特集/連載 Part ⑫『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “未来へのヒント”

法人本部 2019/04/26

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

未来へのヒント

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
常務理事 高橋 しのぶ
(精神保健福祉士)

作業所の原風景

「作業所のある風景」というと、一番目に浮かぶのは棕櫚亭Ⅰ(だいいち)の台所です。私が20代の時に過ごしていたのですから、古い一軒家の頃です。台所の隅にL字型に二つベンチが置いてあり、灰皿を挟んで丸椅子が置いてありました…… そう、灰皿が作業所の一番いいところにあった時代です。昼食作りの合間や昼休み、夕方によくお茶飲みながらみんなでおしゃべりしていました。台所はⅠの中心地と言ってもよく、時として大勢でにぎわう空間であり、そして時には一対一で静かに語り合う穏やかな場でした。

思えば、私が初めて棕櫚亭を訪れたのもⅠでした。その時はまだ学生で、市内の公民館にある喫茶運営に関わっていました。そこで作っているクッキーを保存する瓶を探していたら、「リサイクルショップに見に行ってみたら?」と教えてもらったのです。そのころのⅠには、通り沿いに棕櫚の木がまだ何本も生えていて、まるで映画に出てきそうな一軒家でした。土間のようなところにリサイクルショップ「ぱるむ」があり、共同作業所という言葉すら知らなかった私は、「国立にこういうところがあったんだ!」という驚きとともに、「この小さなコーナーに大きな瓶なんてあるのだろうか?」と思ったのですが、ありました(友人の情報は正しかった)。それにもまして驚いたのは、応対をしてくれた女性が、私が喫茶の当番日にコーヒーを飲みに来てくれたグループのお一人だったことです。その時は、まさか1年後に自分がぱるむの業務で市内を走り回ることになるとは思いませんでした。

生活者になる

大学卒業後、喫茶店運営に夢中なままの私は、アルバイトをしながら別の大学の通信課程になんとなく在籍し、これまたなんとなく友人(山地さんです)に誘われて棕櫚亭のアルバイトを始めました。私が入った時には作業所は三つになっていて、各作業所についていた「明るく元気に美しく」「食えて稼げてくつろげて」「寛いで寛いで寛いだら」というキャッチフレーズをもとに、創設者である4人の職員たちが得意分野を生かして、棕櫚亭や精神障害者を取り巻く歴史、補助金のこと、病気のことについて研修してくれました。

メンバーと一緒に作業をし、専門家ではなく共に地域で暮らす生活者として関わることを棕櫚亭は何より大切にしていました。一方、公民館で社会教育と出会い、様々なところへ研修で連れて行ってもらっていた私は、他の同年代の人よりも社会を知っていると思っていたかもしれません。なんと世間知らずだったことか…… ほどなく自分がそもそも生活者になっていないことに気づきました。だって、自分の生活の土台となることは家族にやってもらっていたのですもの。

昼食作り、公園清掃、雑巾作り、毎日先輩メンバーに教えてもらいました。私は食材の値段もあまり知らなかったので、みんなで出し合った予算で人数分の材料をやりくりすることや料理の仕方から始まって、精神病院のことや薬、生活保護制度のこと等、ほとんどが新しい世界でした。「お母さんに習わなかったの?」「やったことないの?」等々、特に昼食作りでは先輩主婦メンバーが驚きながらもやさしく教えてくれ、料理が上達していく事に喜びを感じていました。

「楽しくて、お互いのため」に棕櫚亭と地域は結びついていた

棕櫚亭は私が入ってほどなく、法人化に向けて動き出しました。社会福祉法人になることがどういうことかを深くわからないまま、私は三回目となるコンサートの担当になりました。

「自分たちが楽しくて、棕櫚亭のためになる」をモットーに集合した運営協力グループ「外野手(そとのて)」と、これまでの2倍近い1,500席余りのホールを使っての“憂歌団”コンサート。法人化のための資金作りも掲げつつ、1年間かけて準備しました。夜の実行委員会では誰を呼ぶのか、どうチケットを売るのかなどを侃々諤々(かんかんがくがく)議論し、終わったあとの飲み会から合流する人達もいて、外野手メンバーの家族が経営していた居酒屋の2階では、これまで出会わなかった地域の人たちとの時間があっという間に過ぎました。そして迎えたコンサート当日、会場の一番後ろから“憂歌団”のメンバーが登場してくるのを見た時には、もう感無量で涙がこぼれました。

とはいえ、ただ一生懸命なだけでしなやかさのなかった私は、周りの方たちにたくさんの迷惑をかけました。結果として目標としていた資金が作れたかどうかは覚えていないのですが(笑)、私にとってこの外野手コンサートから得た経験は格別なものです。

コンサートの棕櫚亭らしかったところは、福祉を前面に出さず、そのアーティストを聞きたいお客さんに来てもらって、さりげなく棕櫚亭のことを知ってもらう、そのようなスタンスであったことだと思います。それは、Ⅰのキャッチフレーズである「明るく 元気に 美しく」にも正に表現されています。「福祉っぽくなく」とも言っていましたが、「作業所を地域の中の特殊な場所にしない」という設立からのモットーが随所に表れていました。

憂歌団(木村さん)とコンサート打ち上げで

憂歌団(木村さん)とコンサート打ち上げで

地域という視点では、楽しそうな事や興味深いテーマに出会ったら身内だけで行わない、地域に広げるというのも棕櫚亭が大事にしていることです。現在のこども食堂や学習支援への夕食配達という、地域貢献活動から繋がった地域の方たちとの協同も、「食」だけにとどまらず、一緒に研修を開催したりするようになってきています。ここにも棕櫚亭を開いた場所にしよう、楽しいことは自分たちだけで独り占めしないという作業所文化が継承されています。

作業所を再度考える

 今後、障害者自立支援法という新しい枠組みの中で、作業所がそのままの形で存続していくことはいよいよ難しくなってきました。この法律がどうかということは別として、これまでの作業所活動のよかった部分、反省すべき部分、両方を振り返るときが来ていると思います。それを踏まえ、今後どのような活動をしていくとしても、これまで大事にしてきた「安心してチャレンジできる」「仲間に出会える」「自信の回復につながる」そして何よりも「元気になる」場所であることを目指してきたいと考えています。

2006.9 はれのちくもり ピアス物語 「作業所の今、そして今後」 より抜粋

これは、棕櫚亭が2006年に出版した『はれのちくもり ピアス物語』に、私が寄せた文章の最後の部分です。この頃作業所はピアス設立後の機能の再構築というテーマに加え、2000年前後から始まった社会福祉の基礎構造改革により、「支援」や「サービス」という言葉が各現場に入ってきていました。また、出版と同年に施行された障害者自立支援法により、現在の施設は5年以内に法に定められたいずれかの事業体に移行しなければいけないことも決まっていました。この大きく精神保健福祉の流れが変わり始めた頃、作業所はその機能の必要性と重要性を確信する一方で、先行きが見えない不安に包まれていたように思います。実際、この頃私がいた立川では、作業所連絡会の話し合いを何回も行って、作業所機能の存続(地域活動支援センター)を行政に求めていました。

時は流れ、自立支援法が総合支援法に変わった現在、東京に200か所以上あった作業所は法律上消滅しています。その多くは個別給付と呼ばれる就労継続支援事業B型に移行しましたが、平均工賃によって収入がかわる報酬の仕組みに存続の危機を感じているところも多いと聞きます。さらに規制緩和という名の下に競争原理が導入され、事業所の役割はますます細分化され隙間を埋めづらくなりました。社会自体も、少子化や高齢化、そして災害が繰り返される中、家族は分断され、その影響は高齢者や障がい者、ひとり親、こどもなど弱い方弱い方へと拡がっています。

そのような中で、共同作業所のような機能を補助金や委託費で展開していくことは、もう現実的ではないかもしれません。しかし、時に混とんとしつつも、作業所には社会を知る上でのすべてがあったことは、私たちに未来へのヒントをくれているような気がします。

生身の人間同士が時にぶつかり合いながらともに過ごすことによって相互理解が生まれる場所であった、その相互理解から生み出される「居場所」という宝物だったと思います。

最後に…… 棕櫚亭Ⅰの台所

  大した事務仕事もなかった入りたての頃、よく夕方にⅠの台所のベンチでメンバーとおしゃべりしていました。ある時、当時私の母と同じ年くらいのメンバーと二人になった時間帯がありました。なんてことない話から、その方は自分のお母様の話をし始めました。その方の若い頃に、お母様が自分の目の前で服毒死されたのだそうです。私は絶句してしまい、何を返したか覚えていません。その方はまるでその時に戻ったかのように、お母様がこころの病で苦しんでいたこと、目の前で薬を飲んで苦しむ姿をどうしようもできなかったことなどを涙ながらに語り、最後に「こんな話をしてごめんなさいね」と涙を拭っていました。私は、それまでその方の何を見ていたのだろうと思いました。作業所でのやりとりだけで、その方に対する印象を勝手に決めつけていた自分をとても恥ずかしく思いました。

この人に話して良かったと思ってもらえるような人になりたい、少なくとも話したことを後悔するような職員にはならないように力をつけようと強く思いました。それが私の人と関わる仕事を続けていく上での原点の一つです。常に自分の姿勢やありようを変えてくれる、それを体感させてくれる時間でした。

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

ある風景も最終回を迎え、高橋さんの台所からの報告は本当に情景が目に浮かぶようです。「生活者になる」のくだりは、そうそうあるあると思わず声をだして読んでいました。私も十代の頃から病気になった為、生活のほとんどを親がやってくれ食材の値段に目がいくようになったのも恥ずかしい話ここ数年のことです。でもそんな「野菜の値段が高くなったですね。」という話題から人は心を開き様々な話題に及ぶのも、長く病気になっていると気づきません。社会に繋がるというのは生活を自分で組み立てる楽しさを経験していく、そんなことを高橋さんの文章は言っているような気がしました。憂歌団の話も楽しいお話です。障害者自立支援法、総合支援法のなかを棕櫚亭がどう泳いでいくか、そんなことを考えながらも大切なことを伝えています。「この人に話してよかったと思えるような人になりたい、少なくても話したことを後悔するような職員にならないように力をつけよう」と。

この原点こそが大切なことだと思いました。

ある風景も今回で最終回です。次回は対談編になります。お楽しみに!

