じざるを得ません。この「30年にわたる思い」は今に至るまでずーっと脈々と生き続けています。ひしひしと感じながら今回読ませていただきました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❺『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “悩みが許された時間と空間がそこにはあった”

法人本部 2018/11/16

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

悩みが許された時間と空間がそこにはあった

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
ピアス 副施設長 吉本 佳弘
(精神保健福祉士)
私が過ごした作業所の風景

当時の棕櫚亭Ⅰ(だいいち)作業所は、公園清掃や昼食作りなどの作業とスポーツやウォーキングなどのレクリエーションが中心だった。30代から40代の元気な男性を中心にグループに力があり、勢いがあった。

ちょうどその頃、障害福祉分野の大きな転換点となる時期だった。『措置から契約へ』。他障害の分野では支援費制度が始まっており、精神障害者は支援費制度の枠からは外れたが、今までの医療モデルの考え方から、生活者モデルへの転換をどのように行なうかという時代だった。

施設長(当時)の満窪順子さんが、『棕櫚亭Ⅰがどうなりたいか』を職員だけでなく、参加するメンバーに声をかけ一緒に納涼会02考えようと、障害福祉関連のニュースや、文献をミーティングなどで紹介してくれていた。

その中に『クラブハウスモデル』があった。

クラブハウスモデルは1940年代にアメリカ・ニューヨークではじまった。デイプログラムというクラブハウスを運営していく『仕事』を、メンバーとスタッフが共同し行なっていくというものだ。従来の施設のように授産事業を行い、福祉的な就労の機会を提供するのではなく、『仕事』を行うことを通じ自助を育み、相互支援を行うことで自信を回復していくことを目的にしている。その活動は世界的に広まり、日本でも活動が行われている。

つまり、クラブハウスの活動は、単に作業を行うのではなく、自分達で作業所を運営し、自分の活動を発信する。価値ある仕事を誰もが担い、元気や自信を取り戻す。地域に閉ざされた楽園を作るのではなく、安心できる港を手に入れ、それぞれが船を出す。棕櫚亭Ⅰをそんな場所にしていきたいと皆の気持ちが固まっていくことになるのである。

棕櫚亭との偶然の出会い

そもそも、私は福祉職を希望していたわけではなかった。大学には行っていたものの、あまり勉強に集中していなく、モラトリアムを満喫していた。たまたま友人が社会学の単位取得のためにボランティア活動をしていて、立川社会福祉協議会に登録をしていた。大学2年の時に、その友人から外国人の健康診断を目的にした地域のお祭りがあるからと言われて、思いがけず手伝うことになった。思えばそこが福祉との接点だった。

近隣の学生や社会人が集められ、お祭りを賑やかなものにするために出店するというものだった。「何かを企画し、誰かと共同して作業する、お客さんに喜んでもらう」そんな共同作業はとても新鮮で楽しく、その後も何年かそのお祭りに参加している。そんなひょんな事から始まったボランティア活動であったが、いつの間にかお祭りの他にも身体障害者の介助や外国人の為の日本語教室のキッズルームで子守をするなどを始めてしまっていた。

大学4年の時に就職活動を早々に諦めて、バイトでもして暮らすかなと考えていたところに、立川社協の職員から『人と接して働くのが好きでしょ?』と言われ棕櫚亭の非常勤に応募してみないかとの誘いを受けた。元々人と接するのに緊張感を感じ、うまく馴染めないなとも感じていたのでその言葉を聞いた時にとても意外でビックリしたのを覚えている。

まぁ、それでも食っていかなくてはいけないのでとりあえず面接を受けてみることにした。面接は当時の理事長石川先生と天野さんだった。何を話したのかは覚えていないが、非常勤での採用が決まり、福祉の道に踏み出すことになったのだ。

職員としての思い、そして揺らぎ

棕櫚亭Ⅰ作業所に配属され、公園清掃や昼食作りをメンバーと一緒におこなっていたのだが、毎日が驚きの連続だった。私自身、それまでの人生で精神障害のある人たちとの接点がなく、福祉系の大学でもなかったので、今思い返すと恥ずかしながら精神障害と知的障害が何がどう違っているのかも全く知らず入職したのだ。