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ⑪『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “十年先に向かって ― 回想”

法人本部 2019/04/05

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

“十年先に向かって―回想”

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
障害者就業・生活支援センター オープナー 施設長 山地圭子
(精神保健福祉士)

採用面接

棕櫚亭が二つ目の共同作業所を作った頃は、法外施設と呼ばれた無認可共同作業所がどんどん増えた時代です。作業所が持っている安心できる空間や様々な活動は精神障害者の社会復帰、再発・再入院の防止に力を発揮していることが認められて、毎年作業所の数と補助金が(ばんばん?)増えていきました。当然棕櫚亭も事業展開に忙しく、「運転できる男性」が求人条件でした。

ジャズが流れるマンションの一室で髭をたくわえた職員の天野寛(ユタカ)さんは、ウェルカムドリンクの薄味のコーヒーを入れてくれます。棕櫚亭Ⅱの朝はみんなでコーヒーを口にしながらミーティングで始まります。

採用実習でⅡのミーティングで紹介された私はまず、職員ではなく「監督」と呼ばれる男性に内職のペーパーバックづくりを教われることになりました。その人は、テーブルを囲み黙々と作業をする老若男女の後ろで時々指示し、でも何もしません。

休憩中は「どこから来たの?」「麻雀できる?」「棕櫚亭で働くの?」と皆声をかけてくれるので、緊張なんてほぐれませんでした。

「監督」は作業手順を確認し仕上がりを指摘したり、運転免許の有無を聞いてきたりと、「試し」をいろいろしてくるので気が抜けず、必死感が出まくりだったと思います。後日採用の知らせを受けたとき、決め手は「監督」の一押し「運転もできるし、女でもいいんじゃないの・・・」棕櫚亭の一員として迎えられる素晴らしい一言をもらったのでした。

精神保健福祉の分野に無知だった

知識も経験も知らなかった私は、メンバーとともに作業して、食事を作って食べて麻雀する日々の中で、少しずつ心の病や精神病院の現実を教えてもらいました。小説のような物語が一人ずつにあり、棕櫚亭と縁あって利用するまでの長い道筋には、医療・福祉・家族・法律などいろんな社会の問題が透けて見えました。ぽつりぽつり語る赤裸々な体験談に私は驚いたり腹立たしく思ったりし、世間知らずであることが申し訳なく思いました。私のような無知や無理解が精神保健福祉業界を遅れさせている原因だと強く感じ、一人でも多くの人に棕櫚亭を知ってほしいと私はバザーやコンサートに打ち込みました。

自分と向き合うことの大切さ

対人援助の上で利用者と自分は「合わせ鏡」です。若かりし私はメンバーを傷つけ、傷つき、調子に乗って失敗し悔やんで眠れない夜を何度も経験しました。感情を引き出し、引き出されてしまっていたのだと思います。こういう時は、思い込みや先入観で相手を決め付けていたはずです。価値観や常識に囚われていたかもしれません。自分と向き合うこと・自分を疑ってみること、自分の中に生まれる感情をコントロールしていかないと、この仕事は続けていけないと深く思いました。反省や後悔を通じて、対人援助の仕事への覚悟をしていきました。

「縦でなく横」の関係

作業所では支援者の前に、「生活者として居る」ことを求められました。一緒に悩むこと、横に並んで取り組むことが基本。目上のメンバーに甘えたり、対等にものを言うことが当たり前な空間です。自然に生まれる関係は横のつながりでした。こうして出来上がる関係はメンバーも職員にも成長を与えてくれました。

団塊の世代の創設者は議論好きで(時に迷惑だったが)、喧々諤々にものを言い会議は白熱するので私の眼には恐ろしく映りました。でも決めるときは話し合い、判断に悩むときほどメンバーに意見をもらって、隣の林さん・知り合い・有識者などから情報を引き出し論議することは重要なことだと言う事を知りました。私は言いたいことを言う仲に入れてもらえて「何かしゃべってやろう」と背伸びしながらワクワクしていたことを覚えています。仕事に生きる体験とはこういうものだと思います。

設立から30年の間には精神保健福祉の法律や行政の変革が絶えませんでした。時代の潮流に抗い、批判しながらも周りを味方につけながら棕櫚亭は一つ一つ丁寧に方針を作ってきました。難しい判断の時には「一旦3か月やってみて、うまくいかなければ軌道修正」で乗り越えてきたと思います。しっかり振り返りすることを課し、問題を明確にして前に進むことは棕櫚亭のスタイルです。

障害者自立支援法に対して

施行の前「グランドデザイン」という言葉を聞いたのは、元厚労省 村木厚子さんからです。彼女は淡々と優しい口調で、風通しの良い福祉になるイメージを説明しました。妙な説得力で反論することもできず、「就労支援」が制度設計に組み込まれたこともあり、神妙に聞き入ったことを覚えています。

ところが作業所は事業所、活動はサービス、運営は経営。メンバーはサービスの受け手、補助金で安泰は無い。違和感だらけの中、頭の中も切り替わらず渦の中に巻き込まれていきました。作業所時代を恨めしく思ったものです。

それからの棕櫚亭は、自立支援法の事業体にソフトランディングすること舵を切り、事業縮小の苦渋の決断を行い、働き方も変えながら時間をかけ切磋琢磨してきました。

この法律も今年で施行10年目だって・・・

「精神障害者の幸せ実現」に向かって

IMG00004_Burst04福祉のあり方が大きく変わり、制度への疑問や戸惑いが残る中ではありますが、こんな時だからこそ課題や目指すべき方向性をだして私は頑張っていきたいです。発想を変えることも迫られるかもしれませんが、一人一人が役割とミッションを自覚して「理念」を追い求めていこうと思います。職員同士とのコミュニケーションを活発にし、モチベーションを高くすれば超えていける、手に入るものも多くなるはずではないか思う。

作業所で得られた経験と実感を持って自分を鼓舞し、変革を恐れずみんなで挑戦したいと思っています。

理想は、「10年先も精神保健福祉業界のパイオニア!!」

End

~ 追記 ~

この原稿を書いた後しばらくして、声帯と飲みこみの神経が動かなくなるケッタイな病気に罹りました。医者はストレスフリーを心掛けるようにと仕事を休む指示と大量の薬を出してきました。丈夫がウリの私は結構へこんで、あれこれと考え弱気になる「どうした?自分」状態が続いたのです。8日間休んで無事に復帰していますが、体力勝負の働き方に反省しきりです。

2019年の4月から私の働き方改革を決意し、実施していきます。

目標は、「悔いのない10年に!!」

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

山地さんの原稿はある風景が浮かぶだけではなく、棕櫚亭が大事にしてきた、振り返りの大切さ、横の関係の大事さがうかがえます。自立支援法でおおきく舵とりの変更を迫られましたが、10年先も精神保健福祉業界のパイオニアたる矜持をもちつづける心意気は一緒に働かせていただいている身に取って心強く思います。とりあえずやってみて振り返り少しづつ修正していく理念は作業所時代にできていたのかもしれません。職員同士のコミュニケーションを活発にし、モチベーションを高く持つ心意気で皆が同じ方向を見た時、精神障害者の幸せ実現を多くの疾患にある人々との船出を共に歩んでいくのではないかと希望の光をともに照らしすすむ。そんなことを考えました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❿『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “贅沢な時間をすごせた時代 切り取ることができない大切な時間”

法人本部 2019/03/08

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

贅沢な時間をすごせた時代 切り取ることができない大切な時間

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
障害者就業・生活支援センター オープナー 主任 川田 俊也
(精神保健福祉士)

 「どうして精神分野で働くことになったのか」今振り返る

思えば、物心ついた頃から僕の周りには障がいのある方がいて、彼らが地域で暮らしていることが当たり前の生活で育ってきたように思います。聴覚障害者の親戚、脳性まひがある幼馴染、そして同じマンションには気分障害の方がいて、彼らとの関わりの中で、戸惑い、何か自分にできる事はないか? どうしたら彼らの手助けができるのだろうか? などと子供時代を過ごしているうちに、気がつけば大学では心理学を専攻していました。
授業を受け、やがて教授の助手としてカウンセリングに同席し始めると、訪れる人達をみて更にいろんな思いに駆られるようになりました。
例えば、カウンセリングの間、顔色を変えず全く笑顔を見せないAさんは、どのような気持ちで座っているのか考え、気がつくとAさんをじっと見つめている自分に、はっと気がつくのでした。このようなことを繰り返すうちに、まぁ何はともあれ「Aさんの笑ったところをみてみたい! 笑わせたい! なんとかしたい!」と感情がわいてきたのを今でも思い出します。
「もう少し踏み込んで彼らに関わっていきたい」 そんな自分の心境の変化が芽生えるのも時間の問題で「もっと精神障がいのある方とかかわりあえる仕事につきたい」と考えて精神保健福祉士の門を叩きました。今ここにいるのは、このような経緯なのです。