そのような状況の私が、「皇族の関係者ですよね?」とメンバーに言われたことは忘れられない経験の一つだ。

しかし、メンバーと作業を共にし濃密なかかわりの中で、一人一人の魅力的な部分に触れることになる。

料理が得意な人がいたり、笑顔がとても素敵な人もいた。棕櫚亭Ⅰはそんな彼らによって毎日が明るく盛り上がり、エネルギーが生み出されるそんな場所だった。ゆったりとふくよかな空間だったと今も心から思える。

ただ若かったあの日、ふとその一日を振り返った時に、なぜこんなに素敵な人たちが社会に出ることができず、社会の中では自信なげにすごさなくてはいけないのかという思いもわき、こころがかき乱されるようなこともあった。どういうわけだか気持ちがあせることもあったと思う。健康を疑わなかった自分のどこかに揺らぎをいつの間にか抱えているような気がした。

Aさんとの出会い

棕櫚亭Ⅰには、30代の男性で、Aさんという人がいた。棕櫚亭Ⅰのことを思い出すと彼の事が真っ先に浮かぶ。作業を一緒におこなったりすることも多く、同じ喫煙者という事で、灰皿の前で身の上話やバカ話をすることが多かった。

彼は棕櫚亭Ⅰのエネルギーの中心になっていた一人だった。

彼は周囲への気配りだけではなく、時におちゃらけムードを作ったりもできる人で、他の利用者も彼には一目置いていた。私は、そんな彼にとても魅力的に感じ、職員として何ができるんだろう、何かできないかと考えることが多かった。ミーティングなどでは必ず彼に話を振ったり、時に頼るようなこともしたと思う。そうすることが彼の発揮できる場所を作ることにもなるんだと心から思っていた。

しかし、それは勘違いだったのだと思う。彼はある時期から作業所に通所できなくなった。私は状況を理解できず、困惑した。『なぜこれなくなったのだろう?』

後に、私が良かれと思って親しく接したことや頼るようなことが、Aさんにとって、彼の兄弟関係を彷彿とさせるものだったと他の職員に聞かされた。自分の思いが彼にはとても負担だったようだ。

その後、私とは距離を置くことで、彼は徐々に復帰することができるようになった。理屈では負担だったことが理解できても、私はその後悶々とした時間を過ごすことになる。

時は過ぎ、少しほとぼりが冷めた頃だったと思う。多摩総合精神保健福祉センターで行われる『ピアカウンセリング』の研修があることをたまたま耳にしたAさんが、参加を希望したと聞いた。この研修は職員と一緒に参加することが条件となっていた。なぜだか、Aさんは私と一緒に参加したいと申し出てくれたのだ。このことをきっかけに徐々に彼とのやり取りが増えていったことのうれしさはあったのだが、しかし依然として職員としての距離や関わりというものにもやもやとした感情があったのも事実だ。

作業所のありようを皆で考える

その研修後、JHC板橋会の「クラブハウス」研修をAさんと一緒に受け、棕櫚亭Ⅰに持ち帰った。皆の関心も高く、私たちもよりクラブハウスについて知りたいということで、小平市にある「クラブハウスはばたき」で3日間の実習をすることになった。

「クラブハウスはばたき」では利用者が積極的に事業所の運営にかかわっていた。職員室などの職員専用のスペースは存在せず、誰でも自分の行きたいところに行くことができる。職員会議などはなく、運営について話し合う時間は誰もが参加でき強制されない。さらに、自分たちの活動を広報誌にまとめ、世界に発信していた。過渡的雇用(クラブハウスと企業が契約し、利用者が労働する)というクラブハウスから社会復帰へのきっかけがあり、安心感を持ちつつ就労にチャレンジしていた。

その時の私はクラブハウスを理解をするので精一杯だった。しかしAさんは職員と利用者の関係性など(クラブハウスモデルでは利用者と職員はパートナーシップといい、運営する上では協働する関係となっている)を利用者に質問をし、クラブハウスモデルがどんなものなのかをどんどん吸収していた。彼の姿勢に圧倒されっぱなしだった。