私自身何でも全力投球して目の前のことに没頭してしまう性格でした。いまでこそ主任という立場になり、何か起こってもそれなりに落ち着いて対処することが普通になってきましたが、昔は体育会系ののりでとにかく動いてしまうことが多かったように思います。そんな私がどちらかというと文化系の臭いを纏う(まとう)棕櫚亭と出会ったのは、学生時代に実習したことに始まります。ともかく一生懸命やっている姿が評価されたのか(笑)縁あってその後棕櫚亭で働くことになりました。最初は週一回のスポーツプログラムを担当する非常勤職員として勤務がはじまりました。アルバイトでスポーツインストラクターをしていたのもよかったのかもれません。

メンバーさん達からしてみれば、「こういう職員って嫌だよなぁ」と今なら思っただろうし、「よく棕櫚亭は採用してくれたよなぁ」 と思うときがあります。
そのころ思っていたことは「精神障害者をなんとか普通の生活ができるようにしたい」、「健康にさせたい」という気持ちが強く、思いだすと「思いあがった新人」という感じがして今顔が赤らむ思いがします。もし、自分と同じような新人がきたら「頭でっかちになるな!」と言うと思います、間違いなく(笑)。

自分は精神疾患に対して偏見みたいなものはないと考えていました。しかし、地域で生活している人というよりも、「病者」と感じ接していることがあったことを考えると「偏見がなかった」といえるかは、今となってははなはだ疑問に思うところです。勿論、今はそんな考えが間違っていることは重々わかっています。

この仕事を続ける上で、切り取ることができない大切な時間

連載されている「ある風景」の執筆依頼があって、構想を練っている時に自分には「ある風景」をひとつには絞れないと思いました。考えれば考えるほど、「この日、この場所、この場面」ひとつひとつをとってみても、真剣勝負で濃密な時間を過ごしていました。

ベランダの喫煙所で「おい! 川田! お前は間違ってる」とタバコを吸いながら本気で叱ってくれたUさん、夕方、お茶をしながら「息子のように育てたいのよ」と話してくれたKさん、ソファで相談にのってもらいながら「大丈夫!なんとかなる」と励ましてくれたKさん、市民祭や一泊旅行の実行委員を担当したとき、「一緒にやれてよかった!」と話してくれたYちゃん、送別会を開いてくれたとき、ハグをしてくれたSさん…… 数え上げれば切がないほどのメンバーさん達の顔が浮かびます。

言えることは、僕を育ててくれたのはメンバーさん達の率直な話だということです。もちろん先輩同僚職員のアドバイス等もたくさん受け、感じるところや考えさせられることもたくさんありました。それでもやはり大きいのは、メンバーさんの日々のかかわりでの率直な意見や表情、空気感など関わりの中から得たものです。ちょっと今では考えられないかもしれませんが、毎月あるグループミーティングで、私自身の1ヶ月間の振り返りを「じっくり、たっぷり」してもらっていたことを思い出します(これってものすごい贅沢な時間(笑))。

当時の僕もなかなか頑固で、言われることも多かったのですが、メンバーさん達に対しての感情やああしたい、こうしたい20190308121114ということを率直にぶつけていました。「そこまで言うのか?」というのもあったかもしれません。メンバーさん達からは「いやいや違うだろう!」という押しかえしもたくさんありました。結果的に僕が間違った態度も多く、素直に「ごめんなさい」と謝ることもたくさんありました。この年になっても人に謝るということができることは大切な財産だと思います。

とことん悩む時間をもらい…なんていうと少し格好をつけていて、実際は、そのままこの分野で働くことに自信を失うこともしばしばありました。少し前言を撤回するようですが、「口で言うほど素直なやりとりというのは簡単じゃない」という気持ちも半分はあります。

それでも、社会人ほやほやの僕に対して、社会経験豊富で自分自身と向き合ってきたメンバーさん達だったから、受けて止めてくれていたのかと改めて思えます。

本当に自由に過ごさせてもらっていましたし、この貴重な時間は私のキャリアにとって切り取ることができない貴重な時間だったと思います。

メンバーさんから育てられ、自分の気持ちが変化する

私もなんだかんだで中堅職員として、職員にいろんなことを伝えなければいけない立場になってきました。そんな私が苦手なことの一つは職員を育てることだという自覚があります。だから、すこしこの場で語りたいと思います。私の場合、一つのエピソードが自分を変えたというものはありません。メンバーさんとの日常的な関わりであるユニット活動やお茶を一緒に飲むこと、一泊旅行、スポーツプログラムなどの活動を通して、本当に徐々に考えや気持ちや姿勢が変わったという感じがします。「心境の変化」とは私の場合そのようなものです。
繰り返しになりますが、入職した頃、メンバーさんの「できないところをどうしようか」と思っていました。そしてそれが、自分の仕事だと思っていました。

しかし、メンバーさんと同じ時間を過ごし、共に笑い、メンバーさん同士が助け合っていたり、褒め合い、一生に悩んで

「最近夜、眠りにくいんだよ」と話し始めた時、他のメンバーさんが相槌を打ちながら「先生に相談してみたら」と、アドバイスする

20190308121025時には泣いて。そんな日常風景が流れていき、この作業所一部に溶け込んだ時に、メンバーさんの「いいとこ探し」をしている自分がいることに気がついていました。棕櫚亭Ⅰ(だいいち)の「ワンピース」になったみたいな感じです。

ようやくその頃の自分が「朝からちゃんと起きないからだよ」と笑いながら自然に応じている姿は、他の人からも違うように見えていたのではないかと思います。

「自分のアイデンティティが崩れ」なんて言うとかっこいいのですが、逃げ出したくなるようなしんどい気持ちと向き合い、理由を自問する。これを繰り返すことで自分自身を見つめなおす…そんなことがあったことをこの文章を書きながら、昨日のように思い出してきました。
私が私の専門家であるように、精神疾患の専門家というのは実はメンバーさん本人自身であり、教科書の知識は所詮、机上の知識であり、現実はメンバーさんから学ぶことが大切なことだと思いました。こんなことを後輩には伝えたいと思っています。

当時の棕櫚亭Ⅰに勤務できたことは私の財産であり、そのことには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

終わりに

仕事を始めて時間がすこしたち、自分がメンバーさんと共に生活をしていくにつれ、仕事をしているというか、自分も成長させてもらっているので、これでお給料を頂いていいのかなぁと思うことがありました(笑)
当時、作業所でメンバーさんにこんな質問をしました。「職員の役割ってなんでしょうか?」と。

メンバーさんは「一緒に悩んでくれて、側にいてくれて、何かあったら話せる相手」と答えてくれました。この言葉は今でも心に刻んでいます。
私の仕事のスタンスは「まず本人に教えてもらう」そして「黒子になろう」ということです。
これからも学ぶ・教わる姿勢は忘れないような関わり方を大切にしていきたいと思います。
たまに、先回りしてしまうことは自分の個性として受け入れてもらう他ないですが(苦笑)

この仕事に対する姿勢というものは就労系のオープナー勤務になった今も胸に刻みながら、職場と職場、そしてオープナーを汗をかきかき駆け回っています。

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

川田さんが実習生で来て、非常勤として働き始めた頃からを知っているので、成長したなあ、Kさんが言うように育ったなあという感じをもちました。
川田さんが入職した頃とてもハンサムで(今もか(笑)) スマートで都会的センスにあふれ、かっこいいなとメンバー皆で話していたのが昨日のように思い出されます。
障害者自立支援法ができ、いろいろメンバーの活動が制限されていった頃、当時あった車の棕櫚亭号を運転し、いろいろな所にメンバーを連れて行ってくれました。
今で言う地活のⅡ型で(その当時は作業所)生活全般にわたって川田さんには相談を引き受けていただきました。その頃のメンバーは40代、50代の重鎮もいて正直仕事しづらかったかとも思います。もともと誠実で素直な性格だったので、この並み居る重鎮に言われたことを自分で消化し自分の仕事に生かしていったことかと思います。
今や棕櫚亭になくてはならない人になった川田さんの考えが後の方に継承されればと思います。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❾『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “始まりはボランティア”

法人本部 2019/02/08

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

始まりはボランティア

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
地域活動支援センターなびぃ 職員 工藤 由美子
(精神保健福祉士)

出会い

あれは1990年ごろ、20年近く勤めた教師の仕事を辞め、立川に引っ越してきた私は、主婦の仕事と週2日ほどのアルバイトではなんとなく物足りなくなり、何かボランティアでもしてみようかと、立川市役所の一角にあった(当時)社会福祉協議会の事務所に行ってみました。そこで、担当の職員さんから、家から徒歩10分ぐらいで行ける棕櫚亭Ⅱ(だいに)を紹介していただきました。

・・
その頃、Ⅱは開所して間もない時で、高松町のマンションを借りて、所長の寺田さんと若い男性スタッフの天野豊さん(いずれも当時)がいました。個性豊かな利用者の皆さんが代わる代わるやってきて、奥の一室は「タバコ部屋」と呼ばれ、いつも紫煙がもうもうだったことを覚えています。

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 地域活動支援センターなびぃ 工藤 由美子

地域活動支援センターなびぃ | 工藤 由美子

・・

私は、毎週金曜日の午前中に伺って、利用者さんと昼食作りをさせてもらいました。一緒に買い物に行ったり調理をしたり、さりげないおしゃべりをしたり。出来上がった昼食を一緒に頂いて、だんだん名前も憶えて、自然にみなさんと打ち解けていったような気がします。当時の私は、精神の病いのことはほとんど知識がなかったので、利用者さん一人一人の事情や大変さには思い至らず、少しでも役に立ってもらえれば嬉しいなぁぐらいの気持ちだったと思います。さらに、年1回の旅行に誘ってもらったり、忘年会にお邪魔したり、皆さんから思いがけない贈り物をいただいて、胸が熱くなったことなど、いまも忘れられません。

・・
また、その頃、多摩総合精神保健福祉センター主催のボランティア向けの講座があり、そこに参加することで、ほんの少しずつですが、精神の病気のことや作業所のことを知っていきました。その中で印象に残っているのは、国分寺の「はらからの家」の福祉ホームを見学したことです。その後の火災によって全焼してしまいましたが、1970年代、私が上京して初めて入居したアパートと同じく、真ん中に廊下のある古い木造の建物でした。古さのためだけではない、何とも言えない寂寥(せきりょう)感があったのは、なぜだったのでしょう。

棕櫚亭の食という文化

その後、立川に棕櫚亭Ⅲ(だいさん)トゥリニテをオープンするに当たり、調理担当として手伝ってくれないかということで、他のボランティアの方々(4・5人ぐらい)とも会い、なんだかんだと相談の結果、カレーの店にすることになりました。中心になってくれる他のボランティアさんがいたので、私は、水曜日だけ通うことになり2人のボランティアで、店の開店から閉店まで切り盛りしました。
しかし、カレーだけではお客さんが増えない状況が続き、日替わりランチもメニューに入れることになりました。水曜日の担当として、毎週無い知恵を絞って、お客さんの喜んでくれそうなメニューを考えました。大変だったけれど、お客さんが来て完売するとなんとも嬉しかったこと。(初めは、一日十食でしたが)そして今思えば、ボランティアのやりたいようにすべてをまかせ、クレームもつけなかった職員の大らかさというか、懐の深さには敬服するばかりです。
その頃の棕櫚亭は、外の手コンサートや立川競輪場を会場にしての家具祭りなどの大きなイベントが毎年のように行ない、お弁当を作ったり、ビラ配りしたり、豚汁を作ったりとなんだか学園祭のような乗りで参加していました。

スタッフとして働くことになる

そんなこんなで数年ボランティアとして棕櫚亭にかかわった私は、1996年より非常勤スタッフとして棕櫚亭Ⅲに勤務することになりました。当時の施設長だった添田さんが、「精神保健福祉法」や「障害者手帳」の資料を出して、利用者のみなさんと勉強会のようなこともした覚えがあります。
翌年、ピアスの設立とともに転任し、厨房を中心に6年間過ごしました。その中で、私自身の意識も、ボランティアのおばさんとしてではなく、他のスタッフと同じように、支援の専門職としての力を少しでもつけていかなければと変化していきました。折しも「精神保健福祉士」資格が国家資格となり、試験に挑戦しました。50代の私にとっては、なかなか厳しいものでしたが、これまで福祉についての勉強を系統だってしたことのない私にとって、福祉全体のことが見渡せる、とてもよい機会だったと思います。

作業所の危機

その後自立支援法が成立し、棕櫚亭もその対応にあわただしい時を迎えます。私自身は病気で1年間休職しましたが、2008年の棕櫚亭Ⅰの谷保への引っ越しにかかわりました。
それに先立つ、引っ越し前の夏のある日の光景は、忘れることができません。それは、棕櫚亭Ⅰが、「地域活動支援センター」への移行を申請するに当たり、国立市の中には「棕櫚亭には、すでになびぃが地域活動支援センターとして存在するのだから、棕櫚亭Ⅰはなびぃと一緒にすればいい」という意見がある。Ⅰを独立したものにするには、利用者の思いを直接市長に訴えたほうがいいという市の担当者の計らいで、当時の国立市長と棕櫚亭側からは小林(現理事長)、工藤の両名と、利用者数名で懇談しました。市長の心を動かしたのは、職員の説明より、「安心していられる」「行く場所があって、みんなと会えるのが嬉しい」「生活にリズムができた」「料理ができるようになった」等等…… 自分の言葉で切実にあるいは淡々と語る利用者の姿だったと思います。
其のおかげもあって、翌年棕櫚亭Ⅰは「地域活動支援センターⅡ型」、なびぃは「地域活動支援センターⅠ型」と国立市から認められ、現在に至っています。この利用者の力は、引っ越し作業でも発揮され、寒くなり始めた12月、無事新しくなった現在の谷保の場所へ移ることができました。

30年近い関わりの中で今思う事

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 地域活動支援センターなびぃ 工藤 由美子
それから10年近く、たよりない施設長だった私は、いつもいつも利用者のみんなに助けられてきたような気がします。様々な問題や課題はいつもありましたが、其の都度、利用者に問いかけ、相談し歩んできました。ぶつかることはあっても、お互いの信頼さえあればなんとかなる。棕櫚亭Ⅰで力をつけた利用者・職員が、次に来た利用者のために、あるいは新しい職場でその力を発揮し伝えていけたら、こんな素晴らしいことはありません。

・・
そして私事になりますが、常勤職員としての定年を迎え、昨年の4月より週2日なびぃで非常勤職員として勤務しています。私でいいのかなと思いつつ、60代・70代の利用者も増えている今、行く場所・自分を必要としてくれる場所があることは、障害の有無に関わらず、とても大切なことだと痛感しています。高齢化が増々進む中、作業所の良さをもう一度生かしていくことは、棕櫚亭にとって外せない柱だとおもうのですが。

・・
最後に、ボランティアから出発した私が、なぜこんなに長く棕櫚亭にかかわることになったか。
それは、「私が私でいられる場所だったから」

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

「私が私でいられる場所だったから」という言葉は棕櫚亭に関わる多くの人が共通に持つ思いだと感じます。
「はらからの家」は私にとっても懐かしい思い出があります。病院から退院した当時、「はらからの家」の前にドラム缶で家庭用油から石鹸などを作っていました。「はらからの家」の伊澤さんが大学出たばっかりの頃だったので、何十年前か推し量ってしるべしです。
工藤さんの文中にある2008年の引っ越しと市長への請願も経験しました。まさにその頃は棕櫚亭Ⅰのメンバーとしてライブで工藤さんと過ごしました。
工藤さんが現在なびぃで多くの電話相談者の声を聴いて的確なアドバイスができることも棕櫚亭で培った人間力のようにも感じられます。
「私が私でいられる場所」は工藤さん自身が築きあげたものですが、翻って考えるとメンバーさんにとってそこは心地よい場所なのです。

あたたかい日のあたるその場所は次世代に確実に受け継がれていると思います。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

『卒業生インタビュー3』青木さん(シダックスオフィスパートナー株式会社)

法人本部 2018/06/15

卒業生インタビュー 3

今回はピアスを卒業され、現在も継続しているお仕事をされている「青木さん」と会社の定着支援担当の「大野さん」へのインタビューを実施しました。

青木さんはどのようにピアスを利用され、それが今のお仕事にどうつながっているのでしょうか?

IMG_4845

アクセルを踏んでしまう自分に気付きました。

青木さんシダックスオフィスパートナー株式会社

勤務期間:5年6か月

以前はどんな仕事をされていましたか?

青木さん:製造業に従事しマシンオペレーターと生産スケジュールの管理、資材の発注等を業務としていました。会社からの更なる期待に応えようと仕事を家に持ち帰らないと落ち着かず、飲めないお酒を飲んで寝る生活の繰り返しでした。そうした生活を続けるうちにうつ病を発症、仕事のプレッシャーや上司や部下との人間関係で会社に行けなくなり休職、傷病手当が終了する平成21年に退職しました。

ピアスで学んだことはどんなことですか?

青木さん:私は仕事にのめり込みやすく、ついアクセルを踏みすぎて疲れてしまうことがわかりました。再発に繋がらないように、のめり込まない様にとトレーニングでコンコンと言われました。3か月のチャレンジ雇用で実践を学び身に付けました。昔のようではダメだと思いました。

ピアスのトレーニングの厳しさが今とても役に立っています。自分自身のコントロールやどうなったらマズイかがわかったり、新しい働き方を学びました。

障害者雇用を選んだ理由はありますか?

青木さん:就活当初はオープン、クローズはあまり意識していませんでした。しかし50歳を目前にしての就活は想像以上にきびしく、クローズでは殆ど求人がありませんでした。また、オープンで、障害者雇用で働くということが割りきれずにいました。

そのような時チャレンジ雇用で国立市役所に3ヶ月間お世話になりました。その時初めて障害者雇用とはこういうものなのかと実感し、こういう働き方もあることを教えてもらいました。このチャレンジ雇用がきっかけとなり障害者雇用での就職を選びました。

その後今の仕事にはどんな経緯で就職しましたか?