実習後、メンバーとクラブハウスに関するミーティングを行った。全員が、一致してクラブハウスを目指そうとなったわけではなかった。そこまで考えられないという人もいたし、そもそもそんな責任のあることは出来ないという人もいたように思う。

話し合いの結果、次のようなルールを皆で取り決めた。「作業以外にも工賃の計算や、実習生のふりかえり、利用希望者への説明、事業計画や総括、とにかく一緒に行うこと」「職員だけでの会議は持たない」「パートナーシップという関係を結ぶ」「みんなの事はみんなで考え、みんなで分担する」「クラブハウスの考えをすべて実現することはできないもののまずは自分達で出来る事を増やしていく」 メンバーの皆さんは誠実だったと思う。一方、できないこと、受け入れられないメンバーの気もちや姿勢を受け止める器が、作業所にはあった。

このような喧々諤々意見を交わしているうちに、一人一人の意識が変わっていくのがよく分かった。勿論、私自身もである。時に睡眠不足で身の入らない学生実習生に「誰か相談できる人はいないか?」と親身になったり、今まで、人の前に出る事が苦手な人がすすんでミーティングの司会をかってでくれるようになったり、引きこもりがちになっているメンバーを迎えに行き作業所まで同行する人がいたり、『GM(グループミーティング)』では幻聴で困っているBさんのためにみんなでその対策を考えたりと。人によってそれぞれだが、少しずつ少しずつ皆がすすんで行動する事が増えた。お互い思いやり、尊重される場があることで、安心してチャレンジすることができたように思う。自分のことだけを考えるのではなく、『みんなでみんなの事を』考えることが増えていった。何事も話し合いという労力と時間をかけながら。

あの時、そして今も思うこと

最後に平成17年度当時の活動報告会で、棕櫚亭Ⅰが年度の活動目標として掲げた言葉をお伝えしたい。

『棕櫚亭Ⅰで活動する私たちは人との触れ合いを、支えあいを大切にしたい、作業所の運営など意味ある役割を通じて、責任感や達成感を持ちたい。病気があっても一人の人間としていろいろな経験をして、より豊かな人生を送りたい…と願っています』

私は思いもかけず、この精神保健福祉の業界に飛び込んできて、今も色々な思いを抱えながら仕事をしている。自分の支援が正しいのか? 間違っていたのか? 悩むこともある。それは、今も昔も変わらないし、これからも揺らぎは続くであろう。ただ、この頃に棕櫚亭Ⅰの活動の中で考えたことは、悩み続けること、揺らぎこそ大切なことなのだということ。だから、Aさんとのことも私の気持ちの中では簡単に解決してはいけないことだったのだと思う。むしろ揺らぎの中で自分や自分達のことを深く考え、他者に思いを馳せ、そして何よりも、対話の中で相互理解しようとする姿勢が大切なのだと気付かされた。「パートナーシップ」という考えの基に。

作業所で「パートナーシップ」という対人支援の基本を体感できたこと、そしてそこで起こる葛藤が許された時間のながれと空間。これが、今も精神保健に携わる私にとって大切な宝物だと思う。

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

吉本さんがボランティアから福祉業界に入ったのもこういうきっかけだったのかとわかりました。今、棕櫚亭の若手管理職として大切な仕事を担われている吉本さんにも若いころメンバーと語り、悩んだ日々があったことに、とても親近感を覚えます。メンバーもまたクラブハウスモデルの中で同じように役割を担い、変わっていったのかもしれないとも思えます。クラブハウスモデルは現在の棕櫚亭Ⅰに引き継がれていますが、初期の頃いろいろ試行錯誤した吉本さんの苦労が根をはっているように思います。この仕事に魅力を感じている他のスタッフも、メンバーさん達に育てていだだいたのだと思います。棕櫚亭Ⅰを皆でつくりあげた当時の思いをこれからも大切にしていきたいと深い思いに至りました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

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