青木さん:シダックスオフィスパートナー(以下SOP)が出来た1年後に入社しました。オープナーからの紹介でした。運と縁を感じました。

現在のお仕事について教えて下さい。

青木さん:事務補助です。入社当時は受け身の仕事に物足りなさを感じることがあり、モチベーションが下がってしまうことがありました。しかしステップアップのためのピアサポートを実践し、トレーナーから正社員に登用されリーダーにキャリアアップしました。職務内容は他のスタッフへの仕事の割り振りや業務の進捗管理、業務全般についての指示や指導等を行っています。また実習生の実習前の面談、指導、振り返り面談を担当しています。

SOPの社風が私には合い、肩に力を入れ過ぎることなく業務に取り組めています。残業もありません。

最近苦労されていることはありますか?

青木さん:リーダーとしての同僚とのやりとりです。渡した仕事がうまくいかないことがあったり、コミュニケーションがスムーズにとれない時、何でわからないのかと思うことがあります。こういった状況は誰にとってもつらく、いいことがありません。そんな時には傾聴を心がけています。元々の自分は聞き続けることは苦手で、ついしゃべり過ぎて答えを誘導してしまう傾向にあります。なのでまずは相手に話をさせることを意識し、しゃべり終わるまでは相槌に留めるよう心がけています。

日々の生活やご家庭とのバランスで気をつけていることはありますか?

青木さん:妻からは「家と両立させてね」と言われています。その言葉が結果として仕事でアクセルを踏もうとする自分へ、良い意味でブレーキになっています。また、再発した際リスタートのリハビリにも家事がバロメータになっています。

仕事を続けていくために努力していることはありますか?

青木さん:「毎日行くこと」です。出勤率は90%以上です。私はどちらかというと自分を追い込んでしまうので、いい意味で甘やかすことも必要と休むとそれが呼び水になってしまい、長期欠勤につながってしまうことが間々ありました。なので、「無理せず休む」から「とりあえず行こう」と考えを変えました。

調子がよくない時は音に敏感になります。上司と相談し耳栓を使用しています。こうしたささいな不調のサインを上司に相談することで、大きく体調を崩すことなく働き続けることができています。

IMG_4844

大切なことは「セルフケア」「セルフコントロール」をご自身で実践することです。

大野さん(シダックスオフィスパートナー株式会社)

青木さんの印象を教えてください。

大野さん:明るく、仕事や人付き合いに対してまじめで、一生懸命な方です。周りの方には父親的存在で、愛情持ってリーダーとしての務めをされています。また、ご自身の障がいと向き合って入社時から徐々に体調を崩すことが少なくなってきており、セルフケアができるようになっています。

会社で行っているサポートはありますか?

大野さんもともと努力家で仕事の能力をご自身で高めていこうとする方なので、業務の進め方はお任せし、こちらは進捗チェックやサポートにしています。

また、体調・メンタルを崩される「前」は行動や考え方に予兆が見られるので、こちらから「セルフケア・セルフコントロールの声かけ」、それでも難しい場合は「ストップをかけるよう」にしています。

特に生活面は支援機関とのつながりが大切なので、必ずご自身から支援機関につながるようにお伝えをしています。

精神障害者の定着について、会社としてのお考えはありますか?

大野さん≪不安感の軽減を図り、やりがいに配慮し、モチベーションの維持・向上を継続すると共に、キャリアアップの実現を目指す≫

当社ではこの考え方に基づいて運営しています。

また、当事者は職業準備性(働くにあたって仕事をするスキルや考え方)が整い、支援機関との連携に前向きでヒューマンスキル(主に対人関係構築スキル)の向上を意識できる人はより定着できるものと考えています。会社としましてもヒューマンスキルの向上を目指したグループワークを取り入れ、皆さんで意見交換しています。そこから社員間の相互理解につながりトラブル等発生しない要因になっています。(1回/月)

これから働きたい精神障害のある人たちへメッセージをお願いします。

大野さん:当たり前ですが、就労の大前提は「出勤率が高く、長く働けること」です。ただし、体調・メンタルは波もあります。大切なことは「セルフケア」「セルフコントロール」をご自身で実践することです。

しっかり「何故働きたいのか?」と毎回目標を見て、セルフケアを大事にすれば、きっと今後の就労に繋がります。また、「仕事が生活を支えている」と考えていただいたほうが、仕事に対する向き合い方がより真剣になれると考えています。

協力: シダックスオフィスパートナー株式会社
インタビュー: 2018年5月

もくじ

《最終回》 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑯ “半年の往復書簡を振り返って 対談編”

法人本部 2018/05/31

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

往復書簡を終えるにあたって

半年にわたってお届けいたしました「往復書簡」も、今回の「対談編」でいったんの区切りをつけさせて頂く事になりました。お読みいただいた方、お声かけいただいた方、本当にうれしい気持ちで一杯です。あまりに多くの方が声をかけてくれるので恥ずかしさ半分の複雑な感情も私たちにはあります。

うしろ髪をひかれる思い(笑)で、今回の幕引きをしなければならないのですが、締めるにあたって二人で話したことを文字におこしてみました。「対談」とはいうもののこの先の文章は、ある意味、私たち二人のささやかな共同決意表明でもあります。ここまできたら、最後まで辛抱してお付き合いくださるとうれしいです。

このような時代、もっと考えていきたい! 発言していきたい!

今回、法人のホームページといういわば公の場での書簡となりましたが、あくまでも二人の個人的な意見なので、たくさんの「異論」はあったかと思います。それは、私たちのねらいでもありました。「異論を巻き起こす」つまり往復書簡を読んで心に引っかかりを感じたり、ちょっとした違和感を覚えたり、少しでも考えたりしていただければ嬉しいと二人で考えていました。

今の時代、つまり、テレビ、インターネット、SNSといった情報媒体が社会の中で猛威を振るってくると、「情報を知っている」ことこそが大きな価値であるという考えに、私たちは陥りがちです。更にその結果として、「考える」という意識が希薄になってくることも往々にしてあります。

例えば、最近話題のN大学のアメフト部の危険タックルの問題など、テレビでは連日連夜放送されています(もしかしたら、この記事をUPしたときには下火になっているのかもしれませんが)。繰り返し流される映像を見て、「知っているけれど、あれはひどい」「あれはスポーツではない」などの意見が出るでしょう。それは私たちも同じです。結果的に「N大学への批判感情」も声としてあがってくるのも仕方のないことかもしれません。これは世論の大勢を占める意見になっているのだという印象があります。

しかし感情的なことばかりで意見を言っても、一向に物事の本質が見えてこない、前向きにものごとがすすまないという話を二人でしました。

荒木:櫻井さん、それにしても最近のニュースは、どのチャンネルを見てもN大アメリカンフットボールのラフプレーネタばかりですね。スポーツ好きの櫻井さんは、怒りが止まらないのではないですか?

櫻井:勿論、あのタックルはスポーツとしてあり得ない出来事ですね。暴力的でもあり、あってはならないことだと思います。しかし、その後、危険行為をした選手が記者会見で謝罪した映像を見て、彼には今後の長い人生につなげてほしいなぁとも思いました。

荒木:なるほど、そうですね。確かに起こったことはもう取り消せないので、彼自身が将来に生かしていく、彼を支援するという視点は大切ですね。しかし、そういう意味で大学や関係者の対応は最悪でしたね。

櫻井:確かに最悪だと思いました。選手個人がカメラにさらされる中、大きな組織が守ってくれないということには憤りを感じました。と同時に、今回の出来事から、ほかの教育の現場や組織が、もう少し大きな声をあげても良いとも感じました。つまり、N大の問題という枠を超えて、大学機関が今回の出来事を受けて、問題点を明らかにし、将来に向けてそれを提起をしても良いのではないかと思いました。

荒木:なるほど。教育の現場が、子どもを守らず、きちんと物事を筋道立てて説明せず、まるで企業防衛的な発言ばかりを繰り返したことが大きな問題だということですね。問題があると言えば、メディアの取り上げ方もそうだとも思うのですが…

櫻井:起こった出来事の表面ばかりを繰り返して報道されるメディア情報も、私たちのニーズからきていると考えると、結局、私たちの意識も変えなければいけないのかなぁとも感じます。気をつけてメディアと付き合わなければ「考える」という行為を妨害されているような気持ちに、私などはなってしまうのです。

確かに、身近にいろいろな情報が手に入るこの時代は、ある意味風通しが良いという面をもっています。しかし、情報を、右から左に流すのではなく、一度せき止めて、「問題の本質を考えること」や「今後問題をどのように生かすか」といった視点で考えたいという話を二人でしました。そして、いろんな角度で発言できるようになりたいとも話しました。

当事者を意識して社会をみていきたい! 発言していきたい!

先ほどメディアの取り上げ方の問題にふれたとおり、私たちのニーズ、つまり、私たちの興味の方向にメディアは向いています。このことを考えると、例えば原発の問題などが取り上げられなくなってきたことは、メディアだけの問題だけではなく、私たちの興味関心が薄れてしまったことの表れだという話もしました。何かあるとワーッと報道され、人々が口にする単語。「東日本大震災」「福島第一原発」「メルトダウン」「大熊町」「マイクロシーベルト」等、沢山の単語が瞬間的に飛び交いますが、やがて意識の中から消えていきます。忘れるという行為を繰り返していくのが人なのかもしれませんが、それではいけないという反省を二人でしました。

荒木:精神保健の現場で働いている者として、この分野に常に関心を持っていなければいけないことは当たり前なのだけれども、櫻井さんは新聞をよく読んで勉強していますね。見習わなければ。

櫻井:昔からの癖が抜けないという感じがありますが、体調によっては集中力がもたないことがあります。どうしてもネットニュースではなく、新聞ということになりますが、新聞各社によって同じ記事の取り上げ方でも違う意見だったりするのは興味深いです。

荒木:なるほど、東日本大震災直後の原発問題に対する報道姿勢は福島県民の立場に立つと…いうような論調で概ね同じような論説が並んでいましたが、その原発の延長線上にあるエネルギー政策に対する考え方は「危険な原発はいらない」「資源のない日本に(安全な)原発は必要」などと意見が分かれているようです。

櫻井:「当事者(福島県民)の立場に立つと…」という視点は大切だと思うのですが、こういった議論が続く中で、いつの間にか当事者ということがすっかり置き去りにされてしまうことがありますよね。そして「当事者の立場に立つと…」という枕詞は、注意して見聞きしなければいけない言葉で、感情を煽(あお)るような使い方をされるような気がします。

荒木:ありがとうございます。以前の往復書簡の中で、少しそのようなことを私は書きましたね。「私は(精神障がい)当事者ではないが、できる限り当事者に思いを馳せられるようにはなりたい」と。なかなかエラそうなことを書いてしまいましたね。

ところでそうなると、私はいったい何の当事者なのだろうか?と考えました。その当事者の立場できちんと発言・行動できているだろうかと反省しました。

櫻井:私は、今後も精神障がい当事者として発信していくことは勿論ですが、例えば、年老いた父と生活する子という当事者の立場で、高齢者福祉のこと等たくさん語ってもよいのだとも思いました。

この文章を読んでいる皆さんはどのように考えましたか?二人で話をしたのは、病気とか障がいだとかに限らず、私たち誰もがいろんな形でなんだかの当事者として存在しているのではないかということです。そうでなくては社会のあらゆる問題を知る・考える必然性はありませんし、そんな新聞やニュースに触れる必要はありませんよね。
ただし、少しだけ気をつけなければいけないのは、自分がその当事者として立場(主観)で考えているのか、当事者に寄り添いたい(客観)と考えてなのか、きちんと区別することかもしれませんね。境界は難しいのですが。

書簡を通じてコミュニケーションの楽しさを知る

この半年間書簡を通して、二人でいくつかの話題を話してみました。お互いの考えの一致する点・全く異なる点、はたまた感心する点等、いわゆる普段の職場だけの関係では語りつくせなかったことが、書簡というツールを通じて交わせたような気がします。そして、コミュニケーションの楽しさに改めて感じ入ることができました。

じっくりと書き込むという「書簡の醍醐味を味わった」といったところでしょうか。

勿論、代償として自宅で遅くまでパソコンと向き合わなければいけなくなってしまいましたが…

そして、この書簡は、思わぬ形で読者の方々とのコミュニケーションにもつながったような気がします。はじめにも書きましたが、たくさんの方々にお声かけいただき、会話のきっかけにさせていただきました。

本当に感謝したいと思います。

荒木:今回、このような場で、言いたい放題させてもらえてけれど、楽しかったですね。

櫻井:疲れたけれど、心地よい疲れみたいな感じですね。「コミュニケーション」ってこういう感じなのでしょうかね。

荒木:ウーン。確かに、書くことには責任も生れるし、心の開放だけではありませんよね。

櫻井:でも楽しかった。このくらいのやり取り(コミュニケーション)で言いたいことがすべて伝えられるわけでもないですけれども。まぁ、それでも自分たちの意見が率直に言えるようなそんな社会にしたいなぁと思いました。ちょっと大げさかなぁ。

二人:(笑)

2018年5月吉日
多摩棕櫚亭協会 本部にて

櫻井博 と 荒木浩

荒木浩 と 櫻井博

 

最後に

読者のみなさんにはお付き合いいただき、重ねてお礼申し上げます。

そして、写真撮影などにお力添えいただいた、アーガイルデザインの宮良さんにも感謝申し上げます。

「またエネルギーがたまったら書簡やってみますか?」

「やらせてもらえますかね?」

「本当は当分そんな気持ちにはならないでしょう?今はね!(大笑)」

(了)

 

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑮ “棕櫚亭の理念を担う-櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/05/09

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

棕櫚亭の理念を担う

前略
荒木 浩 さま

半年にわたり、手紙をよんでいただいてありがとうございます。今回が最後になるのですね。最後に大きなテーマをいただき考えましたがうまく答えられないかもしれません。
今これを書いているのが連休まっただ中の自宅です。職場で書くことは認められてますし、ほとんどそうしてきました。今回は振り返る意味も含めゆっくり書いています。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

棕櫚亭の理念を担う

棕櫚亭の理念として、「精神障害者の幸せ実現」という大きな目標があります。荒木さんから問われた「なにを担ってくれるか」という問いにこたえるとすれば、法人に関するすべての仕事だと思います。

本当の事を言いますと、電話相談でもプログラムの活動でも高齢者配食でも、その活動が理念のどの部分がどういうふうにあてはまるかはわかりません。仕事として全力投球でやることによってそれがやがて理念として幸せ実現に向かえばと考えています。

棕櫚亭にメンバーとして入り、2回の入院を経て、いろいろな方との出会いがあり、棕櫚亭の魅力にひかれ、精神保健福祉士の資格を取り、週3日から始まった障害者雇用での採用でしたが、自分の中では健常者と障害者の境界は、気持ちのなかではありませんでした。

確かに病気をによる障害はありますが、それを意識しないよう努めました。

精神障害者の雇用率が上がり、一般での雇用は増えてきました。様々の分野に雇用の場は広がっています。荒木さんの手紙でも健常者と障害者の境界(ボーダー)は引けないと返事をいただきました。書簡を通じて境界を引いているのは自分のほうではないかと気が付きました。もともと境界をひけないことの多い社会のなかで、境界をひこうと思い、被害的になったり不安になったりすることは、そのできない境界に怯えているのではないかと思いました。、この半年間往復書簡を通じて荒木さんとの認識の違いでは、自分には多様性をもつことがすくなかったことも得た一つの教訓です。荒木さんの考える多様性に注目しずいぶん自分の思い込みも意識されました。

なぜ棕櫚亭を就職先に選んだか?

私が棕櫚亭を勤務先に選んだのも、そういう多様的な見方や考え方が仕事に許されているからです。荒木さんとの書簡で自分が気づいたこともたくさんありました。境界という考えをもたないほうが働くにはいいということも最後に気づいたことでした。それは回りから合理的配慮してもらうこととは違います。職員としてもつ立ち位置的なものです。

天野前理事長と始めた当事者活動

私は棕櫚亭に入職して天野前理事長とSPJ(棕櫚亭ピア事務局)という当事者の活動をはじめました。構成メンバーは主にオープナーの方が多いです。そこで話された事柄は秘密保持で他では話していけないというルールがあります。私はここで発言することで自分の不安感とか恐れる気持ちを解消しています。これはおそらく障害者というレッテルを「はがそうはがそう」という努力にも似ています。障害者だからこう見られているのではないかということを語りながら、うなずいているメンバーさんをみて安心します。他の方はどうかわかりませんが私の場合はこの茶話会に参加することで、また一週間がんばろうという気持ちになれます。

ここは障害当事者が集まっているという意味ではボーダーレスです。

こういうふうに考えると、境界とは社会の側からは都合よく考えられた言葉で、自分の気持ちのなかでそれを取り除けばとも思います。
荒木さんが「往復書簡の初め」で書いていたとおり、「障害者がリハビリして社会にでていけば私たちの仕事はなくなる」という考えもあったということでした。
でも現実に仕事をしていると、それも不可能だし、専門性の高いワーカーも必要です。その点では荒木さんと意見が一致しています。精神の福祉の分野では障害のない職員がメジャーで当事者スタッフはまだまだ少数です。いくら当事者に追い風が吹いているからといって力の差はあります。今年の5月で雇用されて5年たちますが、当事者性を追い求めて、特色のあるメンバーさんとの関わりを持とうという姿勢はかわりません。職場の上司にはピアスタッフだからできる仕事をしてほしいと言われています。でも私は雇っていただいたからには、なんでもやるつもりでいます。そこから多様性が許されている「棕櫚亭の精神障害にある方の幸せ実現」にすこしでもお役に立てればという思いがあります。
もちろん卓球も一生懸命やります(笑)

荒木さんの手紙で効率性を追い求める社会というのが、それだけではなく無駄もあってもいいと書かれているのを読んで、人間の幸せって無駄にあるものかと思いをよせました。
効率性を求める現代社会も福祉の分野ともうっすらボーダーが引けるのかもしれません。
そんな思いをもったのも、長い間企業にいたという経験があるからかもしれません。

でもそこに境界を引くつもりは今はありません。

最後に

半年の間ホームページにアクセスして読んでいただいた皆様にも感謝しています。
拙い文章で気持ちが伝わったかわかりませんが、境界線を探った結果を自分なりに書かせていただき最後にしたいと思います。

草々

櫻井 博

※いつも「往復書簡」読んでいただきありがとうございます。

手紙でのやり取りは、この号で終了となります。半年にわたりありがとうございました。3週間後の5月30日にスピンオフで「対談編」を上梓して「往復書簡」は完全終了になります。

この5月という時期があまりに忙しすぎて二人で話す時間がないのです。しばしお待ち下さい。本当にごめんなさい。

櫻井 博 & 荒木 浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑭ “目にはみえない境界線を越えて幸せを考える -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/04/25

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

 

往復書簡を読んで下さる皆様へ

半年という短い期間でしたが、次号が櫻井さん最後のお手紙、締めくくりは、書簡を終えての二人の対談でフィナーレとなります。従いましてこの回が私にとっての最後の手紙となります。このような場で書くことの重責から解放されホッとしているのが率直な感想です。一方、これまで文章を書きながら、いろいろな方の顔を思い出しながら、私なりに伝えたいメッセージや問いかけを綴る喜びがあったのも事実です。本当にお付き合いいただきありがとうございました。

このミニマラソンも最後の競技場に入ってきました。残りわずか、息も切れ切れですが、完走したいと思います。

目にはみえない境界線を越えて幸せを考える

前略
櫻井 博 さま

本当に気持ちの良い暖かな季節になりました。

ただこの春という時期は、一面穏やかな顔を見せながらも、特有の突風で、歩く道を遮るような意地悪をしてきます。暖かさにつられて洗濯物を外に思い切って出すのですが、帰ってきたらベランダにそれらが飛び散って、泣く泣く洗濯をもう一度しなければいけなくなるという経験はこの季節に多いような気がします。

 もう半年もたつのですね。そもそも、この往復書簡の始まりは、櫻井さんと私の原体験の一部をさらけ出してそれを切り口にしながら「当事者職員と(健常者)職員の境界線を探る」という大命題を掲げたことでした。この問いに対して私なりの「答えはでたか?」というと、潔く「No」と、うな垂れるしかありません。すみません、櫻井さん、私の力不足でした。

そもそも、対外的には法人事務長という肩書通りに顔半分事務職の私が「職員のありよう」を語るということには無理があったのかもしれません。他にも優秀な人材がいるにも関わらず(笑) ただもう一息頑張りたいと思います。

 

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

 

ソーシャルワーカー(福祉職員)のありよう

私の苦手なことはたくさんあるのですが、人に物事を伝えるということがその一つです。具体的に言うと、職員の教育がとても苦手です。敢えてかっこよく言えば職人気質の職員などと言い訳できますが、今時は全く流行りません。勿論、手をこまねいていても仕方ないので、少しでもそれらしいことを語れるように、時々は学生向けのやさしい本を読むようにしています。ずいぶん緩く書いているなぁと思うものもありますが、その言葉の平易さが人に伝える上では非常に参考になることがあります。

そのように読み漁った本の一冊に(恐らくはやはり学生向けに)「福祉職員のありよう」について書いてあったものを見つけました。この本がとりわけ素晴らしいということでもなく、おそらくは他の本にも同じような意味を綴った文章はあると思います。しかし私たちが書簡を始めるにあたって掲げた「当事者職員と(健常者)職員の境界線を探る」ヒントになるかと思い、少し長いのですが、転載してみました。読んでみてください。文中には「ソーシャルワーカー」と書いてありますが、「福祉職員」と読み替えてよいのではないでしょうか。

恐らく、限りなく理解し、その人に近づこうとすることはできても、本当にその人やその人の人生を理解することなどできません。その人だって自分のことなど本当は分かっていないのに、他人である私にその人のことを理解などできません。(中略)
ソーシャルワーカーの営みは、どれだけ限りなくその人に近づけ得るかにあると思います。限りなさの程度というか限界は、ソーシャルワーカーがどれだけその人の人生を追体験できるか、どれだけ豊かに想像できるかにあると思います。出会った人から直接的に学びとると同時に人類が歴史的に蓄積してきた文学、音楽、芸術、哲学等々、人間を理解するための様々な遺産からどれだけ学びとっているかにも、かかっていると思うのです(以下略)

『ソーシャルワーカーという仕事』 宮本節子 著(ちくまフリマー新書)より抜粋

障害者・健常者以前に私達はソーシャルワーカー(福祉職員)である

上の文章から読み取れることは、3点あると思います。

①どんな人であろうとも、他者の人生の理解は難しい

②しかしソーシャルワーカーは、支援する人の人生を追体験し、豊かに想像することで近づくことが大切

③そのためにもソーシャルワーカーは、直接支援のみならず、歴史的な蓄積からも学ぶべきである

 健常者であれ、当事者であれ私たちは「福祉職員」だから、やるべき仕事は同じです。但し、精神的な病気を体験したという点、つまり追体験という意味では、当事者スタッフの方がメンバーさんの近くにいることは間違いないでしょう。しかし、それでも他者の人生の理解の深い部分は、当事者であろうと「他人である」以上、理解することは難しいのだと上の文章では書かれています。わたしもその意見には同意します。

その意味では櫻井さんが今も自分の経験に胡坐(あぐら)をかかず、いろんなことに挑戦しながら視野を広げていく姿勢は素晴らしいと思うのです。つまりは「健常者スタッフ」であろうと「障がい当事者スタッフ」であろうとこの仕事を選んだからには、経験ということにとどまらず、想像力を深め、文化的な角度からも見聞を広げる努力を続けなければいけないということなのでしょう。

繰り返しになりますが、今回の櫻井さんとの往復書簡では、「当事者職員と(健常者)職員の境界線を探る」という命題を立てながらも力及ばずついに境界線を見つけることはできませんでした。健常者であれ当事者であれ職員の間に引くような線、つまり「境界線なんてものはそもそもない」のかもしれませんね。櫻井さん、それを現段階での私の結論とさせていただくことを許していただけますか。

そして本当の締めくくりになりますが、次のことにふれさせていただき、筆をおきたいと思います。

幸せな社会を、そして棕櫚亭を、どのようにデザインしていくかこれからも皆で考えていきたい

私たちは、ロボット演劇の研究を通じて、人間を人間たらしめているものは何かを追求してきた。(中略)そこでわかってきたことは、どうも私たちがロボットなりアンドロイドなりを「人間らしい」と感じるのは、その動きの中に無駄な要素、工学者が言うところの「ノイズ」が、的確に入っているときだという点だ。(以下略)

『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』 平田オリザ 著(講談社現代新書)より抜粋

現代社会の中で、高い価値とされるものの一つに「効率(性)」というものがあるような気がします。「効率的に税金を使う」とか「効率的に働く」という言葉は、マイナスのイメージがわきにくいですね。そしてこの「効率」という言葉は福祉分野にも根付きつつあります。例えばそれは株式会社など営利企業の福祉事業参入ということです。少ない資金で「効率的」に利益を上げようとする営利企業の活動理念と、限りある税金を福祉に「効率的」に使う行政改革の流れとが結びついているのが現代の福祉の特徴の一つだと考えています。

その一方で、社会福祉論などの学問では、福祉社会とは「人間らしい」生活を営める社会であると教えられます。そして先ほど書いた通り、劇作家の平田オリザさんは、「人間らしさ」について「無駄である」という要素で語っています。これは大変興味深く、私は思わずうなずいてしまいました。私自身が無駄に気楽に生きているからそう思うのでしょうか?

営利企業の福祉事業参入など福祉の「効率化」が進む中、福祉学部の教室では「福祉社会とは『人間らしい(無駄ともいえる)』生活だ」と教授に教えられる状況には想像するだけで目が回ってしまいそうです。

あくまで誤解の無いように書いておきますと、私は決して「効率的な社会」や「株式会社」が悪いと言っているのではありません。努力をして、障がい者雇用で就職し、幸せを得た障がい当事者の方を沢山見ています。彼らを受け入れてくれているのはそのような社会であり、会社であることは間違いありませんし、皆さんのその笑顔に嘘はありません。ただ私がここで言いたいことは、社会の仕組みが一層効率的になりすぎた先に、私たちの幸せはあるのかという不安です。どのような社会が望ましくて、どのようなさじ加減でデザインしていくか、つまり「幸せな社会」を選び作っていくのは私たちの権利であり、大げさに言うならば、使命だと考えています。

そして同時に棕櫚亭の職員である以上、精神障がい者の方の「幸せ」実現、つまりは法人理念実現に向けて、社会の中ではほんの微力でも力を尽くさなくてはいけないのです。

さて、櫻井さんには、最後に職員として「棕櫚亭の目指す精神障がい者の幸せ実現」の何を担っていただけるのか、何を担いたいのか語っていただけますか?最後の無茶ぶりです。

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑬ “ボーダーレス社会の苦悩-櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/04/11

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

ボーダーレス社会の苦悩

前略
荒木 浩 さま

春がやってきて桜がさいています。また気持ちのいい季節がやってきました。
私はこの心躍る春が大好きです。
この手紙が公開される頃はすっかり桜も落ちてしまっていると思いますが。
実は去年の夏ごろ富士山に登ってみたいと、考えていました。初めての登頂なので一緒に荒木さんを誘ってと思っていました(笑)。荒木さんは5回も登っていたのですね。凄いですね。
私は登山用具が予算ではそろわないことを言い訳に登頂はあきらめていました。
回りのスタッフも勧めませんでしたので。
私を含め当事者は体力があまりないので、一人で歩き通しはきついし、練習も必要かと思います。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

自分探し

そうそう私の大学生の頃、卒業しても「自分探し」といって就職せず、世界を旅する人にこの言葉は都合のいいように利用された感がありました。
最近では、あまり「自分探し」は積極的意味では使われていないように思えます。
ある評論家は「自分探し」は他者と出会わなくては自分もわからない。という相対的に自分を観てみるということも言っています。
荒木さんの手紙を読むと意味がすこし違うような気がしました。
人間だれしもが悩むもので、自分の感じ方、好き嫌いを掘り下げることと。
この意味での「自分さがし」は大切な気持ちだと思いました。自分探しはしなかったですが、働いて辞めてまたアルバイトなどの生活は、他人から見れば自分探しをしているのだなと見方もあったかもしれません。
急性期が終わり自宅にもどった時、昼間、「眠たくて眠たくてしょうがない」時がありました。家ではしょっちゅうごろごろしていました。この時、家で「自分探し」をしているとは到底思えませんでした。

棕櫚亭のボーダーラインとしての機能

以前に棕櫚亭との出会いについて書きましたが、棕櫚亭がなかった時は自分と病院そしてその後ろの社会との境目はなかったような気がします。棕櫚亭をボーダーラインと考えたのは、そこに線をひいてくれるラインとしての役割があるような気がしたからです。
そのラインは自由に動き移動してくれます。社会をそして自分を観るとき、ラインを上下して、自分と社会を俯瞰的(ふかんてき)にみることができます。棕櫚亭はもちろん社会的集団ですが、そこに属することで社会や自分を再考できます。
その意味で私も自分探しの途上かもしれません。

何をもって幸せというのだろう?

荒木さんが死にゆく最後の瞬間幸せと思うことを目標に生きている、という荘厳なテーマをもって暮らしているのを知って感銘を受けました。
私は死ぬ瞬間笑って死にたいと思っています。
そろそろ交わしてきた手紙も佳境にはいろうとしていますが、荒木さんは好きか嫌いかその際で悩み進み動くことが大事と言っています。このあたりにボーダーラインの秘密が隠されていると、思いました。

ボーダーラインの本質

今仕事をしている上司に「物事を決めがちな傾向にある。」と言われたことがあります。先の書簡で荒木さんは好きか嫌いかにもラインをひけない。ひこうとしない。
それに関して私はそのラインにこだわりどっちかの側にいようとする。
性格的にラインを引くことをしてしまいますが、実は世の中のことはラインが引けないことのほうが多いことを荒木さんは言っているような気持ちがしました。
「自分探し」についても、時間が無駄かそうではないかではなく、そこで悩むことに意義があると言っています。私はこのことからボーダーラインはそこにありきではなく、うっすらとあるような感じかなと思います。病気になってしまうのはラインを濃く引きすぎた為、中間あたりにいられなくなってしまうからではないかと思いました。
そしてこの状態はストレスだなと感じました。
でもボーダーラインが引けない世界に生きている人にとってはより苦悩もあることも知ってほしいです。そのあいまいな世界で生き方を見失ったり、回りから拒否されたこと、妄想の世界に入ってしまう人もいるかもしれません。
ある人の人生が人類の歴史からみれば、点かもしれません。人生は短いことを考えると密度の濃い時間を送りたいと思います。「ぎゅーっ」と凝縮された時を過ごす。それは私の望むところです。

荒木さんが言われる一度しかない人生だから、いろいろな人生であっていいし、自分が選んだことを大切にしていきたいと思いました。時間を考える時人生はつねに動いているし、荒木さんの書簡での「ムーブ」(動く)ことは大切なことなのですね。

当事者スタッフと健康なスタッフのボーダー、当事者と健常者のボーダー、病気の人そうでない人。それらを探りながら、次回の返信を待ちたいと思います。

草々

櫻井 博

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑫ “誰にとっても、選んできた「人生に間違いはない」 -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/03/28

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

誰にとっても、選んできた「人生に間違いはない」

前略
櫻井 博 さま

寒い冬もいつの間にやら消え去り、冬には気にも留めなかった木々に赤やピンクが色づいているのをみて、気持ちまで暖かくなるのを感じます。

さて、この往復書簡も秋に始まり半年がたとうとしています。少し大げさに書かせていただくと、文章を書くということは身を削り取るようなものだとつくづく感じさせられたものです。自身の内面を描く行為は、例えるならば、鉛筆の黒い芯の部分を削っているようなものだという感覚です。私の場合、太い芯があるわけではないので、ゆっくり、そろそろと削らないとポキッと折れてしまうのではないかと思います。まあそういう意味ではこの半年の間にただでさえ細い芯を結構を削ってしまったので、近々この書簡の幕引きを考えたいと思っています。芯の太い櫻井さんには、誘っておいて申し訳ないのですが。

さて、櫻井さんの前回のお手紙の最後に「荒木さんは幸せですか?」という世にも恐ろしい質問をいただきました。櫻井さんにはどのように映りますか? 想像ですが、多分私のまわりの方には「荒木さんは幸せだよね」と言ってくれると思います、何となくですが。少し楽観的すぎますか?

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

 

 本心はどこにある?

話は少し脇道に入りますが、私は「富士山」が大好きです。告白すると5回ほど登頂しています。でも富士登山が楽しいと感じたことはこれまであまりありません。7合目あたりからの急登にしても辛いという思いこそすれ、山頂での眺めが「こんなにも素晴らしい」なんて感じたことは正直ありません。いわんや登り切ったという達成感なんて沸いたことがほとんどありません。山頂からの景色に関していうと、ガスっている(くもっている)ことなど2度ほど経験していますし、「ああそうですか、こんな風景なんですね」という程度です。「これぐらいの風景ならほかにもあるよ」とも思います。櫻井さんはこんな言葉聞いたことがありますか?「富士山に2度のぼるバカ」。これは「『一度は経験』と登るのはいいけど、あんなつまらない場所に辛い思いをして二度も行くのは馬鹿だよ」ということらしいです。言いえて妙だと私は思います。

それでは「いったい富士山の何が好きなの?」と問われると、即答で「富士山のある風景が大好きです」と答えます。「私は日本人だ」という意識の欠如は、オリンピックやWBCといったイベントに全く興味がないことからも明らかなのです。

しかし富士山のあの端正な山容を望むどんな景色も素晴らしいと感じます。なけなしのお小遣いで一眼レフのカメラを購入した動機の一つにもなっているほどです。

繰り返しになりますが、登る富士山は好きではないけれども、観る富士山は大好きなのです。

と、ここまで書いたときに私を知る人からは「『辛いし、景色も良くないし、臭いし』なんてこと言っても、5回も登っているのだから登るのも好きなんでしょ」と突っ込まれます。このようなツッコミを受けて思考停止する私は、実は「富士山に登るのも好き」なのかもしれません。案外、他者の目でみて感じた「あなたって実はこうだよね」と言われてしまう評価の方がその人の本心や本質(あるいはその一部)を正確に言い当てているのかもしれませんね。

 主観と客観の際で自分を探す

そういう意味では、食べ物の嗜好などは別にして、「好き」と「嫌い」などという感情は案外表裏一体なのかもしれません。前回の手紙で櫻井さんから「荒木さんは幸福ですか?」という問いかけをしていただいたわけですが、その答えは「私はなかなか実感しにくいのだけれども、(他者からそう見えている以上)実は今、幸せといえる」のかもしれませんね。

但しこの回答では、櫻井さんの問いを少しはぐらかせたようなところもあるかもしれないので、真面目に補足しておくと、「死を迎えた瞬間に『私の人生は幸せだった』と感じること」が私の生きる上での一つの目標なのですよ。言うは易しですが…

このように自分の事ながら、正解を持ち合わせていないことや明確に理解していないことは往々にしてあると思います。例えば何かに対して「いったい私は好きなのか?嫌いなのか?」という迷いに始まり、「一体自分は何を考えているのだろう」、そして「私はどのように生きていけばよいのだろう」ということにまで思いを巡らすことを「自分探し」というようですが、これはある時期、濃厚に必要だと感じています。せっかくこの世に生を受け、たった一度の人生を通じて「自分」のことを深く理解したいと思う気持ちは誰もがあるべきだと思います。勿論、障がいの有無に関わらずです。

 でも、一度きりの人生だから走り出してみる

とはいえ、少しだけ年齢を重ねた今、私から言えることは「自分探し」は頭の片隅に置きながら、ともかくも考えたことを身体化することも大切なことなのではないかと思います。先ほどの話で言うと「好き」か「嫌いか」というような解かりやすい感情でさえも、深く考えれば考えるほど曖昧になっていきますし、そこには絶対というものはないと考えるからです。今勤務しているピアスでは、メンバーさん(利用者)が就職準備訓練のなかで自己と向き合い、理解し、葛藤しながら行きつ戻りつ受け入れようとする姿勢、歯を食いしばって通ってくる姿勢には感銘を受けることしばしばです。

私も頭でっかちになってしまうところがありますが、「ムーブ!(動こう!)、ムーブ!」と自分を鼓舞して、迷いを片隅において動き始めるようにしています。外国映画の観すぎでしょうか(笑)

こんなことを書いていると、「今年も富士山に行きたいなぁ」なんて考え始めました。6度登る馬鹿も突き抜けていて面白いかもしれません、一度きりの人生ですからね。

そう「一度きりの人生だから…」という言葉は、私の中では字づらだけではない重みのあるものになっています。櫻井さんにとってもそうだと思いますが、いかがでしょうか?

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

トピックス